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[定期] web footballistaより ('22.1.26)
2022年01月26日 (水) | 編集 |
昨年末の使い残し+α。
こんな2か月も間空く予定じゃなかったんですけど光陰矢の如しで。


後半の戦いぶりに見た“5レーン対策”攻略の糸口とは?オマーン対日本分析 (らいかーると 2021.11.18)

左サイドの内側レーンで田中が三笘のサポートをするとして、南野は中央レーンと右の内側レーンを共有しているようだった。日本の選手の特徴として、2つのレーンを共有しているくらいの自由度がある方が良さが出る選手が多い。その一例が南野で、右の内側レーンから開放された後はらしさを発揮できそうな雰囲気に満ちあふれていた。なお、その後に登場する古橋亨梧によって大迫も中央から開放されて元気になったことも見逃せない点だった。

[4-3-3]で5レーンに選手を当てはめていくよりも、2から3のレーンを選手で共有するくらいの方が日本の選手にとっては持ち味を発揮しやすいと感じさせられる後半戦だった。5レーンへの対策が進んでくる中で、隣り合うポジションは同じ列にいてはいけないルールを逸脱することで、相手が守備の基準点を見失ってしまうことが多くなってる。


日本のスターティングの4-3-3の5レーン配置に対してオマーンが余裕を持って対応して来て活路が見出し難かった前半から、三苫投入で4-2-3-1にシフト後の変化の話。フォーメーションそのものではなくて、特に左FWで先発の南野と左インサイドの田中碧が大外と左内側を交互に使っていた前半に対して、トップ下に移動した南野が(伊東と?)中央と右内側を「共有」するようになったその変化が大きかったという話。
"5レーン"を前提としてそこからどのように変化をつけるか使い方を工夫するかということ自体は各国各チーム/クラブが日々やっていることでしょうが、その工夫の活路の方向が"共有""曖昧化"の方に特にあるように見えるのが日本的特徴なのかもというらいかーるとさん。

問題はこれが"工夫"のバリエーションの一つなのか、"否定"に近いタイプのものなのか。らいかーるとさんご自身は何か色々予感しながら、あえて触れずに終えてる感じに見えますがそれはともかく。(笑)
思い出すのは例えば前回取り上げた、こういう話。

岩瀬「ただ日本人は、この線の内側なのか、外側なのかをすごく真面目に守る選手が多い印象なので、ピッチの白線に基づいた5レーンのように動かないレーンを基準にプレーすることは簡単である一方、柔軟に対応できないデメリットもあるかもしれません。状況によっては、レーンにとらわれすぎて、バランス良く立っているけど、人とボールが前に進まないことも起こり得ます」


守らせると守るだけになっちゃうけど好きにやらせると無秩序になる、これが両極端なので"中間""中庸"のポジショナルプレーの日本での実行に難しさがあるのかもしれないというのが前回の話。
では森保ジャパンの(らいかーるとさん観察による)バリエーション/運用をどう見るかですが、当面5レーンを"前提"にした変化なのは確かだし前提にあるゆえの変化の効力でもあったとは思います。ただもしこれを"スタイル"として継続しようとした時に、もう1,2歩ですぐ日本的無秩序に、"ザッケローニのゾーンをご破算にする本田・香川チーム"的な状態がすぐにも出現しそうな怖さが僕にはあります。それくらい、自分(日本人)で自分(日本人)を信用できないというか。(笑)
確かにあれから代替わりして、世界/欧州マナーへの馴染は確実に進んでるとは思いますが、個人差はかなりあるでしょうし日本人"だけ"で集まった時に起こる現象についてはまだまだ全然油断が出来ない。監督自身が日本人だというのもありますしね。せめてオシムくらいに(好意的ではあっても)客観的な立場の人が仕切っていれば、"遊び"を安定化させることも出来るかも知れないですけど。
だから今の所は、ポジショナルプレーの日本的運用とか"日本化"(笑)なんてことはそう簡単に怖くて言えない、あくまで"合わせる""学ぶ"方が当分メインになるべきだとは思いますが。らいかーるとさんの観察・言語化も、要は"レーン"という観点で言ってみたらどうなるか程度の話だと当面は理解していますが。
まあ"前半真面目にやって後半不真面目にやってみる"程度の使い分けなら、単純ですが単純な分安全で一定の効果はあるかも知れないですね、この試合のように。その場合でもやっぱり、"真面目"部分の効果をもっと上げる、構造を頑強にする努力は続けないと、恒常的効果は望めない、上のレベルで通用しない、下手するとあっという間に"不真面目"に呑み込まれる危険は感じる訳ですが。
とりあえずそこらへんにでも注目して、27日の中国代表戦を見てみようかなと、これは今思い付いた締め。(笑)


「笑いは求めていない」「話さなくてもいい」――Jリーグのメディアトレーナーが語る、アスリートの情報発信論 (玉利剛一 2021.10.07)

――東京五輪では、そうした発言内容が話題になった選手がいた一方で、喜友名諒選手(空手)のインタビューに代表される “沈黙”も言葉以上に伝わってくるものがありました。

 「サッカーで言えば、久保竜彦さんのような“話さないこと”が自身のブランディングに繋がっている例もありますよね。メディアトレーニングをしていると、『僕は面白いことを言えないので、メディア対応が嫌いです』と言う選手が時どきいるのですが、アスリートに笑いは求めていない。ファンが面白いと思うことは笑いではなく、興味があることです。それを素直に話せばいいと伝えています」


今回唯一の無料記事。でもいい記事だと思います。
メディア対応についての"公式"のアドバイザーに対するインタビューですが、分かってる人だなあという感じ。
そうなんですよね、芸人や学者/作家(等言語の専門家)じゃないんだから、"面白いこと"を言う必要は無いんですよねスポーツ選手は。
面白いのは貴重なのは、スポーツ選手としての彼自身彼がしていること出来ることそのものなので、能弁だろうと訥弁だろうとプレーヤーがプレーヤーとしての自分自身に"正直"に言語化の努力をしてくれれば、そこに必ず何らかの面白さは発生するんですよね。逆に上手いこと巧みなことを言おうとすると、全然面白くないかあるいは"芸人"等と同じ土俵に立った別の次元の言語的面白さの勝負になってしまう。結果面白いか面白くないかはともかく、それはまた別の話。・・・まあたいていは三流の芸人がそこに立っていることになるわけですけど。

更に言うならば、そもそも言語的"面白さ"の重要な本質の一部として"正直さ""素直さ"はあるんだなとここ数年の経験として感じさせてくれたのが、別競技の話ですが女性プロ麻雀"プレーヤー"の高宮まり・茅森早香の両選手。

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今でこそお二人は高宮さんは常に変わらぬ篤実で丁寧な受け答えで、茅森さんは飲み屋の女将的(実際にそうらしい(笑))な客あしらいの良さで、試合後コメントの外れの無さでは"女流"の愛嬌を差し引いてもMリーグで屈指だと僕は思うわけですが、MONDTVの老舗タイトル戦女流モンド杯でテレビ対局デビューした当初の二人は全く違ったんですよね。(茅森さんは'04年22歳、高宮さんは'13年25歳の時に共に初出場初優勝)
高宮さんは何を聞かれてもほとんどまともに言葉が出て来ず年齢を考えてもぶっちゃけ普通に地頭レベルで問題があるのではないかとしばらく疑ってしまっていたレベルのコメント下手でしたし、茅森さんに至っては、"塩対応"なんて表現では収まらないくらい、個別の質問の"内容"にではな質問"された"こと自体に怒ってるような、この人今テレビに出てること(しかも自発的に)分かってるのかなと不思議になる異常な愛想の無さ(笑)で、大概の変わり者は好きな僕ですら若干反感を持たざるを得ないような(だってインタビュアーが気の毒過ぎるんだもの(笑))コメント対応を毎回繰り広げていました。
それがまさかねえ。今日のような鉄板コメンテーターになるとは。

後に/時間が経つにつれて分かって来たのは、二人がそれぞれに、人並み外れて"正直"な人だということで。正直ゆえに、答えられなかった、言葉が出て来なかった。それが真相かと。
高宮さんは、これは今でもそうだと思いますが聞かれたことに常にある意味必要以上に、120%正確に答えようとする、そういう人なんですよね。そういう言葉のプロでも実は難しいことを、言語能力が特に高い訳でも職業的熟練がある訳でもない人が、メディア慣れもまだしていなかった時期にそれでもやろうとして、簡単に言えば実力が追い付かなかった言葉が用意できなかった、それによってただ"黙り込む"という反応になってしまっていた、そういうことだと思います。てきとうにそれらしいことを言ってその場をやり過ごすということが、技術的にもそうですけどそれ以上に性格的に、出来なかったんですね。
繰り返しになりますがメディア慣れした今でもそれはそうです。必ずしも"気の利いた"ことを言う人ではないですが、出来る限り正確に答えようとする突っ込み気味の姿勢自体は健在で、結果平凡なワードを用いていてもそこに必ず高宮さんなりの誠意や真実が感じられます。(だから"面白い")

茅森さんの方は、高宮さんにはない"狷介""偏屈"なところは確かにあって、それが塩対応の理由の一部にはなっていたと思いますが、ただそれは気取ってるというよりもやはり正直さ、競技者としての純粋性という形のもので、簡単に言うと自分がそれなりに命を懸けて行った選択/プレーを、そもそも他人に"説明"するという頭が最初の時点では抜けていたんだと思います。増して疑問を呈されたり他の可能性を示されてそれについて何かコメントするという行為の、意味が分からなかったのではないかと(笑)。それをあなたが考えるのは勝手だけど、どうして私が何か言わないといけないのかと。
極端なようですけど、本来プレーとそれに対する批評・コメントは、別の事なのでね。勿論別の技能でもあるし。だから名選手が名監督でなかったりもする訳で(笑)。そうは言ってもメディア社会の現代においては何かとセットにされがちではあるんですが、人一倍正直で北海道出身の素朴剛毅な(?)若き茅森さんには、本来の形通り、別ものであったのだろうと。(もう一つはこれは今でもそうですが茅森さんは特に手牌の方針決定に関して非常に即断的排他的な判断をする傾向のある人なので、それ以外の可能性との比較に余り意味を見出せなかったのではないかなと。そういうことを論じるのが、試合後"コメント"の主体な訳ですが)

ただ茅森さんは高宮さんに比べても所謂"頭のいい"人なので、やがて"見られる"自分"論じられる"自分というメタ的領域の存在を認知して、それ用の人格も形成していくようになります。そこらへんは"正直"一本でじりじりと適応成熟の道を歩んで来た高宮さんとは、違うところ。
中身は特に変わってなくて、あくまで新たに作った外交用の人格だと思いますけど。
一方で別の要素としては、若い時は「偏屈」として出ていた剛毅な気性が、やがて(元々そうだったのかも知れませんが)男っぽいサバサバとした、寛大で鷹揚な性格としても表現されるようになって、外交用人格のサービス精神とも矛盾が無くなって来ます。そうした要素の助けもあって、嘘はつかない白々しいことは言わないけれどサービス精神もある"客"あしらいの上手な、インタビュー対応の名手としての茅森さんが形成されたんだろうなとそういう感じです。

ほんといいんですよね、二人のコメントは。それぞれ。訥弁寄りの高宮さんと能弁寄りの茅森さんという違いはありますが、どちらもその場凌ぎのどうでもいいような言葉は決して発しない、必ず何らか"本心"に基づく"情報"がある。だから退屈しない。
そして究極、競技者にとっての"言葉"なんてのはそれさえあればいいんだと思います。競技者は競技者であること自体が価値であり特別性であるのであって、それを修飾する言葉の技巧でそうなる訳ではない。競技者としての自分、競技者として感じたこと感じていることと正面から向き合って言葉にする努力をしてくれれば、結果能弁だろうと訥弁だろうと何なら沈黙であろうとそれがその競技者にとってその時の正しい言葉であり表現であり、我々にとっても"面白い"コメントになるんだと思います。
正直素直率直、それさえあればとりあえず用は足りる筈。結果出て来る言葉に多少偏りがあっても説明不足だったとしてもそれはそれで構わないし、分からなければ"分からない"でも別にいい。"分からない"というのも立派な「情報」なので。分かる振りやその場凌ぎが一番情報として意味が無い。
・・・コメント/言葉自体が仕事であるならば、また別の要求もある訳でしょうけど少なくとも現役の競技者としてはね。

というようなことを取り分け感じさせてくれる、2人の元"コメント下手"女流プロ雀士の8年~10数年にわたる"成長"の軌跡よという話でした。(そっちがメイン?)
別に実際に10数年見続けて来た訳ではなくて、競技の特徴的に繰り返される再放送でそれぞれの時代を比較検討出来た、そのおかげということですけどね。


風間八宏はセレッソ大阪のアカデミーで何を変えるのか (竹中玲央奈 2021.11.16)

こちらはこちらで、「言葉」の問題。

極論、下手でもできるものを作るのではなくて、うまい人しかできないものを作らないとダメだということです


"『止める』『蹴る』『運ぶ』『外す』『受ける』"も"目を揃える"も、風間氏の指導内容や概念自体に価値が無いとは思いませんが、しかしこの言い方はどうだろうと思います。
上の"競技者"の言葉と違って指導者の言葉が可能な限りの一般性を目指す以上、やはり「下手でもできるものを作」った上で、「うまい人」なら尚更効果が上がるという構造を目指すのが、そういう"順番"で語るのが、やはり穏当なのではないか。いかに"極論"と前置きしたとしても、"うまい人しかできないもの"を作らないと「ダメ」というのは、やはり言い過ぎな気がします。その言い方が排除してしまうものが多過ぎるというか、"『止める』『蹴る』・・・"にとっても不幸というか。
そんな言い方さえしなければ受け入れられるかもしれないサッカーの重要な側面を、無駄に位置づけを難しくしてしまうというか。
さぞかし指導者内の"派閥"的なものと日々戦っているのかも知れませんが、それはそれで何とか心の内に収めてもらって、"分断"で票を集める的なアプローチはやめてもらいたいと、まあそんなこともないのかも知れませんが。
とにかく気になりました。どんないいことも、言い方で台無しに出来るので。

川崎の時も筑波の時も名古屋の時もそうですが、練習の中で私がデモンストレーションをして『相手を外せばいいんだよ』『そこに出すんだよ』と言って指導している場面でも『何が見えているのかはわからない』とコーチに言われることがありました。『それをわかるようにしてもらわないと困ります』とも言われていて。接した選手であっても、私が何を見ていたのかわからない人も多かったと思います。そこから……ではないですが、自分が見ているものや感じているものを表現しなければいけないなと。

やはりもっと一般性をという注文は、日々受けてはいるようですね(笑)身内からも。ご本人もそれを受け止める気が無い訳ではない。
高度なレベルを目指しているから分かり難いというある程度致し方ない部分と、位置づけ/対象化が不十分だから(無駄に)分かり難い通じ難くなっている部分が、やはりあるようには見えますね。少なくともこのインタビュー記事を読む限りでは。


「日本」と「欧州」の差は埋まったのか?フットボリスタがJリーグを特集した理由 (ジェイ 2021.09.26)

――chapter2は育成についてですが、北さん(注・J特集号のマネージングディレクター)は実際にヴィッセル神戸のアカデミーを取材されて、バルサ化の状況をどう感じましたか?

北「ただの標語としてのバルサ化ではなく、思っていた以上に取り組んでいるなという印象でした。(中略)
サッカースタイルもそうなのですが、それ以上に、サッカーの言語やプレーの定義などを明確にしようという試みが面白いなと思いました。

浅野「神戸がやっているのは林舞輝さんの本にもあったパコ・セイルーロの構造化トレーニングに近くて、戦術的ピリオダイゼーションとは対を成すものですよね。簡単に言うと、世界でもバルセロナしかやっていない選手から逆算したトレーニングですが、それをものすごく本格的にやっている。


へえと思ったので紹介しますが、僕自身は何の責任も負えない記事。(笑)
トップチームの"バルサ化"の現状に肯定的な評価をする人は、僕の立ち回り先にはおよそ見当たらない今日この頃ではありますが。
下部組織ではそれなりのことが行われているらしい。浅野編集長がそんな出鱈目なことを言うとも思えないですから。(笑)
これから時間差でその成果が表れて来る、のか。
あるいはもう表れてはいるんだけど、現監督の(よく言えば)現実主義的なアプローチがそれを見え難くしているだけなのか。
今年も潮音はお世話になる事ですし、まあ期待しておきます。(若干棒読み気味)

それにしても、少し意外な記事でした。(笑)
てっきりもうそういうのは無かったことになってるのかと。
聞いてみないと分からないものですね。
まあ大きなクラブ程トップとそれ以外は別物になりがちという例なのかもしれない。


以上。


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テーマ:サッカー
ジャンル:スポーツ
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