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「立場」をどこに置くのか 〜一般社会編
2006年05月10日 (水) | 編集 |
前回

その”立場”あるいは”みなし”ということでそれ以外に気になるのは・・・・というよりこっちが親玉でしょうが、「自分を『社会』の側に置いているか/いないか」という党派性です。

この『社会』はより哲学的に『秩序』と言い換えてもいいですし、逆により端的に『市民社会』とするのも可能。それと「置いていない」というのは、それで即ち”反”社会的であるとか特定の思想・団体に与しているとか、そういう積極的な意味ではありません。もっと前意識的で漠然とした”みなし”の問題。

具体的には死刑問題とか、少年法の問題とか、よりトピックス的にはかつてのオウム/新々宗教や、最近の”ニート”などをめぐって。それぞれがそれぞれに特有の法律的政治的経済的etc文脈を持った「問題」ですが、共通しているのはそれら固有の文脈を越えて非常に感情的な反応を惹起する問題であること。
言い換えれば、それらの背後にある『社会』や『秩序』というものに関する、その人の基本的な立場や態度が透けて見える”踏み絵”的な問題であるということ。

・・・・んー、なんか先回りして結論を言ってしまった感じですが。
そうですね、これらの問題についてそれぞれがそれぞれの理屈でそれぞれの主張を述べるわけですが、僕にはそれらの主張や論旨を決定しているものが、論理や増してやデータなどではなくて、要するに出発点/前提、「自分を『社会』の側に置いているか/いないか」という立場の問題でしかないのだということを最近とみに感じる機会が多いのですよね。
前回の「分かると思えば分かる、分からないと思えば分からない」に続いて慣用句的に言えば、「物は言いよう」とかかな。決まった結論に向けて編集しているだけ。

勿論自分を『社会』の側に置いていれば、「死刑賛成」「少年法反対(限定的適用)」「オウム/新々宗教全否定or無理解」「勤労の価値の無前提的肯定and:経済問題一元的ニート理解」といったようなパッケージになるわけですね、例示の為に超単純化して言えば。(そして反対側はその逆と。)
さすがに単純化し過ぎて具体的個人に適用するのは難しそうですけど。ただだからと言って個別の問題に話を落としていくのはやめて下さいね、趣旨が変わってしまうので。勿論さほど感情を惹起しない問題については、個別の処理で構わないんですけど。

要するに少なくとも特定の”踏み絵”的社会問題に対する意見/態度というのは、論理やデータの前にその人の基本的な立ち位置とそこから来る感受性が、決定的不可逆的にまずもって方向性を決めてしまっている。その後出て来るどんなもっともらしい主張も、予定調和であるかあるいは法廷弁論的な類の党派的なものでしかないと。


何が言いたいのかかなり分かり難くなってしまったので、もう一回行きます。

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