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僕の倍速視聴ライフ
2022年04月20日 (水) | 編集 |
・・・先月のこれを承けて。

稲田豊史氏による"映画を早送りで観る理由"シリーズ。

#1 「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来 (2021.03.29)
#2 「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由 (2021.06.07)
#3 失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの (2021.06.12)
#4(前) 若者のあいだで「批評」と「スポーツ観戦」が不人気な理由 (2021.06.22)
#4(後) 「インターネット=社会」若者の間で広がる「セカイ系」の世界観 (2021.06.22)

若者/世代論、SNS論、教育制度論(&勿論映像メディア論)等広く現代の世情に言及している内容ですが、今回はより端的に、僕自身の"視聴"体験、映像体験という観点に限定しての、「倍速/早送り視聴」について語りたいと思います。


きっかけ

親と一緒に見た『刑事コロンボ』や『大草原の小さな家』あたりのゴールデン/夕方ドラマに始まり、親元を離れた大学時代からは民放深夜枠や真っ昼間/午前中の暇人枠も加わり、スカパー開通後は勿論爆発的に視聴可能本数も増えて、半生一貫して海外ドラマ視聴をほぼ第一の趣味として来た僕ですが。("配信サイト"以降は「爆発的」のレベルすら越えてしまっているので、逆に利用は慎重に限定的に)
"国籍"的には途中までは物理的にも米英(時々その他西欧)に限定されていた感じですが、NHK『トンイ』('11)きっかけで韓国時代劇もしばらくの間、2017年頃からは大陸中国ドラマも、こちらは結構意図的網羅的に見ていますね、時代物現代物共に。配信サイト普及後は各国輸出向けドラマの製作に力を入れ始め、北欧は勿論東欧から中南米から、ほとんどありとあらゆる国の一定以上の品質のドラマを見られるようになりました。
とにかくもう本当に、時間がいくらあっても。

"ビデオデッキ"すら無い時代からの話なので勿論「等速」視聴(とあえて言うのもあれですけど)が当たり前の世代で、録画やディスクレンタルが可能になってからも「つまらないところを"飛ばす"という目的での早送りは時に応じて当然使ってはいましたが、「見る」為の方法としての早送り/倍速機能を僕が初めて意識したのは、多分この中国歴史ドラマ作品。



『絢爛たる一族 華と乱』[原題:木府風雲](2012)。
明代の中国のある地方政権の権力闘争を描いた作品で、ドラマの出来としては僕的にはまあまあ、見てもいいし見なくてもいいくらいの作品なんですが、ただ舞台となっている「雲南・麗江」の「木氏」というのが"ナシ族"という少数民族の明朝からの委任支配者で(参考)、詳しくは分からないながらも描写される独特の習俗・制度が珍しくて、そこでどのような「歴史」が展開されたのかは見ておきたくなって。

bokufufuun

・・・なんか衣装とか髪型とか変でしょ?架空の国みたい。(最初そう思ってた)

とにかくそういうドラマなんですが、確かその時チャンネル銀河で連日3話ずつというハイピッチの放送をしてたんですよね、それで見(届け)たいは見たいんだけど毎日3話飽きずに見る程面白くは決してないぞ、どうしようということでとりあえず(DVDレコーダーに)録画して、それでも3話ずつの消化はきつかったので何かの拍子にレコーダーの"早送り1"("4"まである)で再生してみたら、あれこれいけるかも?となったのでした。
"早く"先を見(届け)たいという需要と、見たいことは見たいけれど一部始終じっと見続けるほど面白くはないという僕のこの作品への愛と敬意の度合い(笑)に、ちょうどいいペース感。一度やってみるとむしろそれこそが相応しい視聴速度に感じて、たまに等速で見てみるといーっとなって"早送り1"に戻すというそういう体に(笑)。・・・ちなみに"1"だと音声も早送りされますが、"2"以降は映像しか出ません、そのレコーダーの場合。それだとさすがに"視聴"にならない。

結局最後までそれで見て、無事ストーリーを見届けると共に、何か"新しい"経験の領域が僕の中で開けたのでした。


新たな視聴スタイル

勿論『絢爛たる一族 華と乱』の製作スタッフは、作品を"早送り1"で見られることを喜びはしないでしょう。出来れば等速で、自分たちが設定した通りのテンポで見てもらいたいでしょう。
でも仮に「早送り1でだけれど最後まで見てもらう」と、「等速では見てくれるけれどその結果早々に飽きが来てその後を見てもらえない」の二択だったら、どうでしょう。早送りで見られるくらいなら見られない方がマシと言い切る"男前"な人も一定の割合はいるでしょうが(笑)、見てもらえるなら早送り1ででもという派も、そんなに少なくはないだろうと思います。

とにかくこれ以後、僕の視聴スタイルというか各作品の取り扱いは一変します。
簡単に言えば、見るか/見ないかの他に、等速か/倍速かという基準が加わった。
等速でじっと見ていられる上級の作品の扱いはそれまでと別に変わらないですけど、それ以下の(僕にとって)ランクの作品の扱いが。
具体的には等速前提ならば退屈or苦痛なのでもう見ないとそれまでは単純に切っていた作品の寿命が、伸びることが多くなった。『絢爛たる一族』なんかは典型ですが、"出来"はそこまで良くなくても"題材"には興味があったり単純にこの後どう"展開"するんだという好奇心が残ったりする作品などは、"倍速/早送り"のサポートが入る事によって上手くすれば最後まで、少なくとも最終的に飽きるまで更なる話数を余計に見ることが多くなった。・・・一方で倍速視聴が習慣化することによって、早送りで"すら"見てられないという作品の存在も分かって来る訳ですが。(笑)

だから現在は僕には3種類の作品が存在するとも言えます。

1.等速で見ていられるもの。
2.倍速/早送りでなら、見ていられるもの。
3.倍速/早送りですら、見ていられないもの。

まあグラデーションは更に色々ありますけどね。

・等速以外では見る気にならない傑作。(または味わいのある作品)
・等速でも見ていられるけれど、倍速でも見られるもの。(致命的な興趣の欠落は起きないもの)
・等速で見られないことは無いけれど、時間の節約ついでにまあ倍速がベターというもの。
・倍速でなら見られるけれど等速では見ていられないもの。
・倍速でも見るのに忍耐が要るもの。またはわざわざ倍速にしてまで見るような興味の湧かないもの。
・忍耐すら出来ないもの(笑)。"早送り2"以上で音声無しでもやむなしかというもの。(たいていは我慢して最低1話は音声付きで見ますが(笑))
おまけ
・配信動画の場合だと、サイトの設定によりますが同じ早送りでも1.2-3倍速で一応"鑑賞"モードで見る場合と、1.5倍速以上で"内容確認"モードで見る場合みたいな違いもありますね。(注・レコーダーの早送りと違って何倍速でも一応音声は聴こえる)

同じ一つの作品でも、見ながらの評価の上下に応じて等速になったり倍速になったり切り替わることもままあります。
あと目立って特殊なケースとして、こんな作品もありました。

映画『ソーシャル・ネットワーク』。
昔からやっている"つまらない所の早飛ばし"に一見近いですけど、(セリフの)内容自体には興味があるのが違うところ。つまらなくないのに苦痛。だから速度を変えることで、生理的にのみそれを和らげる。

とにかくまとめて言うと、"倍速視聴"という選択肢/"アレンジ"法を手に入れたことで、"見られる"作品の幅や(それぞれの)量は広がったということです。・・・思い返すと結構いくつもありますね、あの時"倍速視聴"を知っていたら、挫折せずに最後まで見られたんじゃないかなあみたいな、それぞれいくばくかの未練を残しつつ脱落した作品群が。(笑)
単純に時間の節約になるので結果的に見られる作品数は勿論増えてはいるでしょうけど、僕が直接的に意識しているのはあくまで個々の作品をいかに見るかいかに個々のいいところを見逃さずに視聴ベースに乗せるかであって、別に量産を意識している訳ではないんですけどね。


"単位時間あたり情報量"という観点 ~「適」速度化としての倍速視聴

結局退屈が悪いのよ、退屈さえしなければわざわざもう一操作加えて早送り/倍速で見るなんてややこしいことはしないのよ、という訳で。(笑)
では退屈とは何かと言うと・・・それは単位時間あたり情報量の不足、なのではないかなと。
ある人の脳の処理能力、それに適切な量の情報が与えられない、その能力の上限を大きく下回る材料しか与えられないことによる、言ってみれば"脳の手持ちぶさた"。
所謂"難しい"話を聞かされたり芸術鑑賞をさせられたりする時の"退屈""居眠り"的な反応(笑)を連想すると、一見この仮説は当てはまらないように思うかもしれませんが、その場合は"難しさ"によってその経験が"処理"可能な情報の範疇に入って来ないので、客観的経験としての情報は膨大でも主観的経験として処理対象となる"情報"は少なくなってしまって、結果的に簡単過ぎる分かり切った経験の時と同じ状態が起きているという、そういう説明になります。簡単過ぎても難し過ぎても、人は退屈する。

以上が一般論ですけど、今回取り上げているTVドラマ/映画等の"映像劇"というジャンルにおいて考えられる「情報」の種類としては。

1.内容≒ストーリー
・設定/世界観、そこでの出来事、その展開、最終的な着地点(の予感)
・ストーリー/作品世界が抱いている思想、そこでの出来事が表現しようとしている意味

2.感情≒キャラクター
・登場人物が経験・表出する感情
・登場人物に対して観客が持つ感情

3.形式と技術≒作品性芸術性
・演出の統一性機能性、意図の実現性、(映像・撮影技術含む)美的な表現性先鋭性、"雰囲気"作り、俳優の演技のコントロール、など。
・脚本の構成的な経済性、やり取りの有機性、(セリフの)言語的的確性、作品のタイプによっては知的な高度性や思想的深遠性、文学的な技巧性なども。

以上が僕が考える、というか実際に映像劇作品を見ている時に僕が主に摂取している"情報"ですが。
これを上の『絢爛たる一族』の例で見てみると。

1."雲南・麗江"という舞台設定には興味がある。中央、明の漢族政府との関わりなども興味深い。
2.権謀渦巻く中でのヒロインのやや度外れた善良さとそれが周囲の人に与えて行く影響には一定の興味を感じる。
その一方
3.演出に関してはやや物足りない。特に破綻は無いが引きも無い。全体としてどう見せたいのかが今一つ伝わって来ない。そして一番の問題は僕の"興味"の対象でもある"ナシ族"の習俗や麗江の風土の描写が、歴史的にどの程度正確なのかは僕には分らないですが、結果的にどうもエキゾチックを通り越して滑稽に、ギャグっぽく見えてしまう部分があって、気が散る、のめり込めないこと。
脚本はよく出来ている部類だと思う。

こうして見ると問題は演出だけとも言えますが、ただ"演出"というのは映像劇の最も感覚的な部分を担っている、言い換えれば"ノリ"を作り出す部分なので、そこが駄目だと他にいい所があっても結局入り込めない、そういう根底的前提的部分だと思います(少なくとも僕にとっては。個人差があるのは知っています)。音楽で言えばノれない気持ち良くない楽しくない音楽の、歌詞だけじっと聴くかというとそんなことは普通無いみたいな話で。歌詞の朗読会じゃあるまいし。
まあ曲は下らないけどギターソロだけいいから聴くみたいな部分的な聴き方も、しなくはないですが(笑)。映像劇で言えば女優さんが綺麗だからそこだけ見るとか(笑)、あるいは自己演出が出来るレベルに演技力が高い人がいてそこだけは見ていられるとか。ただそれで全体の退屈がカバー出来るかというと、それは無理ですね。やはりそもそもの演出/監督にしっかりしてもらわないと。
話戻して『絢爛たる一族』の場合、演出全般としては積極的な魅力が"薄い"程度で本来はとどまっていたのかも知れませんが、そこに"ナシ族ちょいちょいギャグに見える"問題がハンデとして加わって来ると、元々多くはなかった情報量が摂取を阻害されて更に目減りする、または(滑稽という)"マイナス"の価値の情報量が増えてしまって、結果的に脳がポジティブなものとして処理出来るような情報が不足するというそんな感じか。(こういう機会でもないといちいち自己分析したりしませんが(笑)。漠然と退屈だなor不快だなと思うだけ)

そしてそれを「倍速」視聴にかけると、どうなるのか。
「内容」については特に変化なし。「感情」についても基本同じですがヒロインの善良"過ぎる"部分への若干のいらいらが和らぐという効果はあるかも。まあ一般に感情の濃度は薄くはなりますね倍速にすると。逆にそれでは味わいつくせないものがあるなと感じれば、それはその作品の持つ価値なので等速に戻しますが、大抵の作品は等速でも倍速でもそこまで差は感じない。
問題、というか本番は"演出"部門。まず"破綻は無いが引きも無い"基本の演出が、倍速にすることでより「構造」が見て取り易くなって、その構造の"破綻の無さ"が「構成美」という新たな"情報"に、多少なりとも変換される。そして等速で僕を煩わせていた"雲南・麗江の風俗表現の滑稽感"が、回転が速くなることで余り気にならなくなるというかうやむやになるというか、仮に滑稽だとしても作品全体の"情報"の中で比重が小さくなる、それによって忌避対象としての"マイナス"性が小さくなる、結果として情報量にとって"プラス"に働くというそういう感じ。
これらはたまたまこの作品についてそうであるだけで個々に検討すればパターンは色々だろうと思いますが、とくにかくこうした倍速の"効果"によって、『絢爛たる一族』は一日3話ずつたまるハイペースの録画でも、消化にそこまで苦労しないで最後まで見通せる作品になったのでした。

・・・もっと例示が欲しいですね。たまたま話に出しただけで予定は無かったんですが、せっかくなので映画『ソーシャル・ネットワーク』についてもやってみましょうか。

1.内容
・"フェイスブック"誕生の裏話には大いに興味がある。アメリカのエリート大学生たちの日常の描写なども面白かった。
2.感情
・マーク・ザッカーバーグの思想なのか性格なのかそれとも本当に犯罪心理学的分析の対象になるようなレベルの"問題"なのかはともかく、とにかく余りに反省を欠いた臆面の無い、日常的に繰り返される自己正当化の主張(これ自体は厳密には"1.内容"に属する事柄だと思いますが)に、それなりの論理性は認めつつもしばしば不快で耐えられなくなる。
3.形式と技術
・演出も脚本も問題なく優れている、見応え聴き応えがある。(十分に等速視聴相当である)

これの"2.感情"面に突出してある問題を、倍速にすることによって見易くしていたというのは上のツイートにある通り。『絢爛たる一族』のところで「倍速にすると感情の濃度は一般に薄くなる」と言ってますが、その特殊な例というか。元々等速相当だった"1"と"3"の情報量が倍速視聴によって増えた感じは特にしませんが、"2"のマイナス要素が軽減されることによって元々有していた十分な単位時間あたり情報量を、よりスムーズに受け取って脳の処理に委ねられるようになったと、そういう感じでしょうか。


更なる例示。
いい作品の悪役やアンチヒーローは"悪い"ことをしてもそれはそれで魅力のあるものですから、『ソーシャル・ネットワーク』のザッカーバーグ(役)のような例はレアケースだと思いますが、より一般的に「感情」面の問題で視聴に困難を来す例としては、特に男性視聴者にとっては"恋愛"シーン/パートというものがあるかと思います(笑)。興味を持って見ていられる場合も勿論ありますけど、見てられないこともしばしばある(笑)。作品全体の面白さの水準に比して。
それで思い出したのがまた中国ドラマで大多数の読者には申し訳ないですが、"倍速視聴"の効果を実感した最初期の例(その後はやりまくってるので一つ一つあんまり覚えてない(笑))としてよく覚えている作品として、『独孤伽羅 皇后の願い』[原題:独孤天下](2018)というものがあります。



隋唐両王朝成立前の過渡的時代を、実在した"独孤"家の三姉妹の運命を通じて総合的かつパズル的に描写したなかなか見応えのある歴史ドラマですが、知徳兼備の女傑である長女はいいとして、僻みっぽい次女の嫉妬を主な動機とする政治恋愛双方に渡る陰湿で矮小な策謀のあれこれ(個人的には加えてその役の女優の表情の癖)と、主人公である三女の、快活と言えば快活なんですけど僕の目には少なからず子供っぽ過ぎる演技と挙動、特に"恋愛"パートの付き合ってられなさには閉口させられて、でも歴史状況は興味深いし脚本のレベルは低くないし、次女と三女の該当パート以外の部分の演出にも大きな不満は無かったので、見たいは見たい作品だったんですよね。
それで結局最初は次女パート、次に三女パートと倍速視聴を始めて、その内もういいやと長女が活躍するパート以外は全て倍速で見ることにして最後まで見ました。倍速にせずに挫折していたら、ラストの"歴史パズル"がはまる快感も味わえなかった筈で、まあ良かったなという感じ。

全体としては良い作品でも純粋に興味が無くて恋愛パートを早送りすること自体は今も昔もよくありますが(男の子なので(笑))、この作品の場合は次女や三女(の恋愛を中心とする感情生活)にスポットが当たる、そのことによって根本のクオリティの方にも疑念が生まれてしまったのが、一つ特徴的でしたでしょうか。
具体的には上で「大きな不満は無」かったと言った演出の基本ライン、ただそれはそれ自体として特に優れている/緊張感があるというものでもなかったので、"長女"役やその他の成熟した演技の出来る俳優のシーン、あるいは恋愛だのただの個人的嫉妬だのではないある程度硬派な内容のシーンにおいては見る上で支障が無かったものが、軟派(笑)な俳優(女優)や内容のシーンになった時に潜在していた弱さ甘さが露呈してしまって急に見苦しくなった、そしてそこで抱いた不信が他のシーンに対しても波及して、結局"長女"(と厳密にはその運命の恋の相手である悪役)関連シーン以外は等速で見る価値無しとそういう判断になってしまったというそういう話です。
まあ様々な理由でシーン間のムラなんてものはどの作品でもあり得るものですが、この作品の場合は特に「"三"姉妹の物語」であることが、そのパートごとのムラを際立たせてしまった見過ごせないものにしてしまったと、そういうケースですかね。まあいいんですけど。(笑)


ここまでの例示をまとめると、"1.内容,2.感情,3技術."の3側面の内、
・"3.技術"面に不足のあるケース(『絢爛たる一族』)
・"2.感情"面に阻害要因のあるケーズ(『ソーシャル・ネットワーク』)
・2と3に横断的に問題のあるケース(『独孤伽羅』)
と3つのパターンが見えました。
・・・『独孤伽羅』については"恋愛エピソード自体に興味が薄い"という意味では"1.内容"面にも問題があるように見えるかも知れませんが、ただより大きく「三姉妹の("恋愛"も含む)それぞれの運命を通じて歴史状況を活写する」という意味での"内容"には興味がある訳で、もし次女役と三女役の感情表現やそれを支える演出の技量・センスにもっと研ぎ澄まされたものがあったなら、そんなに興味はなくてもストーリーの大きな構図の一部としてさほど気に留めずに見ることが出来た筈。そういう意味でやはり、1というよりは2と3の問題と分類すべきだと思います。
ちなみにずばり"1.内容"に(だけ)特に興味が無い場合というのも、無くは無いんですけど・・・。それについては次の項で。
普通はまあ単純に見ませんよね、興味を感じなければ(笑)。それが自然というか。

例示は多分に行き当たりばったりでしたが、まとめて言いたいのはつまり。
「内容への興味」なり「感情的な誘引性」なり「演出や脚本の技量」なり、これら映像劇を見る時に受け取る"情報"の総計の単位時間当たりの量が、十分ならばそのまま等速で見ればいい訳ですが、何らかの理由で足りないがしかし見続けたい気持ちはある時に、倍速/加速視聴という方法は大いに役に立つということ。
メインとしてはシンプルに加速による情報密度増ということを考えていましたが、こうして改めて事例を見てみると等速だと気になった"マイナス"の情報への注意を加速によって薄めるという間接的な効果も意外と大きいようだなと。

そしてこうして必要に応じて倍速視聴を習慣的に繰り返していると、いつしか「等速か/倍速か」の二分法というよりも、その作品にとっての・・・という言い方が横暴だとすれば(笑)僕にとってのその作品の、最も適切/快適な速度を探す、選択する、そういう感覚に変わって来るんですね。連続的な速度基準のどこかから。
そこから「単位時間当たり情報量」などという抽象化も発想された訳ですが。
遅過ぎず速過ぎず。
単位時間当たり情報量が、少な過ぎず多過ぎないように。

上で言ったようにレコーダーによる録画の再生だと、少なくとも僕の家にある二台の場合「早送り2」以上だと音声が聴こえなくなるのであれですが、各種動画配信サイトだと1倍、1.25倍、1.5倍、1.75倍・・・というようにかなりの選択肢があるので尚更この感覚("「適」速度化")は強くなります。速度レバーを上げ下げしている感覚というか(笑)。それで各パラメータがなるべく綺麗に揃うように。


「倍速視聴」と「ながら見」(複数画面視聴)

要は"単位時間当たりの情報量"が問題なのだとすれば、それを満たす為の方法は倍速化だけではない訳ですね。
高速化で1チャンネルの情報量を増やすのではなく、ながら見で"チャンネル"の数を増やすことによっても、情報量は調整出来る。
何か作業をしながら見るともなしに映像・番組を見るという意味の"ながら見"は、誰もが昔からやってるだろう普通の"テレビ"視聴形態の一つでしょうけど、より能動的な"鑑賞"法としては二画面(複数画面)視聴というものも考えられると思います。映像コンテンツをどの"デバイス"で見るかを選択するのが当たり前になった現代では、気が付くとそうなってることも多いだろうと思いますが。

僕が主に行っているのは大型小型二台のテレビを並べて配置しての二画面同時視聴で、典型的には大型テレビで字幕作品を音を消して見ながら小型テレビで日本語or吹き替え作品をこちらは勿論音付きで流すという方法。逆でもいいんですけど、目の負担的にはこっち(大型の方で文字を見る)の方がより合理的。(笑)
字幕/字幕でもやらないことは無いですが、音声/音声厳しいですね、"種"としての人類の限界を感じてしまいます(やはり聖徳太子は宇宙人に違いない)。字幕/字幕でやる時も、片方(小型テレビの方かな)は音声付きにした方が、かえって楽な気がします。聴覚に関しては有る無しのめりはりが大事らしい。
デバイス的にはノートやタブレットというのも勿論ある訳ですけど、世代的問題かテレビ/テレビの方が楽ですね。ネット番組をテレビに映して見ること自体は多くても、デバイスとして直接コンピュータを絡めると、何か別の集中力を持ってかれるようで気が散る。

テレビの複数持ち自体はもう二十年来のことなので、技術的にはいつでもこういうことは出来た筈なんですが、積極的習慣的にやるようになったのはやはり"倍速視聴"に目覚めて「単位時間当たり情報量」みたいなことを意識し出してからですね。処理能力のキャパに余裕がある状態を勿体なく感じるようになったというか(笑)、逆に言えば少しの退屈(つまり単位時間当たり情報量の不足)にも不寛容になって。
配信サイトの速度設定が細かくなった最近はますます神経質になって、「字幕作品を音無しで1.5倍速で見ながら日本語作品を早送り1で聴く(見る)」とか、「大型テレビの字幕作品は音無しで1.25倍速、小型テレビの字幕作品は音付きで等速」とか、訳の分からない調整というか"単位時間当たり情報"処理の限界に挑んだりしてます(笑)。挙句それをしながらPCで調べ物してたりとかね。それで見てるのかと言えば見てるんですけど。内容の説明とかいくらでも出来ますよ?(笑)

もういい加減にしろと思われてるかもしれませんが(笑)、ここで一つ、前の項で保留にしてあった"「内容」に興味が無い作品の情報量補填"について。
内容に興味が無いのに見るというのは本来アブノーマルだと思いますが、案外無くは無くてそれは典型的には、所謂「芸術的」なタイプの作品。"手に汗握るストーリー展開"とかは特に(必要)無くて、何らかの"ストーリー"をある種"口実"として使いながら、その表現技法や演出センスそのものを"コンテンツ"として観客に提供するタイプの作品(監督本人がそのつもりの場合と周囲の評価が結果としてそうなってる場合と両方あると思いますが)。"パッケージ"こそが"コンテンツ"というか。だからある意味"内容"は問題ではない。

例えば僕は言わずと知れた日本を代表する映画監督小津安二郎の作品が実際好きで、それなりの数見てますが、ただそれは別に小津作品のお決まりのモチーフである"ホームドラマ"、たいていは「現代化が進む日本社会の中で緩やかに崩壊・変化して行く伝統的家族の関係性」みたいなものに、特に興味がある訳ではないんですよね。現代のファンのほとんどがそうだろうと思いますが。(笑)
そうした作品タイトルだけではなかなか内容を区別して思い出すのが難しい(笑)ようなお決まりのパターン、それを安定的な背景・遠景として、小津さんの演出の特にリズムを、ほとんど"音楽"的に陶然と(笑)なりながら楽しむというのが、基本的な鑑賞法。下手にストーリーが"ドラマティック"方向に動いたりすると邪魔臭くてね(笑)。うるさいなあ、いいんだよそういうのは、ノイズノイズ、的な。

ただそんな小津パターンの中にもそれなりに当たり外れ出来不出来はあって、お決まりはお決まりだけどこれはいくら何でもちょっと陳腐というか先が読め過ぎるなあみたいな場合(作品)もあって、その時はいくらストーリー期待が低い前提でも、退屈を感じてしまうことになります。単位時間当たり情報量の不足を。(笑)
ただそもそもの"情報量"の大半をそのオリジナルの(等速)リズムを含めた演出部門が担っている小津作品の場合、そこを"倍速"で動かしてしまう破壊してしまうのは、さすがにまずいというか元も子も無くなってしまうので。

でも現状退屈は退屈。とはいえ愛する小津作品を最後まで見ないという選択肢は無い。
そんな時に助けになってくれる(笑)のが、二画面視聴です。
この場合は、大型テレビで小津映画を音声付きで流しながら(内容を聴ければいいのではなくて空間性も感じたいので、やはり大型がいい)、小型テレビで字幕作品を音声抜きで見るという組み合わせがベストか。
小津映画の進行状況をちらちら見ながら、話の密度が等速視聴可能なレベルに高まって来たら、適宜もう一画面の方は消して集中視聴に戻ったり。
あえて"芸術"映画を見ることもそんなに無いですけど、そういう時には実際こういう方法を取ることもままありますね。それが外国映画で字幕を見る必要があれば、サブ画面は日本語作品になりますが。


[稲田記事より]

以上僕の"倍速視聴"ライフ、別名単位時間当たり情報量濃縮ライフについて、だいたいのパターンは紹介出来たと思いますが。
最後に関連して、きっかけとなった稲田氏記事群の中から、いくつかの(倍速視聴等に対する)"批判"的論調の項目について、若干の反論的なことを。

#1『「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来』より

10秒間の沈黙シーンには、10秒間の沈黙という演出意図がある。そこで生じる気まずさ、緊張感、俳優の考えあぐねた表情。それら全部が、作り手の意図するものだ。それは9秒でも11秒でもなく、10秒でなければならない必然性がある(と信じたい)。


"信じたい"とする稲田氏の中にも実は迷いがあるのかもしれないと思わなくはないですが、とにかく僕の答えはノーですね。"10秒"という絶対時間に必ずしも意味はないです。"9秒"でも"11秒"でも、それは本質的には構わないものだと思います。
分かり易い例を挙げると、もし作品内の絶対時間にその通りの意味があったなら、かの"絶対時間"ドラマ『24』は、もっと面白かった筈です。
正直僕も見る前は期待しなくはなかったんですけど、"リアルタイム"の緊迫感を。でも結果として出て来たものは、例の動き続けるデジタル時計の「ピッコピッコ」にある種の"名物"的味わい(笑)が生まれただけで、要はただのよくある"スピード感のあるサスペンスドラマ"でしかなかった、そのスピード感を絶対時間で規定しようが演出効果としての観客の主観的印象で規定しようが、特段の変わりはなかった。かなり早々に"絶対時間"の幻想は崩れたと思いますね、あの作品の中で。

まあ『24』自体の作り方にも問題はあったと思いますけど。本当に"24時間"を感じさせたかったら、主人公ジャック・バウアーの一人称視点だけで構成すべきではなかったか。作るの大変だろうからカットくらい割ってもいいけど、複数人物がそれぞれ主人公を務めるシーン/シークエンスをカットバックで繋いでしまうと、いかに「ピッコピッコ」がリアルタイムを主張しても(笑)無駄な抵抗というか、見てる側としては普通の行きつ戻りつのドラマの馴染のタイム感に流れてしまって区別がつかなくなる。
「ピッコピッコ」筆頭に色々キャッチーで、特に初期はドタバタネタドラマとして2chの専用掲示板あたりは大いに盛り上がりましたけどね。(笑)

まあ『24』自体はどうでもいいんですけど、言いたいのは上でも少し言ったように問題は「観客の主観的印象」(としての時間)であって客観時間ではないので、それをこそ「演出」効果というべきなのであって、絶対時間にちまちまこだわるのはむしろ演出という行為の創造性を否定する考えではないのかと。
ではオリジナルの時間に全く意味が無いかというとそんなことは勿論なくて、仮に作品内で"10秒"で表現されているシーン/内容があったとして、それが10秒であることには必ずしも意味は無いけれど、ただ同じその作品の中でこちらは例えば"5秒"で表現されているシーンがあったとしたら、シーンAが10秒でシーンBが5秒である、その関係性には意味がある訳ですよ。その作品の全シーンが基本的に同じ基準、同じ世界観で演出されているのなら。(その筈)
言わばこちらは"相対的"な時間性。10対5の"比"というか。

そしてこの比例関係自体は、いくら倍速にしても変わらない訳です。何倍だろうと。10対5だったものが8対4になったりはするかも知れませんが、"2対1"という基本的な関係性は変わらない。そういうレベルの作品の基本構造や、その作品特有の時間秩序は、問題なく(むしろよりくっきりと、と経験的には思いますが)倍速視聴者にも伝わっている。
だからそうした"相対"時間こそが作品内時間にとってより本質的であるという僕の認識が間違っていないなら、倍速視聴者の作品の"時間"の受け取り方も、勿論等速視聴と全く同一ではないですが、決して誤っている訳ではない、本質を外している訳ではないということになる筈。

まあとかく"作り手"というものは、自分が作ったものの全ての細部が重要であって揺るがせに出来ないものだと思いたいものではある訳ですが。(笑)
実際のところは、なかなか期待通りにも予想通りにもいかないもので。倍速だろうと等速だろうと。
倍速という分かり易い"勝手"をされると、"伝わってるのか"と俄然心配になるのは分かりますけど。概ね気のせいだと、心配無用だと、常習者としては言っておきたいです(笑)。大丈夫、傑作は傑作だし駄作は駄作です、倍速で見ようと等速で見ようと。(笑)


次。

#1『「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来』 より

YouTube上には、5分の動画で映画1本を結末まで解説してくれるチャンネルまである。1動画あたり、コンスタントに数万〜数十万回再生、人気のものだと数百万回も再生されているから、なかなかのものだ。


#3『失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの』 より

「結末までをダイジェストで紹介している動画、もしくはまとめサイトや口コミサイトのあらすじを読んで、観る価値があるかどうかを判断してから観ます」


所謂"ファスト映画"的な問題。Wiki等によると、時間としては"10分"の方が主力みたいですけど。
とりあえずここでは、ややこしいので"5分"という前提で話します。
違法性云々は置いておいて、純粋に"映像体験""視聴体験"として、どうなのか。

まず基本的な問題として、これは「倍速視聴」とは別種の行為だとは、言っておいた方がいいかも。
オリジナルの形をそのままに速度だけ変えて再生する倍速視聴に対して、オリジナルを切り貼りして編集しているファスト映画(動画)は、上で言った相対時間、作品内時間秩序自体を改変してしまっているので。(逆に引用部分の絶対時間は保存されていると言えなくもないですが、まさかそれで作り手がより喜ぶとは思えない(笑))
だからさすがに僕もファスト映画が"等速視聴"と同等の価値を持つ、その作品を"見た"ことになっているとは言いません。言いませんが・・・。ただまあ作品によっては、5分もあれば十分なものもある(笑)、結構、いや意外と沢山・・・と余計な憎まれ口を叩こうとすれば叩けなくもない。
簡単に言えば「ストーリー"展開"とそれに紐づけされた記号的感情反応」くらいしか中身の無い作品なら、5分もあれば余裕でまとめられそうではある、代用出来そうではある。そこらへんは物によると。
分かり易く例示すれば、同じブルース・ウィリスの大ヒット作品でも『アルマゲドン』なら5分で十分だと思うけど『ダイ・ハード』を5分で済ますのは勿体ないみたいな話です(笑)。(異論は認めます(笑))

ともかく倍速視聴常習者の僕にとってもかなりアブノーマルな"映像体験"には思える訳ですが、ただ二つ目の引用で(利用者が)言っていること自体は、存外分かるというか、そんなに異常なことでもないのではないかなと。
まずそもそも「あらすじを読んで、観る価値があるかどうかを判断してから観」ること自体は、ほとんど全員、全世代の映画ファンドラマファンが当たり前のこととしてやって来たことな訳で。更に言うならば、その"あらすじ"による面白い面白くないの事前判断て、実際のところほとんど外れないと、僕自身は経験的に思いますがどうでしょう。(こんなことはあえて聞いたことが無いので他の人のは分からない(笑))

では何が違って来たかと言えばその事前チェックの徹底性、動画や、"テレビの番組情報""公式サイト"等自然に目に入るものに飽き足らず"まとめサイトや口コミサイト"までわざわざ見る、そして何より「結末まで」を調査範囲とする、ネタバレはむしろ前提であるという、そこら辺が従来のファンには無かった態度。
結末まで先に知りたいというのはさすがに"従来のファン"として僕も驚く訳ですけど、どういうことなのかと想像すると、一つは単純に"知る"事が出来るその情報源が普通に存在するという、物理的情報的状況の変化による世代習慣の変化。目の前にあればそれは見てしまうだろうし、習慣は習慣なので逆になぜと言われても困ってしまうかも知れない。
そしてもう一つ思うのはある種の「思想」の問題。ストーリーの結末というのは言わば作中提出された"問い"に対する一応の"答え"なのであって、そこに見られる作品の「思想」まで含めて"観る価値があるかどうか"の判断範囲なのではないかなと。"問い"に付き合って行き先を共に考えたりするのではなく。
とかくいい悪い別にして、思想的価値判断的に固い、厳格な傾向が世代を追うごとに見える気はどうしてもするのでね。そこからの想像ですが。思想はどうあれいい作品興味深い作品、ではなく、思想への直接的な価値判断含めて作品の良し悪しがある。あるいは結末/結論が分からなかったりぼやかされたりする事自体を許せない、"厳格"性(という思想傾向)。だから結末まで知っておくのは当然。

稲田氏は稲田氏で、SNS世代のコミュニケーション論的な切り口でこの現象を論じていますが、それについてはそちらを。
それはそれとしてともかくこうした行為を基本的に"批判"的に紹介している稲田氏に対する、今回の僕の"反論"はというと。
小津作品のところで述べたように、一般に"芸術"的作品主義的な作品ほど、"ストーリー"そのものに価値は依存していない訳ですよ。だから結末まで内容を知られたからと言って、別にどうってことないと言えばどうってことないのでは?と。まあその"ストーリー"がつまらないということで見てもらえないという危険はある訳ですけど、元々そういうライトなファンがいきなり見るようなものでもないでしょうしね。本質的には、大した問題ではない気が。
まあ別に稲田氏が特に芸術志向だとはどこにも書いてありませんが、ただ作り手の立場に寄り添って倍速視聴を批判的に語るというスタンスからは、当然ある種の監督主義≒作品主義的な傾きは出て来る訳で。逆にストーリー知られて困るようなタイプの作品はどうせ大した演出してないんだから倍速視聴で上等でしょ?みたいな憎まれ口も可能かなと思いますし。(笑)
実際には恐らく、大ヒットを目指す商業的な作品の方が「ファスト映画」化はされ易いだろうと思われるので、そもそも意味の無い議論なのかなとも思いますが。(じゃあなぜやった)

まあでも、結末まで知ってから作品を見るというのは、さすがになかなか厳しいですね僕も。倍速視聴の時とは違って。あえてやりたいとは。
たまにありますけどね、普通の"番組情報"でおい全部言っちゃってんじゃんみたいなこと(笑)。あるいは主人公サイドや被害者サイドが余りに気の毒な設定の場合、ハッピーエンドだと分かってないと安心して見られないみたいなことは(笑)。アンハッピーエンドや曖昧な結末にしておけばリアルだかっこいいみたいな傾向も、確かにたまにイラっとは来る。でもなあ。やっぱ結末ありきで見たりはしないな。(笑)


とりあえず以上です。
気が付くと随分書きましたが、全然書き足りません。(笑)
やはり倍速視聴の事例研究パターン渉猟は、何とかもっとちゃんとやってみたい気はするんですけど、さてどうしたらいいだろう。
逆に倍速視聴"出来ない"(する気にならない)作品の、何がそういう気持ちにさせるのか、どういう作品がそうなのか、そっちはそっちで解明/説明の必要は感じるんですけどね。ううむ。次の機会はあるか。望まれてるか。(笑)


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テーマ:海外ドラマ
ジャンル:テレビ・ラジオ
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