ヴェルディ等サッカー、漫画、アイドル 他
"倍速視聴"問題その後
2022年05月18日 (水) | 編集 |
稲田豊史氏の問題提起に始まる映像コンテンツのいわゆる"倍速視聴"問題についての僕の基本的な考えは、一応一回まとめてはみました。(『僕の倍速視聴ライフ』)
正直生煮え感が強くて(笑)、満足の行く出来とは言い難かったですが、それはそれとしてその後も稲田氏は関連・派生記事を発表し続けていて、それらの記事及び前回は倍速視聴というテーマに特化させて取り上げなかった部分、その合わせてのフォローを行おうという、そういう趣旨です。
映像劇をめぐる様々な論点が、これだけまとめて効率よく出て来る機会も、そんなに無いと思うので。

稲田氏がつけた小見出しに従って、改めて整理すると。(稲田氏の執筆記事一覧はこちら)

[映画を早送りで観る理由]
#0 「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来 (2021.03.29)
#1(前) 映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由 (2021.06.03)
#1(後) 『逃げ恥』『シン・エヴァ』…「リテラシーが低い人を差別しない」作品が時代を制する (2021.06.03)
#2 「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由 (2021.06.07)
#3 失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの (2021.06.12)
#4(前) 若者のあいだで「批評」と「スポーツ観戦」が不人気な理由 (2021.06.22)
#4(後) 「インターネット=社会」若者の間で広がる「セカイ系」の世界観 (2021.06.22)

・・・前回参考にしたのはここまで。


[早送りする大学生たち]
(前編) 『鬼滅の刃』『イカゲーム』も早送り…大学生が「倍速視聴」をする理由 (2021.12.30)
(後編) 「なるべく感情を使いたくない」映画やドラマを「倍速視聴」する大学生の本音 (2021.12.30)

[Z世代のコンテンツ視聴]
(前編) ドラマも「切り抜き動画」で観る…「倍速視聴派」Z世代の視聴実態 (2022.04.19)
(後編) SNSで「無邪気に」感想が言えない…Z世代の「奇妙な謙虚さ」 (2022.04.19)

[作り手が語る倍速視聴]
(前編) 「倍速視聴」は進化か退化か。「プリキュア」「銭天堂」脚本家が抱く危機感 (2022.04.25)
(後編) 「Netflixとアマプラに絶望した」人気アニメ脚本家が明かした「本音」 (2022.04.25)


まだまだ続きそうな気配はありますが、それはそれで必要があればまた。
ともかく行きます。



[映画を早送りで観る理由]

#0 「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来 (2021.03.29) より

たとえるなら、『第九』や『天城越え』や『マリーゴールド』を、倍速で聴いたり、サビ以外を飛ばして聴くようなものだ。そんな聴き方で叙情や滋味を堪能できるのだろうか。


今のところ音楽コンテンツを速度調整して聴くという行為は、技術的理由もあってほとんど一般的ではない筈ですが。
ただ同じ曲をスタジオバージョンと全く違う速度でライブで演奏するミュージションは山ほどいますし(例・クイーンによる「ウィ・ウィル・ロック・ユー」の"倍速"ライブバージョン)、大幅に原曲の速度を変えたカヴァーが成功することもまた割と見られる光景。(例・シド・ヴィシャスによるフランク・シナトラ「マイ・ウェイ」パンク・バージョン(笑))
だから"音楽"という例は、「構造」(曲)は構造、「速度」(アレンジ)は速度だ、だから倍速化は破壊ではないという主張のむしろ補強になりそうにも思わなくはないですが。ただ演奏自体からやり直すのと出来上がった音源をいじるのとはまた違う行為ではあるでしょうし、視覚を伴わない分より抽象的でありかつ最初からある種の"詩"的表現として言葉を使っている音楽と、"生身の人間"(もしくはそれに擬したもの)の生活言語という態で言葉が使われている映像劇では、倍速という日常形態からの乖離に対する耐性に違いはあるだろうなとも。
・・・と、勝手に反省してますが(笑)稲田氏が言っているのは"倍速がおかしいことの自明な例"としての音楽なので、そこまで自明じゃなくない?というのが僕のとりあえずの反論になります。
"サンプリング"や"リミックス"みたいな例も一瞬考えたんですけどあれは"聴こえ方"を変えてるだけで"速度"を変えてる訳じゃないので、また別かなと。速度"感"は変わりますけど。


#1(前) 映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由 (2021.06.03) より

状況やその人物の感情を1から10までセリフで説明する作品が、近年増えてきた。


らしいんですけどね。それを観客の幼稚化だ創作の自由の制限だという批判的な方向で、基本このシリーズは扱っているんですけど。
ただ時代を問わず、(出来得る限りなるべく)"分かり易く"表現することは常に存在する実作者の永遠のテーマですし、それがどれほど技術的に容易ではない、媚びれば出来るというような単純なものでないのは、よっぽど未熟か中二病的勘違いにでも陥っている実作者でなければ知っている筈。
という前提で。セリフのある部分と無い部分、セリフで説明出来る部分と出来ない部分、その比重をどう考えるかという問題ですけど。

映像劇を見ている時に「映像」そのものやセリフの無いシーンの表現に感銘を受けることは勿論多々ある訳ですけど、ただ観客が何を中心に見ているかと言えばそれはもう、圧倒的にセリフな訳ですよ。読解力があるとか無いとかそういうレベルの問題ではなくて、ジャンルの前提、基本構造として。"何"を見に行くのかということを考えた時に、セリフで言葉で語られるある状況を見に行く、それは確か。ポルノとかアクションとか特撮とか(笑)、"お目当て"が言語以外の部分にあること自体はままありますが、それとてまず言語によって説明される状況設定を前提にして成り立っているので。あるいは"セリフの無い"シーンの味わいも、セリフのあるシーン(で説明されたもの)とのコントラストで、それを前提として存在しているので。ただの"言葉の無いシーン"ではない。
だから・・・というか何というか、これら言葉/セリフのあるシーンと無いシーンは、伝統的に習慣的に混在/共存して来た訳ですが、しかし潜在的には実は観客は100%の説明を言語的表現を、求めている/いたのではないかなと。少なくとも業界の人が思いたがっているよりはずっと。結果的に非言語的シーンの存在を受け止めていたとしても、見る前の漠然とした原初的な期待としては。

あるいは別な言い方をすると、非言語的なほのめかしや象徴的な表現や、それら自体の味わいは味わいとして感じられたとしても、そこで表現されたことの意味(それこそ嬉しいのかとか悲しいのかとか)が言語的部分の手がかりによって確定できないことは、純粋に不快な訳です。象徴と曖昧はやはり違うというか、味わいは味わい、当惑は当惑というか。どんなにリテラシーの高いタイプの観客であったとしても。
そこらへんを曖昧に、意図的なものも単に失敗しているものもごちゃ混ぜに何となく甘えながら作っていたものが、そういう作法を関知しないまたは違う作法で育った若い観客が参入してきたことによって慌てさせられているわけでしょうが、でも実は古い観客も(笑)十分に不満ではあったのであえて味わう程でもないニュアンスはガンガン倍速で(認知はするけど)消化するようになっているという、まあそういう状況でしょうか。

分かり易いは基本だし、言語は基本。
セリフの説明性を言う前に、セリフを使わないことの必然性やその実際の効果の方が、問われるべき場面は多いように僕は感じていますというか感じていましたというか。セリフで説明すれば、少なくとも努力をしたことは伝わって来ますし。(笑)

「当然、観客によって受け取りかたはさまざまになるけど、それでいいんです。受け手には“作品を誤読する自由”があるんだから。誤読の自由度が高ければ高いほど、作品の奥が深い。……というのは、僕の意見だけど」(真木氏)


"誤読の自由度が高ければ高いほど、作品の奥が深い"。『この世界の片隅に』の製作関係者ということですけど、こういう横着というか緩々な人が実際にいるわけでね。そりゃ反撃食らうよなという。
作品が「奥深い」とすれば、それは作品に込められたものやその背景思想そのものが奥深いのであって、表現が不明確なのが"煙幕"として働いて何か深い意味があるように"見える"から"誤読"されるからじゃないでしょう。そういう好意的誤解が生まれることはままあることでしょうけど、それを作り手側が良しとするのはおかしい、伝えたいことがあるならそれは伝わるように努力すべきで伝わらなかったことで人気が出たり評価されるのを、(商売人としての本音はともかく)公に肯定するのはどうかしている。(エヴァンゲリオン的に)謎を仕掛けたとか、炎上商法だというならまだいいですけど。
まあ「誤読」という言葉がおかしいというか、横着なんだと思いますけどね。何らかの理由であえて明確に"語らない"ということはあるし、予め観客に解釈を委ねるという作りもあるでしょう。でもそれらは意図されたあるいは一定の幅を想定された不明確さや曖昧さであるべきで、それを逸脱した"誤読"は単なる誤読でしょう。それが言えないのならそれは単に元々の仕事がいい加減だったということでしかなくて。奥深さと奥深い"風"の区別がつかないような、区別をつけたら化けの皮が剥がれて困ってしまうような。
「誤読する自由」と「奥が深い」、両方言うからおかしいんですよね。「誤読」と言うからには正解(正読?)があるべきだし、あるのならそれが伝わらなかったことを嘆くべきで、「奥が深い」というこけおどしが発生したことを喜ぶべきではない。伝わった上でそれが深いと言われるならともかく。あるいは"伝わった"内容に対する解釈・評価が分かれるならともかく。
こういうなんか、蓄積した業界的気の緩みが嫌がられてというかいい加減見破られて、いささか一方的ではあるけれど説明性明快性への要求の極度の高まりもあるんだろうと思います。

話は変わって。

「ネットで“おもしろい”って声をあげるのは、勇気がいるんです。絶対に否定されないような、あらゆる人が傑作と認めている“勝ち馬”にしか、“おもしろい”って言えない空気がある。誰も評価しない“負け馬”に乗っていることに謎のプライドを持つ昔のオタクとは、真逆なんですよね」(佐藤氏)


へええ、そうなんだ。
むしろ肯定の方が安全というか支持("いいね"?)が簡単に集まる風景が定着して久しいようにも僕には見えるんですが、まあこの件は後(編)でも出て来るのでその時に。
ちなみに僕もよく負け馬に乗る自称"疫病神"ですけど(笑)、それはその都度本当にいいと思って言っているだけで逆張りしているつもりは全然無いんです(だから尚更悲しい(笑))。主流じゃない、多数派じゃないんだろうなという、自覚くらいはありますけど。


#1(後) 『逃げ恥』『シン・エヴァ』…「リテラシーが低い人を差別しない」作品が時代を制する (2021.06.03) より

「しかも、あれだけ画面を文字情報で埋め尽くしても、意外と視聴者は情報過多だとは感じず、問題なく番組を見続けられることも判明しました。結果、各局・各番組がマネをして、どの番組も似たような画面になっていったのです」(森永氏)


いわゆるバラエティの"テロップ"問題について。
やってみたら視聴者は予想よりも情報処理に苦労しなかった、という話は面白いですね。(笑)
今やテロップは単なる"補助説明"ではなくて、それはそれでセンスの見せ所というかテロップ以外の情報と"セッション"的に番組を構成している感じですよね。読みつつ見る、見つつ読む。
・・・ただし、サッカーの地上波中継の上に出続ける"見どころ"説明は、ただただダサいのでやめて欲しいですけど。

つまり、説明セリフを求める傾向は、観客の民度や偏差値の問題というよりは、習慣の問題なのだ。情報過多・説明過多・無駄のないテンポの映像コンテンツばかりを浴び続ければ、どんな人間でも「それが普通」だと思うようになる。


"過多"という言い方に若干の含み・引っ掛かりは残しつつも(笑)、要するにモードの問題だと、「説明セリフ」というかセリフで全て説明するタイプの映像劇の作り方を、ともかくも受容的に位置づけする稲田氏。
まあ基本"正しい"映像劇の形なんてそもそも無いというのと、現実に出て来たもの新しく知った快楽に、人は引っ張られるものだということと。知ってしまったものは戻れない。(笑)
「説明セリフ」とかは正直僕は余り意識してなかったんですけど、例えばラノベ系の「〇〇〇したら×××した件」的なタイトルで内容を全部説明してしまうスタイル、あの"明快さ"にはぶっちゃけ衝撃を受けました(笑)。そこまでやるか、とは思いつつも、逆にここまでシビアな態度でストーリー/フィクションに対して旧来世代は向かい合って来たのかと、結構本気で。みんながあれをやる訳ではないにしても、あれを前提とした世代の書くもの作るものは、それは変わって来るだろうなあと。
「倍速視聴」もそうですね。知ってしまったら、もう知る前に戻れと言われても困る。倍速視聴という技術によって経験によって、今まで何を我慢して来たのか何が誤魔化されて来たのか、分かってしまったからには。


#3 失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの (2021.06.12) より

「信頼している人が薦めている、確実におもしろいと評判の作品しか観に行かない人が、昔よりずっと多い。皆、冒険しなくなっている。だから、当たる作品と当たらない作品の二極分化がはなはだしい」(興行関係者)


サッカーの世界でも、感じてはいたことですね。
各々のインフルエンサー(?)なり人気ブロガー・ツイッタラーの皆さんそれぞれに魅力や説得力があるのは僕も分かるけれど、何か"乗っかり"方に勢いがあり過ぎるよなあとは、昔(笑)と比べて。躊躇いが無い。"乗っかる"相手を探してる/求めてる感は、先行して見えるかなと。


#4(前) 若者のあいだで「批評」と「スポーツ観戦」が不人気な理由 (2021.06.22)

「エンタメに対して“心が豊かになること”ではなく、“ストレスの解消”を求めれば、当然そう[ワガママや快楽主義]なります。心に余裕がない、完全にストレス過多なんですよ、特に若い世代は」(森永氏)


別にどの世代も、エンタメに対して“心が豊かになること”を一義的に求めていたりはしないと思いますけどね(笑)。“ストレスの解消”、現実逃避(代理満足)、動機としてはだいたい常にそんなもんじゃないでしょうか。ただ結果として"心が豊かにな"ったり人間性的なことについて学べたりするような作品が過去多くあって、更に言えばそういう内容のものでもきっちり"エンタメ"化して見せる代表的にはアメドラや日本漫画(の映像化としてのアニメ)などの特筆すべき手腕が伝統的にあって、"心が豊かになる""ストレス解消"体験(笑)というものに、我々が慣れているだけで。
違いがあるとすればそうした目的意識ではなくて、映像劇なりスポーツという体験への接し方の方で、ある程度じっくり腰を落ち着けてそこで得られる全体験(その中には"心が豊かになる"ことも含まれるかもしれない)を受け取ろうという姿勢や余裕(または単に時間)が欠けていることで、そこには"ストレス過多"という要素がなるほど存在しているのかもしれない。
・・・何となく連想するのは、"フーリガン"だったりするんですけどね。(笑)
"サッカー"ではなく"勝つ"こと(または勝てなければ文句を言うこと)や試合に"乗じて"騒ぐこと自分が快楽を得ることストレス解消することが目的というタイプの"観客"。
それくらい、"フーリガン"(の典型像としての極度に鬱屈した労働者階級)くらいに、現実生活に絶望している世代が存在するのかもという。

ネット上のテキストにも、同じことが言える。絶賛テキストのほうが、批評テキストよりもずっと読まれるし、SNSで拡散される。ぬるい大絶賛記事のほうが、切れ味鋭い客観分析記事よりもPVを取りやすい現実は、カルチャー系のライターなら誰もが知るところだろう。


そう、なんですよね。だから上で"おもしろいと言うのが怖い"という証言が出て来た時に、戸惑ったんですけど。
褒めときゃだいたいオッケーなご時世なんじゃないの?僕もたまにやっていいねやブログ拍手を稼ぐぜという。(笑)

ついでの余談ですけど、絶賛テキスト(ぬるい大絶賛記事)⇔批評テキスト切れ味鋭い客観分析記事という並べ方は僕は違和感がありますね。絶賛テキストと対立しているのはあくまで"批評"テキストであって、"客観分析"記事は別のカテゴリーにいるというか、ある意味"絶賛テキスト"と並ぶ現代の人気ジャンルだと思います。批評が煙たがられるのは論点・視点を提示するからですが、しかしそれは"客観"や"分析"とはまた別のものです(重なることもありますが)。逆に"客観分析"記事が批評や論点を読みたい人の需要を満たせているかというとそれが案外そうでもないので、僕のような"主観"的な書き手にもまだ居場所がある訳で。(自分で言うな)
余計な話でした(笑)。まあちょいちょいこの人の言葉遣いは、引っかかることが多いんですけど僕は。全体としては、決して嫌いな人ではないんですけどね。

なんだか偉そうな肩書のついている他人が、自分の愛している作品を勝手に分析したり、腑分けしてああだこうだとかき混ぜたりすることには、我慢がならない。ましてや、良い点だけでなく悪い点まであげつらって、「ここが良くない」などと意地悪に指摘するなんて、不愉快極まりないというわけだ。

彼らは絶賛しか目に入れたくない。だから、ファンブックしか買わない。自分が好きなものを全肯定してくれる言説しか、読みたくない。


"勝ち負け"のあるスポーツではさすがにそこまでてはないですけど、ドラマの世界だとほんとこういう感じはしますね。賛成とか反対とかではなくて、興味が無いんですよね、批評や是々非々に。いかに持ち上げて(持ち上がって)気持ち良くなるか、愛を追究するか、それだけという感じ。ポジティブな材料だけを、ひたすらかき集めるというか。


#4(後) 「インターネット=社会」若者の間で広がる「セカイ系」の世界観 (2021.06.22) より

寄せられたリプの中には、「私が否定された。ひどい!」とでも言わんばかりの、とても傷つき、激しく苛立っている(ように見える)ものが、相当数含まれていた。


ああ、分かる。たまにありますね、自分的には特に批判したつもりもないようなコメントに、激甚に感情的な反応があってびっくりしてしまうことが。"若者"というよりは"女性"という印象が強いですけど、経験的には。そういう意味では、昔からなのではないかなと。
売ってない喧嘩買われるとほんと対処に困りますよね。戦闘準備もしてないし。(笑)
まあ若者なのか女性なのかはともかくとして、批評という"習慣"を持ってない人は確かにいるので注意すべきというか、そういう人と接する時はそういうものとして応対しないと駄目ですね。

それを言ったのが誰であれ、単なるネット記事であれ、ある個人の意見表明を目にした瞬間に、心がかき乱される。押し付けられていると感じる。自分が責められていると感じる。自分が否定されたと感じる。それが、激しい苛立ちと怒りに転換される。

「ただただ、批判に弱いんです。自分の視聴習慣が、もしかしたら誰かにとっては不快なのかもしれない、びっくりされるかもしれない、悪い意味で逸脱しているかもしれないという恐怖。それを言った人が、稲田さんひとりだったとしても、インターネットの記事を通すことで、“社会”に見えちゃう。つまり“社会”からダメ出しを食らったと錯覚してしまう」


ここらへんはあくまで、"最近"の傾向についての話というか、そういうサンプリングに基づいているらしい話。
これも要するに、"批評慣れ"の話ではあると思います。批評というのはつまるところ"距離"を測ったり"位置づけ"をしたりするものな訳で。そうした防壁無しに自分と違う意見やあり方を見てしまうと、いきなりどんと来る。どんと"来て"しまえば、これは誰でも実は結構他愛無く動揺して感情をかき乱されるものなので。それに関して強い人も偉い人も賢い人も、大した区別は無いと思います(笑)。だから防壁が必要なんですよね。"礼儀作法"とかも、要はそういうことだという部分があると思います。直に接しない為の手続き。
後段で面白いのは、自分が他人を不快にさせているかもしれないという恐れという箇所。自分自身が批判に弱いことの、裏腹ではある訳でしょうが、ある意味"筋が通って"るなと。"己の欲せざるところを人に施すことなかれ"的なものを地で行く何か(笑)。確かに批判・批評に耐性のある僕は、他人にそれを向けることにも無頓着ではあるかも知れない。まあでも批評したいですけどね、批評されたいし。(笑)

ただ、発信者の顔が見えれば安心します。以前、テレビを観ないという大学生がワークショップでテレビ局の方と直接話したら、『テレビ局の人がどんな人かわかったので、これからは今日知り合った方が関わっている番組を観てみることにします!』と言っていました。
要は、知らない人が作ったものに博打は打てない。だから、作り手の顔が見えているYouTuberの番組は見る。安心感があるので。コンテンツの良し悪しよりも、作り手の顔が見えていることが優先される。そんな判断基準なんです」(森永氏)


うわあ。
なんか色々腑に落ちるというか、呆気にとられるというか。(笑)
YouTuber人気の、これが正体なのか?(笑)
テレビ局の人がどんな人かなんて、考えたことも無いな。作品論として、作り手(飛鳥Pとか土屋Pとか(笑))を考えることはあっても。
なるほどねえ、ほんとに"人"につくんですねえ。上(#3)の「信頼している人が薦めている、確実におもしろいと評判の作品しか観に行かない」からの流れですけど。
なんか恐るべきコミュニケーション社会というか、コネクション社会というか。
#3の話の範囲だと単に勝ち馬に乗りたいカリスマに頼りたいという感じですけど、ここで求められている"安心感"は何かそれだけではない、根本的な判断基準の違いというか変化というか、そういうものを感じて少し戦慄するんですが、それだけに拙速にまとめるのは控えたい感じ。どういう類型や歴史的視点で、考えたらいいのかなあ。

「何を言うかではなく、誰が言うか」というやつだ。


うーん。こういうムラ社会的な悪弊というか旧弊から、逃れることが出来るのが、我々のインターネット、あるいは"インターネットの匿名性"だった筈なんですけどね。なんか一周回って"戻って"来ちゃったなあという。
まあ別にLINEやSNSじゃなくても、"ハンドルネーム"がついている時点で"誰"性は発生してはいたんですけどね。
そういう意味では、未だに(旧)"2ちゃんねる"がインターネットの最高峰だった感は僕はありますけどね。本当にフラットに発言内容を評価される緊張感が味わえた。スルーされたらそれは自分がつまらないことを言ったからだと、素直に納得が出来た。(笑)


ここまでが前回も取り上げた、狭義の[映画を早送りで観る理由]シリーズの範囲。
今日はここまでで、次回は次以降の記事についてまたコメントして行きたいと思います。


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テーマ:映画関連ネタ
ジャンル:映画
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