今回は"その後"に出た(稲田豊史氏が書いた)新しい記事についてのコメント。
[一覧]
[早送りする大学生たち]
(前編) 『鬼滅の刃』『イカゲーム』も早送り…大学生が「倍速視聴」をする理由 (2021.12.30)
(後編) 「なるべく感情を使いたくない」映画やドラマを「倍速視聴」する大学生の本音 (2021.12.30)
[Z世代のコンテンツ視聴]
(前編) ドラマも「切り抜き動画」で観る…「倍速視聴派」Z世代の視聴実態 (2022.04.19)
(後編) SNSで「無邪気に」感想が言えない…Z世代の「奇妙な謙虚さ」 (2022.04.19)
[作り手が語る倍速視聴]
(前編) 「倍速視聴」は進化か退化か。「プリキュア」「銭天堂」脚本家が抱く危機感 (2022.04.25)
(後編) 「Netflixとアマプラに絶望した」人気アニメ脚本家が明かした「本音」 (2022.04.25)
[早送りする大学生たち]
(前編) 『鬼滅の刃』『イカゲーム』も早送り…大学生が「倍速視聴」をする理由 (2021.12.30) より
コロナ禍でリモート授業が増える中、録画型のオンデマンド授業は容赦なく早送りされる。その理由は「効率的に授業を受けられるから」が多かったが、「その方が集中して聞けるので、頭に入る」というものもあった。
倍速にすると手っ取り早く「構造」が浮き出て来る(「構造」がより見え易い広い範囲が一望出来る)ので、特に「論理」的な内容は理解し易いかも知れませんね。感情・情緒が削げ落ち易いのも、この場合は純粋な利点か。
ただ一方で俳優・声優・アナウンサー等の"喋りのプロ"が語っていないものは、リズムや発語が不安定で倍速にするとかなり聴き辛く感じることも僕はあるので(逆に"プロ"のプロ性に改めて感心する機会にもなった)、そこらの大学の教員の喋りだとどうなるのかなという心配も。(笑)
「Netflixの社会派作品を好んで観るが、興味があるのは社会的なメッセージであって表現方法ではないので、会話シーンは飛ばす。」
僕の倍速視聴本格デビュー作『絢爛たる一族 華と乱』が、"表現としてはやや凡庸だけど社会背景等の内容に興味を感じる"作品だったのを、思い出しますが。まあこちらは"倍速"ではなくて"飛ばし"のケースなのかな?そもそもドラマなのかドキュメンタリーなのか、ここの記述では分からないんですが。ドラマの会話部分を会話だという理由で飛ばしたら、後はナレーションくらいしか残らない筈なので、ドキュメンタリーの話なのかなと思いますが。
間を取ってよく"ドラマ仕立てのドキュメンタリー"(またはその逆)で、"ドラマ"部分がダルいことは僕もままありますね。"見易く"したつもりなんだろうけど、インタビューとナレーションの方が話が早くて結局いいという。NHKのとか、多くの人に見てもらいたい"力の入ってる"ドキュメンタリーほどそのパターンが多くて、閉口しますが。その寸劇どうしても見ないと駄目?(笑)
まあこれは余談。
筆者がヒアリングした別の大学の女子学生も、韓国ドラマ『愛の不時着』(全16話)を「早く結末を知りたかった」という理由で途中話を飛ばし、いきなり最終話を観ていた。ただ彼女の場合、最終話で結末を知って満足したので、改めて第1話から「2周目」を1話ずつじっくり堪能したという。
ほお。これは。
倍速視聴も言ってみれば"早く先を知りたい"見方ではある訳ですが、順番を変える訳ではないので作り手が用意した「展開」に沿ってハラハラドキドキする、その流れに身を任せるそういう作法としては、オーソドックスと言えばオーソドックスな訳ですよね。
でもこれは単に流れを速めるのではなく、「結末」を知ることでまずその作品の「性格」や「価値」を確定して、それに基づいて見る/見ないを決めかつ結末を知ってある意味"展開のドキドキ"を排した(少なくとも比重を低めた)上でじっくり見るという、また別の行為に思えますね。
・・・「ストーリー」「展開」に頼らないという意味では、非エンタメ的芸術主義的な見方とも言えないことは無いかも(笑)。僕が「小津安二郎」を見ている時にも似た。まあ実際は、"結末"によって"好き嫌い"を先に決めて、"好き"と決まった作品だから安心して感情を乗せられるという、そういうことなんだろうと思いますが。前回の"人につく"行動にも近い、"キーワード「安心」"行動。
倍速視聴と併用されることも多い10秒飛ばしは、大学生にとって倍速視聴以上に「当たり前」の視聴スタイルだ。
繰り返し言っているように、僕は「倍速視聴」は多用しつつも(少なくとも初見時の)「10秒飛ばし」はやらない人なわけですが、そこらへんはどれくらい意図的な"選択"なのかなという。
つまり世代的にも僕のスタートは「録画映像の"早送り"」だった訳で、そこに「飛ばし」機能は物理的に存在していなかった訳ですよ。
無かったからやらなかったのかあればやった(習慣付いた)のか、逆に彼らは最初からあったからやっているだけなのかもし無かったら僕のように「倍速」化の方がメインになったのか。
記憶によると、youtube等のネット動画には"飛ばし"("戻し")機能は早々についていて、"飛ばし"は出来るけれど"早送り"は出来ない、それを不便に感じて"テレビ"の方を引き続きメインにした、そういう選択の記憶も僕はあるのでね。
要は"早送り"の無い状態である意味仕方なく"飛ばし"の活用に熟達した、その影響が"早送り"可の時代になっても続いている、そういう面はあるのではないかなという。
#青学大2-4年生の証言
以下は稲田氏調査による、現役青学生に対するアンケート調査の中で出て来た「倍速視聴」についてのコメント
「“間”を楽しめるほど表現に凝った作品がない」
映像劇の比較的ヘビーユーザーと推測される学生の発言。
実際多くの作品は倍速で十分な程度のor倍速なら耐えられるレベルの表現性しか含んでいない訳でね、やってみるとよく分かりますが。作った当人たちには、"可愛い"作品でも。そこらへんはどのジャンルどの時代でも存在する、シビアな"クオリティ"の問題。物理的に見られる作品が増えたことで、より見切りや比較はシビアにもなってるでしょうし。
更に世代的なことを考えると、そもそもが既に"間"の時代ではない、とっくに語りの効率と情報の詰込みの時代であった、「小津安二郎」まで遡るまでもなくという既成事実があって、尚更無駄な抵抗感が増しているだろうことは想像出来ます。
「倍速視聴は視聴者のニーズの変化・進化の現れであり、特に驚くことではない。今までは作品単位で『好き・嫌い』がジャッジされていたところ、現在では作品内のシーン単位、感情単位で『好き・嫌い』が発生し、『嫌い』部分が飛ばされているだけ」
作品単位からシーン単位へ。鋭い。
全体としても、今までも観客は実は散々"我慢"して来たんだよという、"その1"における僕の主張とも重なる気がしますが。それが抵抗の手段を得て、(当然の)反撃に転じたのだという。
まあ厳密に言うと、だから「ニーズの変化」(進化)という1行目の前提は、間違ってるように思いますが。変化はしていない、潜在していたものが目覚めただけ。それを"進化"と言うなら、そちらは合ってるのかも知れませんが。
「そのコンテンツにおいて必要ない、面白くないと感じる部分を、動画編集における“カット”の感覚でやっている。」
当然出て来る発想ではあるでしょうね。
僕の場合"カット"(飛ばしという意味の)はしない訳ですけど、「倍速化ではなく"適"速度化だ」という意味のことは言っていた訳で、そこに言わば"作り手"側の発想、作り手が撮影の後に必ず行う「編集」に似たものを受け手が自分で行う、そう"言いたい"部分はある訳ですね。技術的には、まだそこまでの話にはなっていませんが。
とにかく言わんとすることは、とてもよく分かる気がします。
・・・こうして並べてみるとあれですね、僕の頭の中って現役大学生(青学生)並なのかなという雰囲気も。(笑)
発想が若いと威張るべきなのか、子供っぽいと反省すべきなのか。(笑)
(後編) 「なるべく感情を使いたくない」映画やドラマを「倍速視聴」する大学生の本音 (2021.12.30) より
「たとえばミステリーもので、『この人、殺されるのかな? 助かるのかな?』とドキドキするのが苦手。突然殺されてびっくりさせられるのも嫌だから」。
だから結末まで知ってから見ると。
そんなバカな、という感じはしますが(笑)。じゃあ何の為に見るんだ、他ならぬその"ドキドキ"の為ではないのかと。
エンタメ・フィクションの見方としてはさすがに倒錯している気が僕もするんですが、ただもう少し視野を広げればそんなに理解できない行動でもないかなと。
例えば"フィクション"ではない"エンタメ"であるサッカーの重要度の高い試合について、自分が見る/見ないによる過去のジンクスや似てますが自分の応援態勢による"バタフライ効果"的なものへの漠然とした恐れ(笑)や、単に結果が怖過ぎてあえてライブでは見ないという行動を取ることが、全員とは言いませんが時にサッカーファン(スポーツファン)にはあると思います。あるいはこちらは"フィクション""エンタメ"のRPG系のゲームを、一回以上クリアして"結末"やほとんどの細部を知っているにもかかわらず、繰り返し何度もプレーし直すことは、ゲームファンにとってはむしろ一般的な行動でしょう。その場合"結末"や展開を知っているからつまらないなんてことはなく、むしろ知っているからこその条件プレーや再解釈プレーによって、ゲームの楽しさ味わいは初見時に勝るとも劣らない、そういう経験を多くの人はしていると思います。
僕なんかは正に、"ドキドキ"するのが嫌だから一周目プレーは苦痛なことが多いヘタレプレーヤーなので(笑)、引用部証言者の気持ちはその意味で分かる気がします。あるいは問題の映像劇、ドラマや映画についても、僕自身は基本やらないんですが同じ作品を繰り返し何度も見て楽しむタイプの人は、経験的には女性を中心に日本でもアメリカでも決して少なくない割合でいるようです。だから映像劇の"結末を知ってから"見る動機も"結末を知っているのに"楽しめる心情も、こうして見ると満更そこまで不思議でもないのかなと。
それにしても、とは思う訳ですがそこにはやはり稲田氏が問題にしているような、"現代の若者"が感情を揺らしたくないと思っている、セルフコントロールをたっとびそして何よりもストレス過多で疲れてゆっくり感情を使う余裕が無いからという、そういう理由はあるにはあるんだろうなと。実際感情を動かすというのは想像以上に疲れるものなので、だから人は何かの"問題"に対してことなかれ的に感情移入を避けたり、仕事上の課題を極力"事務的に""ビジネスライクに"済まそうとしたりする。あるいは僕はぜんそく持ちなんですが、不用意に感情を上下させたり笑い過ぎたり(笑)すると、それだけで数十メートル小走りした以上の発作が起きたりします。嬉しくても悲しくても余り変わりなく、体にはストレスなんですよね。だから"平静を保"って暮らしたい気持ち自体は、よく分かります。
とはいえ"ドラマ"な訳で、感情を揺らしたくなければそもそも見なければいいという話にはどうしてもなる訳ですが、それに関しては現代の"ストーリー"エンタメが、かなり知性理性に寄った形で、それで構わないものとして位置づけられているという傾向はあるのかなと。"その1"で取り上げた「ラノベ系の「〇〇〇したら×××した件」的なタイトルで内容を全部説明してしまうスタイル」なんかも、そういう例の一つかと思いますが。"広げ"たり"深め"たり"展開"したり、しない訳ではないんだけどそれよりもまずタイトルで明示したような結論やテーマにいかに帰納的に構成するか、それがまず目的であり内容。『デスノート』などに代表される、高度な推理や駆け引きを呼び物とする(ヒット)作品も、ある時期以降凄く増えてますしね。
言ったように"感情"を使うのは疲れるし億劫なもの(特に使う"前"は)ですし、古今東西新しい世代は古い世代の慣習的な"情緒"を蹴散らす形で自らの立場を主張するものなので、大きくはそんなに珍しいことではないと思いますが、ただそうした作品の質と量と存在感がやや異例に大きくなっている感もあります。例えば「本格ミステリ」(あるいは"新本格")というような形で"人物"や"感情"を最低限の記号的な描写に止めてパズル的な構成美だけで勝負するようなストーリージャンルは以前からありましたが、それらはよく言えばエリート的な悪く言えば単にマイナーで奇形的な存在感にとどまっていたように記憶しています。そうした風景と比べると。
「等速での視聴は作品の微妙なニュアンスを捉えようとする行為ですが、それにはすごくエネルギーと集中力を使いますし、集中できる環境と整った気持ちも必要です」
腰を据えて取り組まないといけないので機会が無いのと億劫なのと。
あと実はある種の"スキル"が必要な部分もあるように思います。"学習"というか。
例えば子供にorライトなポップミュージックリスナーにいきなりブルース(系の音)を聴かせても何だか分からないでしょうけど、慣れて来ると不思議なことに個人的な生活史に存在しなかったその音が"第二の本性""魂の故郷"的に聴こえて来たりするんですよね、実際。それだけ潜在的な普遍性はある訳ですけどしかしそれを呼び覚ます為には慣れる、聴き方ノリ方を学習するプロセスが一定程度必要になる。(普通の日本人は)
映像劇の"ブルース"にも一定の学習が必要な部分があって、その機会の(まだ)無い人・年代が食わず嫌い的に"感情"を避けてるみたいなところも、まあなくはないのかなというそういう話。
上の発言の後半。
「とはいえ、観る作品が多すぎるため、全部の作品にそのような向き合い方はできません。なので、どうしてもエネルギーを使わないで観る倍速視聴や10秒飛ばしが多くなる」
うーん。ただね。
結局感情移入してしまう時は、してしまうんですよね。作品数が多かろうが少なかろうが、その時見ているのは目の前の一本なので。・・・つまり「倍速化」"出来ない"と感じる作品は、どんなに忙しかろうと出来ないと感じてしまう訳で。
だからどちらかというと、影響を受けているのは今まで習慣的に"親切に"見てもらっていたレベルの作品で、作品数が増えて一番増えるのもどちらかというとそういう平均かそれ以下の作品だろうと思いますから、単純に多過ぎるという問題と"向き合う"(べき作品と向き合う)習慣が形成されない問題は、一応別に考えたい気がするんですけどね。(ってまあ蛇足かなと書いていて思いましたが(笑))
しかし結論から言うと、その早口はむしろちょうど良かった。授業後に提出された学生のミニレポートから察するに、少なくとも単位時間あたりの情報量は適正だったようだ。
単位時間あたりの情報処理能力は――少なくとも、筆者を含む20数年前の大学生に比べて――格段に上がっている。そう感じざるをえなかった。
この問題について大学生に(自分的には早口に)講義した際の、筆者の感想。
「単位時間あたりの情報量」って、おい、俺の真似か?と一瞬思いましたが(笑)、"2021.12.30"の記事なので真似したとしたら僕ですね(笑)(2022.4.20記事)。してませんけど。(笑)
まあそういう言葉で表現したくなる現象だということでしょうね。僕にとっても稲田氏にとっても。
[Z世代のコンテンツ視聴]
(前編) ドラマも「切り抜き動画」で観る…「倍速視聴派」Z世代の視聴実態 (2022.04.19) より
稲田 だけど全話一括配信なら、ある1話の最後に何かが解決していなくても構わない。問題の解決をどんどん先送りしていったほうが、むしろ連続視聴してくれる。
稲田 最近だと地上波でも、菅田将暉主演の『ミステリと言う勿れ』(フジテレビ系、2022年1〜3月放映)がそうでした。事件解決型のドラマだから1話完結、あるいは前後編の2話分で完結するというのが定石であるところ、必ずしもそういう構成になっていない。ある話の途中である事件が解決したと思ったら、そのまままったく違う別の事件が始まり、途中まで描いて、続きは次週に続く。こんな感じでした。
なるほど。そういうことだったのか。
最初は『ダイイング・アンサー #法医秦明』('16)だったと思うけど今見てる『#鎮魂』('18)もCCTV『無名の衛兵』('19)もそうで、(1つの大事件ではなく)複数の事件を追う捜査"シリーズ"物で、回/話の"途中"で事件が解決して次の事件に移るという構成は、何か中国では定番というか好まれる形のようですね。 pic.twitter.com/1YvX4Jknb1
— アト (@youka2019) April 20, 2021
引用は中国の話ですけど、日本よりかなり早く"配信"にドラマの主体が移っていた中国において、それに対応した形態ということだったのかと今更分かりました。当時はそこまで"配信"も意識していなかったですし、見かけは普通のテレビドラマででも日本は勿論欧米にも見られない形態だったので、結構戸惑いましたね。
(後編) SNSで「無邪気に」感想が言えない…Z世代の「奇妙な謙虚さ」 (2022.04.19) より
稲田 「飛ばした10秒の中に後の伏線になるような重要なシーンが含まれていたら困るのでは?」という倍速視聴批判派の声に対して、ゆめめさんは「どうせ自分には気づけないので。そういうのはプロに任せればいいやと思っちゃう」と言った。
うーん。結構画期的な発言、なのか実は(特に)女性視聴者は昔からそういうところがあったのか。
どのジャンルでも基本「分かっている」という態を前提に理解力と見栄を競っている(笑)男性ユーザーに対して、そういう競争からは一歩も二歩も引いている女性ユーザー、という。
ただまあ、女性視聴者だって("伏線"等の)物語の繋がり自体には特に"批評"的な意味でなくても興味はあるだろうし、"背景"やら"構造"やら"象徴"やらならともかく"伏線"程度のことは、特別な知識や頭脳が無くても("プロ"でなくても)理解出来るように作り手側は作っている筈なので、やはり何か、意表を突かれる諦めの良さではあるように思います。
やや強引に解釈すると、上で"感情"が捨てられていたようにここでは"知性"が捨てられていると、そういう言い方は出来るかも知れません。ある映像劇という一つのソースの可能性の中から、各々が欲しいものだけをピックアップして、持って行っている風景というか。「作品」(全体)という強迫観念の死というか。
稲田氏自身はこれを、(奇妙な)「謙虚さ」、ネット上にいるいかにも"分かっている"人たちと比較しての自分の"分かる"ことの断念という、そういう文脈で取り上げていますね。これだと僕の"男女"比較論に近いというか、その現代バージョンという感じ。
ゆめめ 作品についての間違った解釈をSNSで発信すると、ダメ出しのリプが来るじゃないですか。
ゆめめ 私も含めたZ世代の子たちにとって、今のTwitterはもう私たちのメディアじゃないんですよ。“論破”したい空間になっている気がして。リプが来ないにしても、自分が好きな作品を自分よりずっと詳しい人がSNS上にはたくさんいるし、目に入る。だから私なんてまだまだ……と思ってしまうんです。だから私たちって、 自分の好きなものを「好き」とSNSで無邪気に言いにくいんですよ。
そんなにリプが来るもんなんでしょうか。羨ましい(笑)。(いやそういう話では)
サッカー界隈だと、批判的ツイートには多少なりとも気は遣いますが、褒める分には別にという感じですけどね。わざわざ"過大評価だ!"と怒って来る人は、まず見かけないと思います(笑)が。「作品」解釈だと、そこらへんもっとデリケートなのかも知れない・・・うーんでも僕も属している(?)アジアドラマクラスタでも、ちょっと心当たりは無い雰囲気ですね。分からん。どこの世界のtwitterなのか。まあネットには自分の知らない世界がいくらでもどこにでも、自分の住んでいる世界のほんの隣とかにも存在しているものですから、どこかにはあるんでしょう。
分からんと言えば"Z世代とTwitter"もそうですね。確かにtwitterは当初思われた"どうでもいいことをつぶやく"ツールではなく、コンパクト評論や大喜利の腕を競うハイインテンシティ空間にはなってしまいましたが、逆に"Z世代"(1990年代中盤から2000年代終盤までに生まれた世代)は"どうでもいい"時代のtwitterを知ってるのかなと、言ってる内容というより「世代」感覚がよく分からない。
僕が始めた2011年には、既にその変化は終わりかけていたようなそんな記憶ですが、その頃はまだ(Z世代の)年長組でもやっと高校生になるかならないかくらいの計算になりますが。
まあちょっとここらへんは、興味はあるんですがなかなか精度の高い議論はいきなりはし辛いですね。受け止めつつ保留。
ゆめめ 私もそうですけど、Z世代は先のわからないことや想定外の出来事が起きて気持ちがアップダウンすることを、“ストレス”と捉える傾向が強いので。Z世代は「体験」より「追体験」を求めるんです。
「体験」より「追体験」。
上で言った"RPGの繰り返しプレー"が正にそれですね。上手い言い方だ。"先の分からない初見プレーはストレス"だと、僕自身も告白しましたし。(笑)
逆に世代論としてはどうなるんだろう。"RPG"という例で言うなら僕が始めたスーファミ時代だと、攻略本は勿論ありましたが(薄い奴ですけど)攻略サイトの時代ではまだ無かったので、そういう意味でネット社会が全面化した後に生まれ育った世代は最初から情報が溢れ返っているので、"答えを先に知る"ありきで対応するのが当たり前になってるとか?
ただ一方で更にその後一般化した"オンラインゲーム"って、そう簡単に引きこもらせてくれない/"追体験"に浸らせてくれないシステムじゃないですか。何せ「他人」という予測不能要素が最初からいる訳で。そこらへんはどうなってるんだろうという。
またも保留かな(笑)。面白げな話ではあるんですけどね。「追体験」志向だから"切り取り"や"飛ばし"で「結末」を知ってから見るという、その論理自体の繋がりは分かり易いんですけどね。
ただその主語/主体が少し正体不明。
ゆめめ SNS断ちはできなくても、「友達とつながること断ち」は進んでます。非公開のSNSアカウントを作るとか。もはや私たちは、誰に向かってつぶやけばいいのかわからなくなっていて、SNSがどんどんクローズド化していっていますね。
稲田 アカウントに鍵をかけて、誰も見てなくても構わないわけだ。
ゆめめ はい。私もめちゃめちゃやってます(笑)。
稲田 昔で言うところの、誰にも見せない日記と一緒だ(笑)。若者がやりがちな。
「友達とつながること断ち」。面白い。
(LINEグループで)そんなに四六時中人と繋がってて平気なのかと思いましたが、平気じゃないんだやっぱり。安心しました。(笑)
それにしても鍵かけて誰も見ていない状態でつぶやくとは。確かに"誰にも見せない日記"は僕も書いたことはありますが(笑)、ではその時twitterがあったら非公開でやったかというと、それはやらなかったろうと思いますね。やっぱり読んで欲しい(笑)。"匿名"の方は、断固として守るとしても。
どうなんでしょうね、実態は。やはり「議論」や「評論」に対する態度に無視出来ない男女差はある(少なくとも日本人の場合)ように僕は思うので、証言者のゆめめさんが女性であることが少し構図をぼやけさせるところがあります。つまり女性ならではの行動という面が、ありそうな気がするという。
[作り手が語る倍速視聴]
(前編) 「倍速視聴」は進化か退化か。「プリキュア」「銭天堂」脚本家が抱く危機感 (2022.04.25) より
小林 そもそも、映像作品って小説や漫画とは違う特徴がありますよね。書物を読むのは能動的な行為、映像を観るのは受動的な行為と昔から言われています。特に映画は「時間の芸術」と言われていて、観客は時間の流れをコントロールできないという前提で表現手法が発展してきました。
映像を観るのは受動的な行為。
昔栗本慎一郎が映画批評の神様(?)蓮実重彦を評した箇所で、映画館で映画を見るというのはひたすら受動的に映画に犯され続けるマゾ的な行為で(それに従順なのが例えば淀川長治的評論)、それをサド的に転倒したのが蓮実だと言っていてなるほどと思いましたが。
ただテレビの時代とそれに続くビデオ/録画の時代に入って既に長いわけで、「映画館で見る映画」という、極端に言えば"特殊状況"を前提に映像体験を考えるのは、なかなか厳しいものはあると思います。
ある意味その時点で、視聴者が停止/早送り/巻き戻しボタンを手に入れた時点で、今日の「倍速視聴」状況の運命は定められていたと、そういうことは言えるかも知れません。ネット動画にその機能が"最近"実装されたのは、単なる技術の問題というか時間差の問題というか。
稲田 その高密度の情報に慣れている子供たちが成長したら、説明のないシーンや物語の「緩」の部分で、今の若者が感じている以上に「なんか、かったるいな」と感じるでしょう。その意味でも、倍速視聴や10秒飛ばしの流れは止まりそうもありませんね。
"高密度の情報に慣れている子供たち"というのは、"単位時間あたりの情報処理能力が格段に上がっている大学生たち"と似たような話として。
ただ一般論や世代論はともかくとして、僕自身が元記事(『僕の倍速視聴ライフ』)で言いたかったのは、"物語の「緩」"の部分だからかったるいのではなくて、位置づけ的に「緩」だろうが「急」だろうがクオリティ自体が「緩」だからかったるい、だから倍速にするというそういうことなんですよね。それこそ小津安二郎とか、ほぼほぼ「緩」ですからね(笑)(最後の最後だけ急いで驚かすのが定番の作り)。でもそれは倍速にしない訳で。
で、問題となっている大学生を代表とする新世代も、実は本質的にはそんなに僕と変わらないだろうと思います。ツールが豊富になったことによって、よりシビアにより残虐にクオリティチェックを行っている、その結果だろうと。そういう意味では当面は必然の現象かと。シビア過ぎて入り口を狭くし過ぎている面は、あるにはあるだろうと思いますけどね。更にその次の世代あたりで、そのことは問題になって来るだろうと思いますけど。
(後編) 「Netflixとアマプラに絶望した」人気アニメ脚本家が明かした「本音」 (2022.04.25) より
稲田 あえて主人公の素性を最初からは詳しく描かず、何話か観るうちに少しずつ主人公のパーソナリティがわかってくるタイプの作品もありますが……。
小林 配信には向かないと思います。とにかく、一番大事なことを最初に描く。時系列通りでなくてもいい。「どうしてそうなったのか」を、第2話以降で時間をさかのぼって描けばいいんですから。むしろそのほうが、第1話の時間軸に到達するまで観客の興味を引っ張り続けられます。
配信向けの脚本の組み立ての話。
理屈ではそうなりそうなんですけど、これほんとなんですかね。僕自身は、"冒頭に現在が来てその後過去に戻って現在に至る状況を説明する"パターン、大嫌いなんですよね。だるくてしょうがない。
そもそも脚本の世界では、"なるべく「回想」を使わない"、それは説明には便利でも観客にはストレスだから物語のスピード感を落とすからというのが長らく定番的な戒めになっていて、それは実際正しいと僕もいち"観客"として感じて来たんですけど。"配信向けの構造"はその"観客生理"を上回るパワーがあるのかメリットが勝つのか。
まあ僕が言っているのは主に「一話」単位の話で"配信向けの構造"が言っているのは一気見的なものを前提としたシリーズ全体の構成の話でしょうから、そこにずれはあるでしょうけどね。あるいは"タイムリープ"ものの大流行を見ると観客生理そのものが変質しているか、もしくは単位エピソードの短さが時間軸の移動の煩わしさに勝っている、前者が"倍速/飛ばし"世代には殊更重要であるみたいな想定は出来なくは無いですけど。なまじ"一本のストーリー展開に寄り添ってじっくり鑑賞する"能力を発達させ過ぎたから、時間軸の移動が煩わしく感じてしまうのかもしれない。(笑)
まああんまり本気で言ってないですけどね。そんなにベースの感じ方が変わってるとも変わるものだとも、僕は思っていませんが。何かもっと別の説明・分析があるのではないかと、仮に言うところの"配信向け"話法が有効性を持っているとしても。(その部分自体が割と雰囲気だけで語られているような気もします)
小林 多くの映画ファンはNetflixとAmazonプライムビデオが普及しはじめたときに喜んだと思うんですけど、僕は絶望の方が大きかったんです。
小林 「ああ、これで観たい映画やドラマやアニメを一生かけても全部観きれなくなった……」って。
めっちゃ分かる。ウケた。(笑)
ウケ過ぎたのでこれについては別記事で独立して書きたいと思います。
腹痛い。(一人で勝手にウケてる)
小林 『選択の科学』(シーナ・アイエンガー著)という本には、「人間は選択肢が多すぎるとかえって幸福を感じにくくなる」と書かれています。なぜかというと、「選ばなかった大多数のものの中に、もっと良い選択肢があったに違いない」と未練を抱いてしまうから。
まあとりあえずはそういうことですよね。
Jリーグとかもクラブ数選手数が一定限度を越えた時に、僕は一回興味を失いましたし。(一段階後退したというか)
"俯瞰""把握"出来てる感というのは、大事です。
小林 そうそう。あともうひとつ感じたのは、「自分がこれから脚本を書く新作も、この膨大な作品群の中に埋もれていくんだな」という絶望です。
それはそうでしょうねえ。
当たるにしろ外れるにしろそれなりにダイレクトに観客の存在を感じられていた時代から、中空に向けて弾を撃つような、大海に石を投げ入れるような、"いつか見てくれるかもしれない誰か"に向けて書く/作るような感じに、なりつつあるのではないかなと。個人ブログかよという。(笑)
おや、これで終わりか。
今回はほとんどまとまりとか気にせずに、各個対応した感じでした。
稲田氏のこのシリーズが続くなら、"3"もあるかも知れません。