2020年の映画。日本映画専門チャンネルにて。
明日放送🎯
— 日本映画専門チャンネル (@nihoneiga) July 9, 2022
「#三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」
◆7/10(日)午後3時10分~ほか#三島由紀夫 が東大で敢行した
伝説の討論会の全貌を映すドキュメンタリー🎥
その圧倒的熱量を体感🔥
全共闘元メンバーや#瀬戸内寂聴 ら識者の証言も交え
三島の心情にも迫る意欲作🗣️https://t.co/8hFfgJY6o0 pic.twitter.com/3kMgNw3Q6n
「日本映画」はともかくとして、挑発的/ユニークなドキュメンタリーを沢山やってくれるので、最近すっかり固定契約になっている日本映画専門チャンネル。と、感謝の宣伝をしておいてと。
1969年5月13日、同年1月に"安田講堂陥落"を経験したばかりの東大全共闘側の招きに応じて、反共民兵組織「楯の会」の活動も活発化させ、"右翼天皇主義者"の定評が既に確立していた作家三島由紀夫(Wiki)が駒場キャンパスの大教室で1000人の学生聴衆を相手に行った"討論会"の模様を、TBSが撮影した素材から編集したもの。
"政治討論"としては、個人的には正直物足りないというか見る前の緊張感からすると拍子抜けという感じでしたが、その大きな理由はこの会の形式にあって、壇上常にいるのは三島由紀夫のみで司会者らしい司会者のプレゼンスも無く、学生側は入れ替わり散発的に質問を投げかけるのみで、要は質疑応答多めの講演会、場所柄も考えれば"授業"でしかない(笑)感が強くて、"討論"としての中身は薄かったと思います。(まあ編集にもよるのかも知れませんが)
唯一中盤に登場した学生側ナンバー1論客らしい芥正彦が、学生ながらの自分の赤子を抱えて芝居気たっぷり(?)に三島に挑みかかって来た時(上写真2枚目)だけは、議論が白熱し、三島もたまに黙り込みつつも好敵手登場にむしろ嬉しそうにしていたように見えましたが。
そういう意味では思想以前にやはり大人と子供でしかない部分はあって、70代になった芥正彦の「自分(だけ)は"学生"のつもりはなくて一人の表現者として三島という表現者に対したつもりたった」という当時を回顧してのコメントに、そこらへんは集約されている気がします。三島vs芥を両者着座してじっくりでもやれば随分違ったろうとは思いますが、この映像の範囲内では、うん、細かいとこは本読もうというある種身も蓋も無い感想になってしまいますかね。
ただでは三島は一方的に語ったのか独演会だったのかセミナーだったのか洗脳だったのかというとそれも違って、作中で内田樹氏が言っているように、三島は本当に学生たちに分かってもらおうとして語りかけている、テクニカルな論破論駁は全く目指していない、終始オープンな態度でい続けていて、そういう意味で討論が盛り上がらなかった(と僕には見えた)のは三島の責任ではなく、形式及び学生側の力量の問題だと、そういう評価になる訳ですが。
まあ"優し"過ぎて殺伐としなかったのが逆に問題だったという言い方も、あるいは出来るかも知れませんが。(笑)
vs1000人だから不利かというと、意外とそうでもないよなというのも。逆に"1000人"側は何を言ってもヤジやいじめにしかならない所があって、要求を訴えたいだけの陳情会とかならともかく、仮にも"論客""思想家"という自負で集まっている集団としてはそういう訳にもいかないので。そういう意味でやはり"形式"を何とかすべきだったんじゃないかなという、そういう話。
という訳で僕が興味を惹かれたのも、議論の行く末ではなくて序盤三島が行ったとりわけ"独演会"的だった部分から。
1.三島由紀夫の「反知性主義」
「私は今まで、どうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が、嫌いで嫌いでたまらなかった」
(全共闘運動の)「ある日本の大衆教養主義から来た知識人のうぬぼれというものの鼻を叩き折ったという功績は絶対に認めます」
後者は三島の言う"日本の大衆教養主義から来たうぬぼれた知識人"の代表とされる東大法学部教授丸山真男に対して、
・東大を筆頭とする全共闘の学生が「欺瞞に満ちた戦後民主主義」の象徴として激しい批判を向け、
・1968年の東大紛争の際には研究室に侵入して研究資料等を損壊するに及んだ
あたりのことを言っているようです。(全てWikiから)
「私はそういうものの、反知性主義というものが、実際知性の極致から来るものであるか、あるいは一番低い知性から来るものであるか、このへんがまだよく分からない」
先に言っておくと、三島由紀夫が"反知性主義"者である、あるいはそれを自称しているというそのこと自体には、僕は特に驚きはありませんでした。大きくは"戦後民主主義"意気軒高な時代下での、小さくは左翼学生運動がまだリアリティを持っていた時代に、どう見ても"知識人"の部類であるノーベル賞候補作家があえて"右翼天皇主義者"を名乗り鍛え上げた肉体を殊更人前に誇示するような振る舞いに及んでいるからには、それくらいの居直りはあってしかるべきと予想はつきます。ただ近年になってドナルド・トランプの出現によって俄かに目に入るようになったその言葉が、この時代でもそのまま使われていたんだなという、そっちの驚きというか意外感。
そのトランプの"反知性主義"と三島由紀夫の"反知性主義"に、共通性があるかと言えばそれも大いにあるだろうと思います。トランプがCNNを全否定的に侮蔑する時の感情と、三島由紀夫が丸山ら当時の「進歩的知識人」(やその影響下にある大新聞マスコミ)に向けていた感情、学生の言ってみれば特に意味は無いただの不法行為による暴挙まで含めてあっぱれと褒めたたえるようなそれとの間に、そんなに大きな違いは無いだろうと。無茶苦茶は無茶苦茶なんだけど、とにかくそれらの通り一遍な"正しさ"にイライラしていると、それはトランプの支持者じゃなくても理解は出来たろうし(だからあれ程の影響力を持った)、当時を知らない50年後の僕にも、特に説明の必要なものには感じられません。・・・直接は知らなくても、その残滓や後継はそれぞれの時代に見ようとすれば見出せるものですしね。
一方で違いを見出すことも出来るは出来て、例えばトランプが敵視したのは言ってみれば国(アメリカ)の"半分"なのに対して、三島の"敵"は恐らく8割とかそれ以上(だから抗し得ずに"割腹"するしか無かった?)。あるいは結果支持はそこに留まらなかったとはいえ、トランプが主に呼びかけたのが(自分自身も含む)知的でない大衆なのに対して、三島の呼びかけの対象はそれよりはだいぶ知的な自負を最低限持った層で、それこそ東大生の説得にもわざわざ出かけて行く。
そこらへんは引用部分の「知性の極致」と「一番低い知性」という対照にも、表れているかもしれませんね。どちらのチャンネルからも、"反知性主義"には到達出来る。上の三島の言葉を真に受けるならば、どちらが本質なのか本来的なのか、三島は悩んでいたということですが。
「知性の極致」としての反知性主義とは何かと言えば、それはつまりただの"教養"としての、当世のモードに追随的なだけの無反省な"知性"に飽き足らない知性が、より根源的な問いを発しようとする時に生じる"反"性。"所謂"的知性に対する"反"、"半端な"知性に対する"反"。この映画内の討論でも散見出来るように、当時の学生運動家たちがそういう意味で"知的"であろうとしていたのは明らかで。ここら辺になると、さすがに"トランプ"という類例では語れなくなる。
そしてそういう意味での「反知性主義」でもって、"右翼"三島由紀夫と"左翼"東大全共闘も立場の違いを越えて同質性を見出すことが出来て、それもあって笑いの絶えない存外和やかな集いにもなったわけでしょうけど。まず相手が馬鹿でなく話を聴く気があり、立場を越えた対話の可能な"真理意思"の持ち主であること、それが右左よりも優先した。三島はともかく、特に学生たちにとっては、そうであったでしょうね、それこそ"丸山真男"との違いとして。(注・僕自身は丸山真男思想に対して、噂話以上の知識は持っていません)
ありていに言えば、(戦後民主主義という)共通敵の存在を、改めて認識したというか。
一方でしかし三島は、「一番低い知性」の本来性の方にも、同等に近い可能性を見ている(た)らしい。これは別な言い方をすると、"ある種の""所謂""半端な"知性に絶望する(「知性の極致」からの反知性主義)にとどまらず、知性そのものへの丸ごとの絶望の可能性ということだと思いますが。後者があったから強かったからこそ、後年の三島は"楯の会"の活動等の極端な行動主義や肉体主義にたどり着いたと、そういう想定は出来そうではありますが。
正直個人的に違和感を禁じ得ないところはありますが。知性が駄目だから行動?その分け方って本気で検討に値するようなものなの?そもそも人間の意識的活動で"知的"でないものなんてあるの?ああそうかそれは分かっているから、「一番低い」とはいえ"知性"という言い方をしているのか。ならばその場合の"低さ"には"高さ"の欠如以上の積極的な意味合いや"契機"としてのダイナミズムが存在しているのか、それとも単に"なるべく"ミニマムな知性ということでしかないのか。
楯の会的活動があれはあれで"表現"活動であったのか、それとももっと実利的物理的な"祖国防衛"行動そのものであったのか、それによってもまた見方は変わって来そうではありますが。映画ではそこまでは分からないので、いずれ機会を作って三島由紀夫の後期の著作のいくつかでも読んでみたいと思っていますが。(前期の作品のいくつかは中学の時に読んだ記憶(笑))
なかなかいきなり(純)"文学"を読めと言われても今更辛いものがありますが(笑)、そういう別な興味があれば。
次のテーマ。
"他者"の存在とは
自ら実力部隊を組織し、別の集まりでは"政治的暗殺"の実行可能性についても公言し、「無限定無前提の暴力の否定という立場にはつかない」という三島。(それは日本共産党的なものであると。学生運動の暴力性についても一概に否定しないと)
それに対して自らもそうした(時に暴力的な)活動の渦中にいる主催者側の全共闘の学生の一人(一応司会者)が、暴力の政治的社会的有効性という話は分かるけれども、そうは言っても暴力は怖いし暴力・殺人を許容するからには自分自身が殺される可能性もある訳だし、そんな簡単に言ってしまっていいのか三島先生は(例えば暴力の対象としての)「他者」というものをそもそもどう考えているのかと、鋭いというよりも素朴な、それだけに本気の問題提起を行って、それに対する三島の答えが以下のパート。
"エロティシズム"
「私の大嫌いなサルトルが『存在と無』の中で言っておりますけども、一番猥褻な物は縛られた女の体だと言ってるんです」
何を言っとるんだと最初は(笑)。サルトルの性癖なんぞ知らんと。(笑)
「エロティシズムは他者に対してしか発動しないんですね」
「他者に対してしか発動しないのが本来のエロティシズムの姿です」
ここも一見当たり前のことを言っているようでなんだろうと思いますが、徐々に意味が。
他者。自分でないもの。"対象"(正に性的な)。主体たる自分に対する客体。
要は自分とは違うもの、自分と同様の主体性を持つとは認めないものに対してのみ、エロティシズムは発動する、簡単に言えば欲情する、欲情出来る。そういうことを言っている。
性的利用の対象に出来る、とでも言えば、ニュアンスは伝わり易いか。
性は常に不均衡である、疎外である。
「ところが他者というものは(実際には)意思を持った主体である」
「これはエロティシズムにとっては非常に邪魔物になる」
「相手が意思を封鎖されている、相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が一番猥褻で一番エロティシズムに訴えるんであります」
だから"縛られた女の体"こそが一番猥褻だと、そういう繋がりでした。
"一番"とまで言うのは、単純に相手を(心の中で)客体化している状態よりも、一度相手の"主体性"に気付いた上で、尚それを"縛る"という行為によって再度客体化する、そのプロセスが性的テンション/圧力を高めるからでしょうか。
途中関連して、こんなことも言っています。
「ですから意思を持った主体を愛するという形では、男女平等というのは一つのこの矛盾でありまして。
お互いの意思によって愛するというのは本当は愛のエロティシズムの形じゃない」
相手に主体性を認めないからこそ欲情出来る(欲情している時は相手に主体性を認めていないと言った方が通り易いか)のに、「男女平等」という思想は前提としてそれぞれが主体であるということを言うわけで、それが正しいか正しくないかは別として、エロティシズムの発動にとっては敵な訳です。
主体と主体はセックス出来ない。どちらかが客体であることを受け入れるか、あるいはそれぞれがそれぞれに相手を客体化するか。(別に物理的な主導権の取り合いではない/限らないので、やりようはある)
主客未分のめくるめく境地も、どこかにはあるのかも知れないですが。(笑)
「これが人間というものが人間に対して持っている関係の、私は根源的なものじゃないかと思います」
いいとか悪いとか言っている訳ではなくて(ただしこの後の"暴力"論の論旨からするとある意味では"悪い"と三島は言っているとも言える)、人間とはそういうものである、極力他者の主体性を認めたくないものである、それを認めるとセックスの一つも不安で出来なくなるものであると、そういう話。世界に主体は自分一人で十分。だからあらゆる差別もいじめもハラスメントも、絶え間なく起きるんですね。隙あらば他人の"主体性"を低く見積もりたい何なら消したい、自分の主体性(感覚)を強化する機会/立場は逃したくない、そうでないと不安で生きていけない。
まあセックスに関しては、ある程度以上責任持って語れるのはとりあえず男の場合だけですけどね(笑)。女についても観察の結果として思うことは無くはないですが、そこは"専門家"にお任せします(笑)。少なくとも男の場合は、だからあんまり自信をくじくと主体性幻想を損壊すると、出来るものも出来なくなるから優しくねと、言ってはおきたいですが。(笑)
話戻して上では"男女"平等についてだけたまたま語られていますが、同時にこれはあらゆる「平等」思想の抱える困難でもあると思います。究極的には、誰も"平等"なんて認めたくないというか、認めることは出来ない訳です、「主体」は自分だけ(または自分の属するカテゴリー集団だけ)な訳で、そうでありたい訳で。
ただ"究極"まではそれなりに幅や余裕はあるので、社会運営上の実際の問題としては、存在の根源的に脅かされない範囲で、なるべく大きめに、互いの主体性を認め合いましょう、それがいいんじゃないのお互い様だしという、基本的にはそれが今の社会の方針な訳ですね(少なくともつい最近までは)。究極的には欺瞞かも知れないけど、別に究極だけが大事な訳ではないので。社会にいるほとんどの他人は単に束の間通りすがるだけの存在なので、いちいち究極を持ち出して事を荒立てんでもというか。
問題はそうした誰にでもある存在的な"不安"を、感じるポイントが結構人それぞれというか、耐性に関する個人差/集団差が大きいというか。それが言語として組織され正当化固定化されて、"政治的"立場にもなってしまうというか。平等の可能を無前提に語るのは、"理論的"に不用意だと僕も思いますが、さりとていちいち攻撃して回るのも、そんなに万人の万人に対する戦いを引き起こしたいならやればいい、ただしどこか別のところで、ちなみにその時最後に残る勝者が自分であるという見込みはどれくらい?と、言いたくはなります。
・・・でもやっちゃうんでしょうね。不安だから。
"暴力"
「(例えば)佐藤内閣というものが諸君に対して攻撃的であると諸君が理解する、そしてその攻撃意思は相手の主体的意思と既に認める、この認めるところに諸君が、他者というものを非エロティック的に、そして主体的に把握しているという関係が生じるんじゃないかと思います」
「しかしそれはですね、人間関係の根本的な自と他の対立というものではないんだと私は理解するんです」
「というのは他者というものは我々にとっては、本来どうにでも変形され得るようなオブジェであるべきなんです。これが自というものにとっての他者のそうあるべき状態、あるいはそういう状態であるべき他者というものを我々は欲求してるんです」
「しかるに相手が思うようにならん、そこに我々と他者との関係が難しくなる、非エロティック的になる」
「そして非エロティック的になって来ると、本当は暴力というものは発生するのはおかしいんだ」
(中略)
「また向こう側から、警察権力から諸君を見た場合も、諸君というものはただ何らの主たる意思の無い、さっきの気〇いだと思えば、これに対して暴力をふるう余地は無い。そう言いながらもやっぱり暴力をふるう時は諸君の中に主体を認めているからであります。こういうような状況を作る、こういう状況は一つの、自と他の関係を無理やりに相手に対して主体を認めようとする、相手を物体視しないという関係を作る、これ私は関係に入って行く、自と他が関係に入って行くただ唯一の方法ではないかと思うんです」
これは何を言っているのかというと。
上の"エロティシズム"論の序盤の方で、あえて引用から外しましたが
「暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある」
ということを三島由紀夫は言っている。
その時は両者の同質性、"他者の主体性剝奪行動"としての相似性(またはそれを前提とした"エロティシズム"の本来的な"暴力"性)ということを言うのかなと思っていましたが、違いました。
そうではなくて三島は、暴力にはエロティシズムにはない、互いの/他者の主体性を予め認めた上での(自他)"関係"の構築、その契機となる可能性を認めているんですね。(逆に言えば上で少し言ったように、自他関係上"エロティシズム"には足りないor望ましくない性質があると)
具体的にはどういうことかというと、暴力をふるう時、相手を攻撃しようとする時、当然そこには相手の"反撃"の可能性がある訳です(特殊な無抵抗思想を持った相手でない限り)。相手の反撃の可能性を予見しながら攻撃をする、あるいは反撃能力が予見できるような相手だからこそ、真剣に攻撃する(警察権力のような強者が)。その時攻撃者、暴力の行使者は、"反撃"の意思と能力という形での相手の「主体」性を、大いに必然的に認めている、暴力というのはそういうものであらざるを得ない、だから一見ひたすら破壊的で否定的なものに見えるだろう"暴力"は、実は自他の主体性を互いに認め合う特別な関係性の構築の得難い契機である。("ただ唯一の")
という論理。
"殴り合って仲良くなる"、少年漫画的格闘家的王道風景というものがありますが。
そういうことを言っている、のか?(笑)
少なくとも部分的には、言っているのかも知れないですね。分かりませんが。(笑)
暴力こそ尊重である、なんか騙されてるような感じはどうしてもしますが(笑)、一応筋は通っていると言えば通っているように見えます。
ただそこには隠れたもう一つの条件設定があって。上の(中略)部分。
「これは暴力という言い方ではなくて諸君が言うように、闘争という美しい言葉がありますけれども、暴力じゃなくてこれは既に対決の論理、決闘の論理に立っているんだと思われる、それで私は学生暴力というものをただ暴力だと考えないのは、その為なんであります」
更に付け加えると冒頭の"佐藤内閣の攻撃"の話の前段では、佐藤栄作首相が今縛られて("エロティシズム"話の延長(笑))君たちの前に現れたら君たちはあえてそれに暴力は振るわないだろという"自明の前提"が置かれています。あるいは後段には"気〇いだと思えば、これに対して暴力をふるう余地は無い"というくだりが。
つまり"暴力"とは言うものの、三島が言っている/肯定しているのは、ある程度以上対等な二者の、自他間の意思的な暴力の振るい合いのことであって、無抵抗だったり無力だったりする相手への一方的な暴力は含んでいない、それは言葉としてはやはり、自身言っているように「対決」や「決闘」や、もう少し広く言ってせいぜい「闘争」という言葉で表現すべきものであるように思います。それを先に言わずに「暴力」を肯定どころかある面賞賛してしまうのは、余りにも危険な、しかも容易に予測可能な誤解を招く論になると思います。その点から言うと学生たちが「闘争」という言葉を使っているのは、"美しい"か美しくないかの問題ではなくて、メッセージの伝達の正確性の問題としてより正しいと言うべきなのではないかなと。
実際問題"文豪三島由紀夫のお墨付き"をたてに嬉々として一方的な暴力をふるったような輩は、見た訳じゃないですが間違いなくいたろうと思いますし。"メッセージ"というのはそういうもので。
そして"暴力"と言った時に、人が思い浮かべるのはむしろ"弱者に対する一方的な暴力"の方ではないのかなと。そこにいた全共闘の学生たちはしないのかも知れませんが(と三島は想定)、世に"一方的な暴力"を嬉々として振るう輩はいくらでもいますよね。間違いなく人間の重要な快楽の一つとしてそれは存在する。そいつらは"嫌な奴"かも知れないけど、"異常者"とまでは言えない、それくらいありふれたことで。物理的精神的双方の暴力を含めれば尚更に。(上の"いじめ"や"ハラスメント")
余談ですが(笑)プロファイリングや病理学的分析が一般化して以降のアメリカの捜査ものだと、無力な被害者に繰り返し暴力や虐待を繰り返すタイプの犯罪者の、動機の本体としては暴力そのものではなくてその際に感じている性的な興奮・快感、"エロティシズム"の方であるというのがむしろ通例となっているので、そういう意味で三島由紀夫の"分類"に一定の現代性を見出すことは可能だろうと思いますが。一方的な暴力は暴力というよりエロティシズムである。あるいはエロティシズムとは一方的なものである。
まあ何か面白いこと興味深いことを言おうとしているなという、それは分かるんですが、ただその肯定/否定以前に用語法の方でどうも引っかかってしまって、素直に受け取れないなという感じに映画の範囲ではなってしまいました。文章だと、もっと丁寧に誤解の生じないように書いているのかも知れないですけどね。
ただそれはそれとして確実に受ける感銘としては、人間の世界における"主体"と"主体"の断絶、誰かが主体ならそれ以外の誰かは客体、その永遠にも見える血で血を洗う主導権の取り合い関係の、克服を三島由紀夫は目指して/掲げていたんだな、"諦め"てはいなかったんだなということ。
僕なんかは基本諦めてしまって、それ前提でそれなりに上手くやる方法や論法を考えるのが関の山ですが。まあ"呼びかける"人ですからね。呼びかけながら、死んで行った人というか。
以上、基本三島由紀夫の文脈に沿った形で、なるべく肯定的に理解する方向で読んで来ましたが。
その上で割とストレートな疑念・反論も書いておくと、まずエロティシズムが本質的に一方的なものである身勝手なものである、相手にひたすら"対象"であることを求めるものである、その主張自体には僕も賛成するところが多い訳ですが、一方でその時我々(?)が相手に求める「反応」というものをどう考えたらいいのか。
つまり相手に一方的な性的ファンタジーの対象になることを求めつつも、しかし同時に"反応"も求める、それも思い通りなら激しければいいかというとそう単純でもなくて、予想外なものやその場や相手(つまり自分)に応じた個別的なもの自発的なもの何なら独創的なものを求めたくなる。なったりする。どんなに盛大に反応してくれても、予想の範囲内だといつもこんな感じなんだろうなと見えてしまうと、萎えてしまう(笑)。コントロールしたいけれどコントロール外のものも欲しい。そう思う時に、それは相手の「主体性」を認めている/求めていることにはならないのか、「主体」としての相手を求めていることにならないのか。正直僕も分からないです。それでもコントロールから完全に外れることは、やはり求めていないので(それはそれで萎える)。でも爆発も求めている。
まあ確かに無い訳ではない、"愛のあるセックス"の特権的な相互的感覚(の瞬間)も含めてもいいかもしれませんが、ちょっと話が広がり過ぎる気がするのでそれは置いておきます。
どうなんですか?三島先生。(笑)
次に"暴力"について言うと、用語の問題はさておき、いかに相手を"認めて"の、主体たる相手の存在を前提としての暴力、闘争、決闘であったとしても、その究極の結果/目的としては相手の主体性のそもそもの基盤である物理的存在の消滅というものがその先に待っている訳ですから、やはり消滅させられる方としてはたまったものではない訳で、主体性を尊重してくれてありがとうとはなかなか言えない(笑)。動機(相互性)は綺麗かも知れないけど結果がそれでは。まあ"目的"を共有して殴り合うのは別に止めないですけどね。三島氏のこの論も、シンプルに自分の剣道等の武道体験から来ているのかなと想像したりしますが。
話戻してだから暴力はやめようということを言いたいのではなくて、主体性(のすくみ合い)を救う可能性があるから暴力・闘争には価値があるんだという論の立て方は、さすがに無理があるのではないかという話。救うより先に、根本から滅ぼしてしまう可能性の方が高い訳で。(笑)
まあ闘争に詩を見出すのも、(自他の)日常的な関係性を超越する契機を見出すのも、可能だとは思うし面白いとも思います。ただそれが即ち"暴力肯定"論としてまとめられてしまうのは、それはもうちょっと別の選択は無かったのかと、思ってしまうところです。上で言った"暴力"全般と対等的な"闘争"の区別の問題も含めて。講演中三島氏は「小説家として最初はエロティシズムのチャンネルからのみ世界と関わるつもりであったが、その内それが嫌になってより"関係"を世界と結びたくなった」と語っているので、関係性を求める、孤独な主体性のすくみ合いを克服したいという動機は本物で、そこで可能性を見出したのが"暴力"だったという、そういう順番なんでしょうけどね。そういう何かないかという切実さと、暴力自体が否定し難く持っている"魅惑"とが、ごちゃ混ぜになって、こういう見ようによっては少し短絡的な議論をさせたのかなと、想像はしますが。
興味はありますね。三島の視点の/気づきの、何か別の活かし方は無いかと、僕も考えたくなっているところではあります。とりあえず上でも言ってますが、"エロティシズム"の方にももう少し可能性は無いのか、救う余地は無いのかということは、個人的に考えたいところではあります。暴力に比べればだいぶマイルドではありますしね、上手く行かなくても味気ないセックスを一つするだけで済む(笑)。殴っておいて、ごめん、思ってたのと違ったわでは、なかなか済まない。(笑)
三島氏の"暴力"も、それこそ道場にでも閉じ込めておけば、何てことない気もしますけどね。互いに合意の上で、暴力を通じた相互性の可能性を探り合う。こうなると一つの"宗教"ですけどね。少林寺とかでは、実際やってるかも。(笑)
こんなまとめでいいのか。
大丈夫、皆さんの"主体性"も、ぎりぎりまでは尊重しますよ。ぎりぎりまではね。怖くない怖くない。でもいざとなったらけつをまくるかも。その時はごめんなさい。
全体としてはとにかく、三島氏の語り口が魅力的過ぎて、反論するとかより普通に聴いてて楽しかったなと。喧嘩のつもりで来た学生たちも、概ね同じ気持ちだったのではないかなという。(笑)