「エコロジカル・トレーニング」ムバッペたちを磨き上げた新理論 (林舞輝 2019.08.19)[無料]
ジダン監督がたどり着いたのは、選手の顔ぶれ次第で変幻自在のスタイル。 (木村 浩嗣 2020.10.10)
その後折に触れて考えたり関連した文章を目にしたりしつつ、去年の年末のweb footballistaまとめ読みで最近の情勢に関する記事もいくつか読めたので、一回確認・まとめてみたいと思います。最初の一つを除いて全て有料記事なので、例によって引用は最低限に努めますが。
以下掲載順に。
「エコロジカル・トレーニング」ムバッペたちを磨き上げた新理論 (林舞輝 2019.08.19)[無料]
まずおさらいから。
エコロジカル・トレーニングの提唱者であり、現在シェフィールド・ハラム大学で教鞭を執るキース・デイビッズ教授は、運動学習の研究を進めるうちに2000年に入る直前の頃、この「エコロジカル・アプローチ」または「エコロジカル・トレーニング」と呼ばれる、スポーツにおける新しいトレーニング理論を提唱し始めた。
この時点ではエコロジカル"トレーニング"の印象しか無くて、2年後に見たら"アプローチ"一色になってたのであれと思ったんですが、言葉としては最初から出てはいたんですね。その中心的な考えは「エコロジー」、つまり生態学(生物学の一部門。生物の個体、集団の生活、他の生物や環境との相互関係を研究する分野)である。生態学的な面から練習を積み重ねる、つまりチームを一つの生態系、選手を生物としての一つの個体と捉え、生態学での知識やアプローチによってトレーニングを構築しようという理論だ。この理論で最も重要視されるのは、「環境での関わり合い」であり、「相互関係」である。したがって、すべての練習は選手同士の関係性を深めることに重きが置かれ、選手が自分の能力と個性を環境の中で最大限に生かし、また他の選手と互いに生かし生かされるような、ある意味「相互依存」のような関係の構築を促すことが、このトレーニングの最大の目的である。
どちらでもいいようなものではあるんですけど、"アプローチ"の方が理論的な背景というか広がりを感じさせるのと、"相互関係を重視するトレーニング"という切り取り方だけだと何やらジーコ式の同じメンバーで長くやらせれば自然にチームになる(戦術or監督の指示なんていらない)的な「方法論」の連想が強めになって、それが欧州の"新理論"?という戸惑いが実際輸入された当時はフットボール論壇界隈でも少なからず見られていたような記憶。
必ずしもそうではないということがこの後語られますが、いみじくも紹介者の林氏自身がこういう書き方をして(しまって)いるように、やはり「監督発のトップダウン的全体的秩序」に対するアンチとしての、「選手/スモールグループ発のボトムアップ的秩序」としての"エコロジカル"というコントラストは、かなり強かったですね。(今もそうでない訳ではないんでしょうけど)エコロジカル・トレーニングが従来のトレーニング理論、例えば「戦術的ピリオダイゼーション」や「構造化トレーニング」と比べて革命的なところは、ゲームモデルのゲの字も出てこないことだ。
とりあえずこれが、2018年W杯覇者フランス代表を例にとった、林氏の考えていたエコロジカル・トレーニングの"成果"の好例。スティーブン・エンゾンジがエンゴロ・カンテに代わって入った時、エンゾンジがカンテの役割の代わりを果たすのではなく、エンゾンジがいるバージョンのダイナミクス、チームの生態系が自然とできていった。これは、まさにエコロジカル・トレーニングが理想とするようなチームができ上がっていく過程である。
ジダン監督がたどり着いたのは、選手の顔ぶれ次第で変幻自在のスタイル。懸念だった得点力はSBの“FW化”で分担 (木村 浩嗣 2020.10.10)
[4-3-3]、[4-4-2]、[3-5-2]といったシステムを使い分けただけではなく、同じ並びでも中身はMF5人だったり、純粋なウインガー2枚だったり、ウインガー1枚+ MF4枚だったりと、選手の顔ぶれを変えることでチームの機能を変化させ、同時に酷使による体力の消耗を避けた。[無料部分]
エコロジカル・トレーニングを意図して大々的にやっているということではなくて、そうしたアプローチが必要である可能性をトップレベルも含む多くのサッカー人たちに感じさせる存在としての、(ジダン)マドリー。つまり、ジダンの戦術は個人化された采配とセットの言わば“顔の見える戦術”だったわけだ。
・・・ここまでが以前(2020年)読んだもの。
次からが今回(2022年)。
レオナルド・ジャルディンのモナコを躍進させた新理論、 エコロジカル・アプローチを解き明かす (浅野賀一 2022.03.02)
[無料部分]
人間の運動学習はある種の制約に対する適応、つまりは相転移現象であると考える学説が登場しました。例えば水を温めたら水蒸気になるように、一気に性質・位相・様相が変わる境界線がある。運動学習はこのようなドラスティックな相転移現象で、何らかのコントロール可能なパラメーター(例えばスキップ動作であればテンポなど)をいじると突如としてある運動ができるようになったり、またできなくなったりする。
「制約」(主導型アプローチ)というキーワードが重要なものとして、新たに登場しています。それをもとに作られた具体的なメソッドが、制約主導型アプローチとなります
ここで言われているのは、
1.エコロジカルなアプローチの成果の現れはしばしば不連続("突如として")なものであって、ジーコ的な単純に時間が解決する式の漸進的なものではない。
ということ。そして
2.その為に必要となるのが選手たちに課される適度的確な「制約」であって、指導側の仕事は単に放置して好きにやらせることではない。
ということ。
2年前の"情報"と比べると、だいぶ"着地"出来そうな感じは見えて来ましたね。(笑)
つづき。
サッカーのトレーニングにおける制約操作の代表例では、3~4号球を使ってボールコントロールができるように練習して、その後5号球でトレーニングすると簡単に感じるというものがあります。
これはどちらかというと、"個人"の育成のイメージの強い例示ですけど。トレーニングを経て学習して、パスやポジショニングなどある種の運動パターンが固まってきたらまた制約を操作して、再び新たな状況を経験させる。最終的に目指すのはいかなる状況でも目的に向かって解決策を出せる技術やサッカーIQを育むことですね。
あくまで「制約」の説明としての、シンプルな例というか。
[有料部分]
登場時点では(今もしばしば)「ゲームモデル」的"統一"サッカー、"選手の交換可能"サッカーとは対立するアプローチ(“顔の見える戦術”)と思われたエコロジカルですが、そのエコロジカルなトレーニングの必須要素であるらしい「制約」のむしろ代表例として「ゲームモデル」を位置づけることによって、両者の融和を図った(訳ではないのかも知れませんが(笑))説明。ゲームモデル自体エコロジカル・アプローチと親和性が高く、チームに意味のある自己組織化(中枢からの指令なしに個人の自律した行動で秩序や組織を作り出す現象)を促すために必要な制約の一種です。ゲームモデルを何も定めず勝手に自己組織化させた場合、まったく機能的でない自己組織化が生じる、ないしはゲームモデルが複雑過ぎて何の自己組織化も生まれないかのどちらかで終わってしまうかもしれません
そうは言っても「ゲームモデルを確立しよう」という方向性の目指すものと「個々の選手の個性と相互依存的関係を重視する」方向性が目指すものが同じとはやはり思えませんが。そもそもレアルの"ゲームモデルに囚われない"強さにこそ、考えさせるインパクトがあった訳ですし。
なるほどとは思いましたが若干言いくるめられてる感も(笑)。別に嘘ではないんでしょうけど。
後段の「制約」と「自己組織化」の関係は、結論としては常識的ですけど提唱者が改めてこういう整理をしてくれていることには意味があるかなと。"ジーコ"的問題の位置づけ含めて。
一方で本質的にはやはり「アート」であって「サイエンス」ではないというこの言明は、提唱者が自分の理論の位置付けを誤魔化そうとしている訳ではないうことを表す、ある種爽やかな態度かなと。どのぐらいのレベルのどういった制約を設けるかを判断するのは、とても時間のかかるアート的な行為で、それがサイエンスになることは複雑性の高い集団競技では当面ない、と。
逆にそうした"アート"が、"サイエンス"を尽くしたトップレベルに加わる"もうひと味"、超上級者用の特殊レイヤーであることを越えて"次の主流"になり得るのかには疑問を感じる部分が大きかったんですが、ポルトガルを筆頭とするヨーロッパでは相当以上に既に主流化しているという話でへえと。ちなみにポルトガルではサッカー、ハンドボール、バスケットボールなど球技のコーチングライセンスの基礎教養部分は統一されています。基礎的な部分は同じものを学び、その後それぞれの種目へ特化していくカリキュラムです。その基礎部分の多くはエコロジカル・アプローチです
イタリア新世代監督が提唱する「ファンクショナルプレー」という未来 (片野道郎 2022.05.06)
(ペルージャU-19監督のアレッサンドロ・フォルミサーノ)
どんなサッカーをするかを決めるのは私ではなくてチームです。彼らが毎日一緒にプレーする中で自然と方向性が発露してくる。自己組織化のプロセスが進んでくる。それがさらに進むように環境を整えるのが私の仕事です。
・・・以上無料部分より。監督としての私に『私のサッカー』はありませんが『私のメソッド』はある。それはシステム論的、全体論的アプローチです。人間の学習プロセスを尊重し、エコロジカルなやり方でチームと私との間に相互作用を作り出し、成長と進化を促していく
続いて有料部分から。
ポジショナル・プレーの「位置」「数」「質」の所謂3つの"優位性"に加えて「社会情緒的」(socio-affective)と仮に訳されている第4の優位性についての議論が比較的一般に現在あり、そしてフォルミサーノの場合は更にそれ(のフォルミサーノ流の言い方である「関係的」「機能的」優位性)こそが達成すべき目標であり、"3つの優位"はむしろその為の手段、下位的概念として位置付けられているという話。無料部分と併せると極端な相互関係至上主義というか、方向付けすら監督はやらないという立場。彼[フォルミサーノ]はその相互作用のあり方を決定づける要因として、プレー選択の当事者であるプレーヤー間の関係性、そしてピッチ上のダイナミズムの中でそれぞれが動的に担う機能性に注目し、それがもたらすアドバンテージを「関係的優位性」「機能的優位性」と名付けて、「3つの優位性」の上位に置く。そしてチームとしてのゲームモデルやプレー原則もまた、それを最大限に発揮させるために構築されるべきだとしている
感覚的感情的("affective"情緒的から来るんでしょう)とまで言い切られると、かなり本田-香川的というか日本人的な何かをイメージしますが。それが"目標"であるという。「ピッチ上で味方のプレーヤーが、この状況ではどんな選択をするか、それはなぜか、何を狙っているのかを感覚的、感情的なレベルで理解していれば、それに対する反応も適切かつ速くなる。そういう関係性はピッチ上に明らかな優位性をもたらします。それが関係的優位です」
関係的優位がアドバンテージになること自体は誰も否定しないと思いますが、それ自体をチーム作りの目標だとされると、やはりどうも不安(定)な気持ちにはなります(笑)。ある種"習性"的に。
隠れたエコロジカル実践者、アレグリ・ユベントスに内在する“文化的危機” (片野道郎 2022.06.13)
特定のゲームモデルは設定しない、あらかじめ決められた戦術メカニズムを設定せず、基本的な枠組みを決めたらそこから先は選手間の意思疎通と連係による解決に委ねて、監督は異なる人選や配置を試しながらチーム全体がバランス良く機能するよう調整していく、システムもメンバーもチームの振る舞いも試合ごとに、そして試合の中で柔軟に変えていく、トップレベルの選手が揃ったユベントスのようなチームでは、監督の存在感は薄ければ薄いほどいい
アレグリの直接的なコメントとかではなく、片野氏自身の観察と取材メモからのまとめらしいですが。「いつも同じ選手をピッチに送って相互の連係を高め、スペクタクルなサッカーを見せ大勝することに興味は持っていない。すべての戦力を使いながら安定した結果を出し続けることを重視している。だから試合ごとにメンバーを数人入れ替える」
[以上無料部分より]
"連係"を最重視するけれどメンバー固定はしないという手法。選手互換のゲームモデル式と違うのは勿論ですが、特定選手のクオリティにこだわるジーコ式(固定)とも違う・・・と言うべきか、単に"特定選手"自体が複数チーム分いるのが前提の現代的なビッグクラブゆえの手法と考えるべきなのか。
そのアレグリがかつて成功したユベントスで近年苦戦しているという問題について。有料部分。
これに関して筆者が以前から常々気になっているのは、アレグリが「ラジョナメント」という言葉を使う時、そこには彼自身が「この状況はこう解釈すべき」という明確な回答を持っていること、そしてそれが「最小限の労力で最大限の結果を得る」という、イタリアの伝統的なサッカー観に根ざしたものだというところだ。
前出フォルサミーノとの違い。もしそうだとすれば、アレグリのメソッドは、システムやプレー選択という点では「エコロジカル」(選手オリエンテッド)であっても、チームとしての基本的な振る舞いやその土台となる哲学という点ではかなり「パーソナル」(監督オリエンテッド)なものだということになる。
選手同士の関係性自体が示す方向を監督が後追い的に拾い上げるフォルサミーノに対して、理想像や方向性自体は監督の胸の内にあり、その実現のプロセスの部分はエコロジカルに、選手どうしの関係性による自己組織化に委ねるのがアレグリ流と。(そのアレグリの理想像が古くなっていて若い選手がついて来なくなっているのが問題だという論)
交錯するレアル・マドリーとバルセロナ。明暗分かれたクラシコが示した皮肉な現実 (きのけい 2022.10.19)
時代は下って現在はアンチェロッティに率られているレアルマドリー。レアル・マドリーはチームとして常に正しい「静的配置」をとり続けることはできないが、リアルタイムで相手をよく見て、後出しジャンケン的に「動的構造」を引き起こすことに長けており
[無料部分]
この文章には直接的に"エコロジカル"という言葉は出て来ませんが、"エコロジカル"的な発達を遂げたチームの挙動の特徴/典型として、短いながら印象的な描写に思えたので引いておきます。
予め原則として定められた静的配置をまず取ろうとするゲームモデル派(バルセロナ)に対して、自ら再現的な動きは余り見せないが、そうして発生した状況に対する集団反応的な動きに関しては、ある種の規則性秩序性をその都度適切に実現するレアル。
"ゴールを奪うという目的"自体はどのチームも同じ筈ですが、プレー原則/ゲームモデル派のチームの場合はどうしてもそれらの実行自体が「目的」となりがちであり、そもそものシンプルな目的に直接"対峙"しているエコロジカルなチームの機能性や即応性に後れを取ることがままある。プレー原則の存在が他チームと比べて希薄だと感じさせるレアル・マドリーが、このように「動的構造」とミクロな「個人戦術」を高いレベルで体現できているのは、プレー原則よりも重要な上位のレイヤー、目的意識や目的地がはっきりしているからかもしれない。
ビニシウス、ロドリゴ、ベンゼマがサイドを切り裂く。中央をこじ開ける。クロースの大きなサイドチェンジに呼応して走り出すカルバハルが右ポケットを突く。相手のラインが下がり過ぎれば、バルベルデがマイナスからミドルシュートを突き刺す――。 「プレー原則」による制約が小さく、自由を与えられているようにも見えるレアル・マドリーだが、ゴールを奪うという目的が強烈に意識づけられ、そのための崩しの目的地が複数あるため撤退する相手に対しても多彩なゴールパターンを有している。
と同時に同じことですが、プレー原則的な手がかりの稀薄なエコロジカルなチームがなぜ無秩序に陥らないかと言えば、ゴールを奪うというシンプルな目標を共有しているからで、そこからの逆算で秩序化も組織化もある程度自動的に起きる・・・という何か当たり前の説明を今更させる、"天然"エコロジカルなレアルマドリード。
そうですね、類型としては"原理主義的"エコロジカルのフォルサミーノ、"部分的/便宜的"エコロジカルのアレグリ、"天然"エコロジカルのジダン/アンチェロッティマドリー(笑)みたいな感じに、ここではなりますか。
今後のこうしたアプローチに興味を持つチームにとっては、恐らくはフォルサミーノとアレグリの中間くらいが多くの場合目標となるんだろうなと。アレグリの"便宜"的なスタンスは一見実用的なようですけど、逆に"思想"的な喚起力が弱くて、あえて"エコロジカル"を持ち出す動機自体が弱くなりそうというか、結局従来的なトップダウンサッカーに落ち着いてしまいそうな感じが。やはり「目的」「目標」の部分にエコロジカル性を関与させないと、それこそレアルマドリーが与えたような"違和"性を与えられないのではないかなと。レアル自体が結果的に取っている"方法"はフォルサミーノ的と言って言えなくはないようにも思いますが、ただそれはレアルの伝統と文字通りに世界最高の選手をかき集める編成あってのもので、普通のチームがフォルサミーノ式を意識的に採用するのはかなり覚悟が要りそうに思います。やはり最低限の方向性(ゲームモデルまではいかない)は指導側監督側が設定して、その実現に相応しいと思われる「制約」を選ぶことで自己組織化を促すというくらいのバランスが、現実的には見えます。(つまらない結論ですが(笑))
(おまけ)日本サッカーとエコロジカル
しかしオジーにしろトルシエにしろ当事者の証言によると結局「約束事は無かった」という事らしいんだけど、それであの流れるような攻撃の機能性は一体どういう魔法なのか秘訣なのかという感じ。
— アト (@atosann) December 13, 2022
"個人"と"組織"の間に、上手く名前を付けられていない何かがあるんだろうね。エコロジカルトレーニング?
ただ実はこう書きながらも実際にオジーやトルシエのチームが"エコロジカル"であったとは、ほとんど僕は思っていなかったんですよね。分かり易いタームとして使っているだけで。オジーがヴェルディで2003年に作った華麗で技巧的な4-4-2のチームも、翌2004年後半の天皇杯を制したハイプレッシング3-5-2のチームも、トルシエの'99ワールドユース銀メダルチームも'00アジア杯圧倒優勝チームも、いずれも促成の印象が強いというか、選手の組み合わせの巧妙さとシステム/フォーメーション(とそこへの選手の配置)自体が導くプレーのイメージへの誘導のスムーズさで、感覚的にはほとんど"一瞬"の内に出来上がったチームで、何らか長期間にわたる周到な"トレーニング"の成果には見えなかった。
かといって勿論出鱈目を書いた訳でもなくて、「"個人"と"組織"の間の上手く名前を付けられていない」ある領域への働きかけに何かそれぞれの監督なりの秘訣があったんだろうと思っていたのは本当。それが近年"エコロジカル"トレーニングという名前で言われている事柄と、恐らく無関係ではないだろうとも。実際二人共、ある種の"生態系"の形成の上手な人であったんだろうとは思っていますし。それが意図的な"トレーニング"の成果であるかどうかは別にして。
でまあ、そういうような意味合いも含めれば、"エコロジカル"自体は何ら新しいものでも特殊なものでもなくて、古今東西どこの国のどのレベルのサッカーだろうと、どういう基準で、それこそ第一義的には明示的トップダウン的な"ゲームモデル"によって作られたチームであろうと、どこかでは必ず関係して来る要素だと思います。
だから"新理論"として紹介された時に最初多くの人は戸惑った訳だろうと思いますし、それがゲームモデルやポジショナル・プレーの"代わり"になるというイメージはなかなか持てなかったし、下手に真に受けると妙な復古主義や知的な怠惰の良い言い訳にされそうでもあり、まあ様子見という態度しか取りようが無かったように思います。
上でフォルサミーノの主張が妙に日本サッカー的にも聞こえるということを書きました(笑)が、実際"委任戦術"森保ジャパンの"成功"をエコロジカル・アプローチと関連付けて論じる動きは、当然出て来るだろうとは思います。
それ自体はゆくゆくの議論としては決して嘘ではないだろうと僕も思うは思うんですが。思うんですが・・・。ただ優先順位的には余り思いたくないというか当面知らんぷりをしたいというか(笑)。アートの価値は大いに認めるけれど、やはりまずは/当分の間はサイエンスの方に注意を集中するのが無難なのではないか、それが日本サッカーの身分であり、また"傾き"でもあるだろうと、これも結論としてはつまらないですが、やはり落ち着かざるを得ない結論かと。日本サッカーの中にあるある種の「関係優位」性の価値を否定したことは僕は一度として無いんですが、こうして欧州文脈でその正当化の"可能性"が見えて来たからこそ、ここは舞い上がらずに(笑)慎重にと、それこそ変に協会が飛びついたりしないようにと、それが現時点では最上位の関心の方向。
まあ結局はまだ欧州待ちというか、既に結構普及・主流化しているらしいという状況の中で、特にトレーニング・メソッドとしてどのような機能性を見せるのかどのような位置づけのものとして落ち着くのか、それを見てみないとなという感じではあります。トップレベルの贅沢品でしかないのか日本にも日本なりに導入のアングルや意味が見えるのか、ひょっとしたら本当に"サイエンス"の消化に苦労している日本サッカーの希望の光になってくれたりするのか。
まあ何というか、"戦術ブログ"とかは書き難くなりそうではありますよね、もし主流化したら。(笑)
そもそも『エコロジカル・アプローチを取り入れているチームを外部から判断するのは難しい』と、主導者も言っているそうですし。やってるかどうかも分からないし何をやってるのかもよく分からない。レアルの評価・批評に、皆さんそれぞれ苦心惨憺しているように。(笑)
トップレベルがレアル的チームばかりになったら・・・どうなるんでしょう(笑)。あんまり想像は出来ませんが。
ただペップバルサ以前の"王者"チームは、ある種の曖昧さを特徴とする/懐の深さとして武器にするチームの方がむしろ一般的だった(ペップバルサに蹂躙されたファーガソンのマンUもそれこそ含めて)ようにも思うので、それくらいのバランスに戻るくらいは、あってもおかしくないのか。そういう意味で、"戦術"の時代に一つの区切りがつくことは、あってもおかしくないのかもしれない。単純に後戻りするなんてことは、あり得ないとしても。
と、よく分からないままごちゃごちゃ。
また次の"2年後"には、自分が書いたことを読み返して苦笑いしてるかも知れませんが。
あるいは逆に、森保ジャパンの(エコロジカルな)正当性が、全面的に認められていたり。(笑)
なんて。
何かの参考になったでしょうか。