国内外サッカー、アニメ、女子バレー、音楽 他
アウトプットに悩んでは別にいないけど書いた (タイトル思いつかず)
2023年03月16日 (木) | 編集 |
しばらくU-NEXTドラマにかかりっ切りで放置していたネタ。

ふかばさんが『アウトプットに悩む暇があったら書け』でまとめた&問いかけた、"ワタシがサッカーブログ(またはサッカーについての文章)を書く理由"問題。

まあ何か特にトータルに考えがあるというよりも、ツイッターでタグで回って来た企画に乗った的な、「僕の場合はこうです」というだけの軽い回答です。

以下『アウトプットに悩む暇があったら書け』の文中の問いかけから、箇条書き/列挙的に。
">"がついている部分が、ふかばさんの元の文章です。


ヴェルディ系ブログ/アウトプット

>僕が応援する東京ヴェルディは幸せなことに試合の感想を書く人に枚挙の暇がない。
>それはかつてamebaがスポンサーをしていたことにより、amebaブログで書く人が多数いたことに起因するかもしれないが。


やっぱ盛んなんですかねヴェルディ系は。そんな気はしてなくてもなかったですが。
いっとき一気に盛り上がったnote系ラインアップから、あ.さんやHaruさんが休眠状態に入っても、そんなに大きな穴が空いた感じにはならなかったですから、そうかも知れないですね。
amebaブログの"ヴェルディ"フォーマット/テンプレート(例)に関して言えば、確かにハードルが一気に下がった、ブログを書く"雰囲気"が醸成されたというのはありましたね。現在では"アメブロ"と言えば芸能人ブログが真っ先に連想されるように、正直落ち着いて文章を書くようなフォーマットにはとても見えなかったので僕自身は参加する気がしなかったですが(と前にどこかでも書いた気がする)、その分所謂「掲示板」に書き込む延長的な書き方も出来て、"テキストサイト"の延長上にある旧世代"ブログ"のエリート主義的な文化に風穴を開けた的な性格は、やや大げさに言えばあるかも知れないです。
"ネットの文章"の歴史観で言えば、ブログ&掲示板の時代とSNSの時代の中間に挟まった、過渡的でマイナーなカルチャーではあったように思いますが。(勿論現在もそれなりの存在感で存在はしています)


サッカー関係のブログ/アウトプットの執筆動機

こちらが本題。
変に編集するのも良くないと思うので、基本的にふかばさんの文章中への登場順に。


1.文章表現自体への欲求

>>私の場合は、誰かに伝えたいと感じるくらいの興奮を、やっぱり「自分の言葉」で表現したい。
>>ああいいな、この人がここまで言うなら観てみたいな。そう思ってもらえるくらいには、その
>>表現方法を磨きたい。(みぎ)


>こういう気持ちは正直ほとんどない。(ふかば)

文章表現自体への欲求、あるいは質の高い文章を書くこと自体への、ある種の"美的"欲求?
ふかばさんは"ない"のか。「文章を書くこと」自体は明らかにお好きなように見えますが(笑)、それは専ら"内容"の"表現""伝達"という目的&機能性ありきという性格が強くて、芸術的/パフォーマンス的動機は薄いと。
僕はどうだろう。最初に"ホームページ"を立ち上げてそこにある程度まとまった量の文章を書こうとした約20年前(SNSとかも無い時代なので、それ以前にはそれこそ学校の作文の課題(笑)くらいでしか一定量以上の文章を書いた経験は無い)、あるいは現在に至る日々の記事一つ一つを書く際の動機として、文章(技巧)自体に関心があったか/あるかというと、それはまあ、"ほとんどない"かな、僕も。非定量性満開(笑)の自分の記事をいかに"ブログ文学"と自嘲はしてみても(笑)、やはり「文学」そのものとはだいぶ違う
ただ伝えたいことを伝える為の習慣的な技術的努力が結果的にある種の得意の技巧やそれを伴った文体を生み出すことはあるし、生み出されたそれらのブラッシュアップや発展が、"内容の伝達"とはまた別の目標として意識されたり潜在していたりすることは、あるように思います。(1番にはなりませんが)
まあみぎさんも別に文学をやりたいと言っている訳ではないでしょうが(笑)、自分の言葉や文章表現そのものに対する"愛"は、上のように宣言する程度には、豊富な方なのかも知れませんね。少なくともふかばさんが違和を感じる程度には。僕はまあ、間くらいですかね、安易な結論ですが。ふかばさんの場合一方で"二次創作"もやられるそうですから、自分の中での比較として、サッカー関係の文章には余りそういう趣味性を付与していないと、そういう区分けもあるのかなと思ったりしますが。(全くの想像です)


2.自分なりの視点・意見の表明の必要性

>>『思い返してみれば、ブログをはじめとしたアウトプットの全ては、「黙ってられない」が元手だ
>>った。あの選手のあのプレー、もっと評価されるべき! このチームのこのやり方、もっと知られて
>>欲しい!伝えたくって仕方ないという衝動こそが、唯一にして最高のガソリンだった。』(市)


>こういう気持ちはちょっとあったかもしれない。(ふかば)

ある種基本中の基本の話で、そりゃこれはあるだろうというか"無い"という事態/書き手を想定する方が難しいというか。
"文章"を書く/書かない以前に、"意見"を持つというのはそういうことだろうとも思いますし。あえて"意見"を持ったり増してそれを表明しようとする時、全ての人はその瞬間それをユニークであるかもしくは何かに対する有効で必要な反論/指摘だと思っている。実際にそう機能するかは別にして。(笑)
話戻してそうした"基本中の基本"が、間違いを恐れたり他者の動向を窺ったりを繰り返す内に、いつしか見失われてしまうというのが、そもそものみぎさん(&市さん)の問題意識な訳でしょうね。
ふかばさんは・・・"ちょっと"なのか(笑)。冷たいな(笑)。それは熱量が低いという意味なのか、動機としての比重が小さいという意味なのか。


3.特定の"書かれるべき"文章の「欠落」の認識

>僕が何を思って書いているか、と言えば編成関係の記事を書いているときには「自分で読みたいものがない」だろうか。

"2"と似た話ではあるんですけど。
比較すると、"2"は「人と違う意見を言う」で、"3"は「人が書いていないことを書く」
"2"はどちらかというと既存の議論の枠組みやアングルに則りながら、その"中"で違う意見を言ったり意見を戦わせたりする行為。"3"は枠組みやアングル自体を新たに用意したり提案したりする行為。勿論"3"でもその枠組みやアングルにおける自分の"意見"を述べてはいる筈ですし、そもそも「こういう議論が必要ではないですか?」ということ自体が、立派な"意見"ではある訳ですけど。ただ直接的な他者との"戦い"や腕比べの要素は、比較すると少ない。勝ち負けというより存在自体が価値。
・・・ふかばさんが2で"ちょっと"と言っているのは(笑)、3的書き方/動機で書くことが多いという意味なんですかね、ひょっとして。
僕自身はどうかというと、ヴェルディなり代表なりの試合について毎試合かそれに近いペースで書いていた頃は、自然直近の"議論"への参加頻度も高くなりますし、僕なりに"2"的なこともやっていたように思います。それが段々減って行って最近では最早総括記事しか書かないような(笑)そんな状態になると、より慎重に視点を探して"3"的に書くという性格は強くなりますね。
ただ後述するように僕はそもそもが「素人」ということを重要なアイデンティティとして実は書き始めた人なので、最初から"外部"者的視点で玄人や詳しい人が書かないようなこと、理由はともかく書いていないことを中心に書いていたし、そういう意識は強めでした。それで差別化を狙うというのも(特に後年では)無くはないんですが、シンプルになんか誰も書いてくれてないんだけど、これってどういうこと?こんなことに疑問を持つのはおかしいの?と、"素人の素朴な疑問"をぶつけてみて反応を窺うという、そうしたことを繰り返して来て、未だに基本的には同じことをやっているつもりのそういう半生です。(笑)
とにかくそういう意味では、そもそもが"3"性の強い人ではあったと思います。


4.感想の記録

>試合関係の記事を書く時は「とにかく誰かの感想を観る前の自分の感想を書き残しておきたい」が一番近いかもしれない。

ここはある意味ふかばさんの文章の中の最も中心的な主張部分に見えますし、それもあって長くなりそうなので後回しで。


5.他者への影響

>また、他者に影響を与えることの責任を自分で感じてしまうこともあるだろうし。

他者/読者への影響をどう考えているのか、あるいは他者を説得する"為に"影響を与える"為に"、書くのか。
これも広い意味では誰でもイエスでしょうけど。人に読んでもらう為に、それなりの苦労をして書く訳ですから。(笑)
ただふかばさん自身は、次の6で引用しているように、読者の想定はしていないとおっしゃっています。また"4"→別枠次項では、"言葉が現実を捻じ曲げる"ことを問題視し、自分を含めた誰かの言葉が誰かの認識や感想に影響を与えることを、どちらかというと否定的に述べている面が強いに思います。
だから"影響"の為に書いてはいないというのが、とりあえずのふかばさんの結論ということになりそう。まあそれについては必要があれば、ふかばさん自身が改めて書かれたらいいと思うので、僕が言うことはこれ以上無いですが。
で、当の僕はどうなのかというと。
勿論人に読まれる前提で書く以上、何らか"影響"を与えようとは思ってますし、自分なりに正しいと思うことを書く以上、出来ればポジティブな反応を目指しているのも言うまでもないです。ただでは「説得」しようと思って書いているかというと、もっと言えば中立以上の好意度の読者を説得出来ると思って書いているかというと・・・。それはちょっと、そうでもないかなという。普通は。だとすれば、こんな(主観的直観的)スタイルにはなってない(笑)。・・・"普通は"というのは、たまには書くからですけどね、「説得」や少なくとも直接的(論理的や実証的)な反論の隙を極力潰すような、"外向きの"書き方の文章も。どれとは言いませんが(恥ずかしいので(笑))。ただ普段は別に、隙も弱点も偏りも、あることは承知でほとんど気にせず書いちゃってますね。
とにかく目標は説得ではない。勿論論破でもない(笑)。"ポジティブ"とは言いましたが、では同意・賛成を求めているかというと、それもそうでもない。手応えのある賛成意見をもらえたら勿論嬉しいですけど、無慈悲に必要な反論をしてくれた人のことも、同じように大好きになります(笑)。要はちゃんと"読んで"くれた感があるか無いかですかね、賛否という大別よりも。まあ読んでくれてないからこそ妙に感情的な反論/否定的な反応をして来るというケースは勿論多いので、そんなに賛否と僕のポジネガが食い違う訳ではないんですが。
説得でも賛成でもない。ではなんだ。共感か?問題意識への共感という意味でなら、それは結構そうかも。ただその場合も僕の検討の結論に対する賛否/反応には、さほど興味はない。検討自体を共にしてくれれば、それで良い。結論に共感してもらう必要は無いというか。
(最終的な)共感ですらないとすれば、なんだ。インスパイア?これはだいぶ、核心に近そう。先程の"問題意識への共感"もそうですけど、とにかく僕は、問題の所在自体を、(未知の)思考の経路の可能性自体を、示したい、理解してもらいたい、そういう思いが強いようですね。そうして"インスパイア"した相手がその人なりに思考をめぐらせた挙句、僕とは全く違った結論に辿り着いたり僕の思考内容のナンセンスを指摘・主張して来たりしても(笑)、それ自体は一向に構わない。その人に新たな思考を惹起できたこと自体が喜びであるし誇りであるし、実際問題目的でもある。勿論"楽しみ"でもある。
説得はほんと興味無いなあ。その点"インスパイア"でも、まだ強過ぎるかも知れない。そんなに真面目に受け取ってもらう必要は、実は必ずしもない(勿論受け取ってくれれば嬉しいですが)。単に、引っかかる、気になる、その場ではスルーしても意識や記憶のどこかに僕の言葉や文章が場所を得て、そのまま捨てられることもあるだろけれど機会を得て検討の対象になることもある、それくらいの期待感かも知れない。・・・なんか悟り澄ましている(笑)ようですけど、何のことは無い、僕自身が他人の言葉をこれくらいの感じで薄く受け取る人なので、それを引っくり返した他人への期待もその程度だという、そういうことなんだろうと思います(笑)。聞いてはいるんですけどね、ただし半分だけというか(笑)。天才の言うことも凡才の言うことも、平均して"話半分"で聴くというか。半分しか聴かないけど半分は必ず聴く。正直者の言うことも嘘つきの言うことも。(なお猫の言うことだけは全部聴く)
結論は何だろう。文章で他者に影響を与えることには大いに意欲的だけど、どう影響を与えるかは余り気にしていないという話か。みんなも気にせず書いちゃって?という。
安心して下さい!聴いてますよ。(ただし半分だけ)


6.需要/読者への対応

>ことここにいたり。僕が一切需要の話をしていないことにお気づきだろう。
>そう、誰かのためになんて僕はアウトプットしていない。


需要の意識、あるいは読者の想定は、割と僕はやるんですよね。PVを増やすとか、そういう話ではないんですが。(笑)
多々疑問はありつつもとりあえずは"サッカー系ブロガー"ではある(そうでしかない)僕ですが、ご存知の通り他にもいつもうるさい海外ドラマや最近ではMリーグ/見る雀、漫画やらアニメやら女子バレーやら、定期的に文章化するものだけ挙げてもそれなりの数の趣味を持っている(?)訳ですが。ただその中でも、実はサッカーは断トツに近く出発点が低くて、自分は分からない/知らない、何なら向いてないと思う時すらよくある意識で接していて、それはJリーグとほぼ共に30年弱を過ごしてもほとんど変わっていない。それ自体なぜなのかという疑問もありますがそれは置いておいて、とにかく扱い分野の中では例外的と言ってもいいくらいに"素人""外野"という自認で、僕はサッカーについては書いているんですね。
その至らない部分についてはその都度勉強させていただくということでいいんですが、その一方の不満として、"詳しい"っぽい人たちの書くサッカーについての文章が、どうにもなかなか僕の関心や疑問や、僕なりに中心的な問題の一つではないかと思うことに、賛とか否以前に触れてくれない。そういうことがあります。僕が書き始めた20年前もそうでしたし、選択肢が爆増した今でもほとんど変わらずそう。それで仕方なく、正に上でふかばさんが言ったように「自分で読みたいものがない」から自分で書き始めてみると、反応自体はそれなりにある。少なくとも自分の関心や疑問の持ち方に、一定の意味はあるらしいと繰り返し確認出来る程度には。でも他の人は書かない(笑)。じゃあもういいやと、ある意味では向上心を切り捨てて(笑)、正統派への道は放棄して「素人」代表として書こうと、それで存在価値は確保出来るようだからと、そう割り切っての20年。
だからまあ、"需要"というか、意識していた読者は僕と同様にサッカーに詳しくない層で、そうした層が持つだろう詳しい人には今更かもしれない疑問をあえてしつこく衝いてみる、勿論なるべく難しいサッカー用語は使わずにという、そういうスタイルをメインにはして来ました。・・・意外とそれで喜ぶのは"詳しい"人の方だったりもするんですけど(笑)、まあ"対象"層は身の程を知って、慎み深く黙って読んでいるのかも知れませんが。
まあ20年それやるというのも、余り品が無い気もしないではないんですけどね。"政権取る気のない万年野党"みたいなもので(笑)。いやあ、取る気無いですよね、実際。責任持つ気が無い。"参考意見"以上のものを書く気が無いというか。まあ政党と違って別に反対票で与党の邪魔したりするわけではないので、いいだろうとは思ってるんですが。
でもそれで議席を失ったら、大人しく引退する覚悟はとっくにあるんですけどね。なかなかどうして、無くならないというか、増えも減りもほとんどしない、我が党の議席。"選挙"の度に、それなりにピリピリはしてるんですけど(笑)。まだ票を入れてくれる有権者はいるんだろうかと。

・・・この項下らねえな。(笑)
まあただの"万年野党"というよりも、"ワンイッシュー政党"みたいなところはあるかも知れません。環境保護しか言わないとか。NHKをぶっ壊すしか言わないとか。(笑)
「反対」するのが仕事というのとは、少し違う感じが。(まだ続くのか?この話)



サッカー体験の"生"(なま)性と言葉

"後回し"にした部分。

(再録)
4.感想の記録

>試合関係の記事を書く時は「とにかく誰かの感想を観る前の自分の感想を書き残しておきたい」が一番近いかもしれない。


こんなこと考えてたんだふかばさんと、驚いたというか面白かった箇所でした。

そうする理由は、

>試合関係の何かの文章を読んだとき、もうその試合の自分の感想は消し飛んでしまう。
>あるシーンが実際にそうだったかはわからないけど、そう書かれたらそうだったかも……となってしまう。


からということですが。
他の人、特に近年の大量の理論知に囲まれて育った世代の人はどう読んだのか。興味深い。
にしても繰り返しになりますが、ふかばさんがそんな"不安"に駆られていたとは、知らなんだ。(笑)

さて早速の僕ですが、先にも言った毎試合に近い頻度で試合感想を書いていた時期は、僕もそうしていました。つまりブログ/掲示板/SNS、種類を問わず、他の人の感想文は情報遮断して、試合を見て自分が感じたことだけをまず忠実に文章化して、アップしてからあちこちと答え合わせをして、あーとかうーとかやってました。(笑)
理由も基本的には同じで、誰であれ他人の感想(の言葉)に"汚され"たくない、偏見や勘違いの可能性も含めての、直接的な生の感想こそが書き留める価値がある、"情報"価値があると。

"情報価値"とは何かというと・・・

>いわばこれは遺言状だ。
>その文章を書いた僕は、もう次の日にはいなくなっている。
>いなくなる前に残すべきものを残すのだ。
>そこに残った考えは、概ね自由で、読み返すことで自分を取り戻すことができる。


まあそういうことですね。
こういう言わば(その場限り/一期一会の)"素朴さ"に価値があるということがもし分からない人がいたら、"取材"なり"研究""分析"なりに関わる時に、なるべく「一次情報」(かそれに近いもの)に当たれという普遍的な戒め、あれを思い出せばいいと思います。「整理」「編集」されると、情報は劣化するんですよね。勿論便利にもなりますが。まあこの場合は誰かの"取材"や"研究"結果に対する"一次"性ではなくて、自分自身の思考についての一次性ですけどね。自分も自分に嘘をつく、抽象化を行う、それを防ぐ、その"前"の状態を見失わないようにする。

とにかく僕も、試合感想についてはあえて情報遮断する派だったと、そういう話。逆にリサーチありきで書く文章も、書いたりはしてましたが。
まあ僕とふかばさんを同列で並べるのには大いに問題がある気はしますが(笑)。僕の場合は直感的に"しか"書けないので、半端に情報を入れると軸を失ってマジに書けなくなる。ふかばさんが直接性を"重視"するのとは、さすがに次元が違う気がしますが。(笑)

話戻してこのように確信犯的情弱"生感想"生活を送っていた僕でしたが、いつしかヴェルディ戦感想の更新頻度が月一とか節目節目とかに減って行くにつれて、今度は逆に先に他人の感想を見てから、後出しで書くことを決めるようになりました。
理由としてはまず1試合1試合、その都度直後に書くのでなければ、体験の鮮度やそこから来るニュアンスの正確性などはそこまで問題にならないですし、逆に覚えていたくとも3試合も4試合も"新鮮"に覚えておくことは不可能ですし。また別な言い方をすると、ある試合の体験の"生"性は、次の試合についての他ならぬ自分自身の「感想」によって(後知恵で位置付け直されて)"汚されて"しまうので、量的にも質的にも無駄な抵抗だから。
代わりに主体となるのは、他の人が書いている言っていることからある程度消去法的に決まって来る、自分が書くべき(残りの)こと。その状況判断。勿論その際も各試合で自分が感じたことは軸ではあり続けて、それと状況判断のすり合わせで、書くことは決まる訳ですが。


そしてこれらを踏まえての、ふかばさんの結論。

>そう、僕は、あるいは僕らは一種の自由を得るために文章を書くのだろう。
>誰かの考えに従う前に、自分の考えをリリースしておく。


これは実際結構、核心的かも知れないなと。特に"心理"的に。
"自由""服従""追従"
よく反論しないと認めたことになると言うじゃないですか。基本的にはあれですが。
目の前を流通するある程度の数や"声の大きさ"で主張される(サッカーについての)考え、それに対して必ずしも論戦を吹っ掛けようという訳ではなくとも、少なくとも違和感を目に見える形で表現しておかないとネット空間に"置いて"おかないと、どうにもやはり居心地が悪いというか癪に障るというか。
・・・ふかばさんが上で直接述べているのは他人の考えを見る"前"の話ですが、実際にはほとんどの言説は見た"後"に出て来るものだと思うので、含めての一般論。
とにかくそれ自体はブログじゃなくてもtwitterでも掲示板でも同じというか、みんな同じような動機で発言しているとは思いますが、ブログ(やホームページ)の場合は、やはり特に物理的存在感があるというか、「陣地」を確保したった「橋頭保」を築いたった感は強い(笑)。ある意味子供っぽい意地でないことはなくて(それが"中二病"?)、言うべきことを沢山持ちながらtwitterだけで完結している人とかを見ると、大人なんだなあと思ったりしますが。(笑)
ふかばさんの文脈に戻ると、言葉の"汚染""浸食"機能は何も特定の話者の悪意がもたらすものではなくて、ほとんど自動的に発生するものなので、それに対する防衛として、自分も言葉を紡いでおく必要がある。(こともある)

>自分を残すために、たくさん勉強する。
>言葉に従わされて世界に霧をかけてしまうのではなく。
>言葉を使役することで、世界を作っていく。
>これがアウトプットの意義なんだと、僕は信じている。


このパートの最終結論。
色々と連想の刺激される表現が含まれていますが、頑張って勉強してより良いより堅固な"言葉の陣地"を築けるようになろうと、ミニマムにはそういう話でしょうか。(矮小化し過ぎ?)


以上、なるべく本題から離れないように努力しながらの、"サッカーについての自分なりの言葉を紡ぐこと/文章を書くこと"(+ブログ類を持つこと)についての、僕の場合はどうかという話でした。
僕の場合はゆえあって、"サッカーについて書く"こと以上に"個人ブログを維持すること"が目的化しているところがあるので、色々と不純/イレギュラーではあるんですが。その執着(笑)が無くなれば、noteなりはてななりの(より機能主義的な)フォーマットに移ることも、可能なんでしょうけどね。
なんて余計な話で終わり。


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テーマ:Jリーグ
ジャンル:スポーツ
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