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『富野由悠季の暗号』より ~「絵」と「演出」(「アニメ」と「実写」)
2023年05月11日 (木) | 編集 |
細々(こまごま)と体調が悪くて、僕にしても久しぶりな更新。





WOWOWで見ました。オンデマンドでも見れます。

「機動戦士ガンダム」の生みの親、富野由悠季。彼の作品を支えてきた豪華スタッフの証言から『Gのレコンギスタ』へと至る富野監督の演出論を読み解くドキュメンタリー。


とのことですが、本人ではなく周囲の人のコメントがメインということもあり、個人的にはそこまで有益な情報は少なかった気がします。基本、"それぞれの富野語り"にとどまる内容というか。

その中で僕が面白かったのは、"キャラクターデザイナー・アニメーター"吉田健一(Wiki)が出演しているパート。

YoshidaKenichi

・・・知的で穏やかな語り口が、個人的に好感度/信用度大だった吉田氏。(笑)

『キングゲイナー』『エウレカセブン』『Gのレコンギスタ』のキャラデザ(あと未見ですが『電脳コイル』の磯監督の新作『地球外少年少女』も)を担当している人ですが、資質的な富野さんとの"遠さ"(の自覚)が、逆に目の付け所のピンポイントさに繋がっていて、なるほどと思うことが多かったです。
分量的にも一番この人のパートが多いんですが、その割に構成的な位置づけははっきりしていなくて、(吉田氏がではなくて)作った人は結局何が言いたいのかなという感じの全体ではありましたが。

以下吉田氏の発言を抜粋しつつ。


"アニメーター"吉田健一氏から見た富野演出の特殊性

抜粋1

・富野さんの特殊性は絵に頼らないところ。
・絵自体は上手い。ただアニメに定着させるのは難しい(タイプの絵)
キーワードを考えるのが上手い。


アニメの演出家ではあるが、絵、"animate"する/絵を動かす部分には、演出の重心を置いていない。
"キーワードを考えるのが上手い"というのは、吉田氏の説明だと、"絵"ではなく"概念"(キーワード)によって、どういう絵を描く/作るべきかを、アニメーターたちに伝えている(そしてそれは最終的に観客にも伝わる)と、そういうことのよう。
その直後に「感覚の再現」というワードが出されます。

(字幕)
例えばナウシカが空を飛んだ時、観客は目で見て楽しむだけでなく浮遊感を実際に味わっている。これを「感覚の再現」と呼んでいる。アニメーター出身である宮崎駿監督の得意技とされる。


吉田氏によると宮崎監督の下ではこれがアニメーターのメインの仕事というところがあり、またその為の細かい技術がいくつも確立されている。
文脈的には、つまり富野監督の方法はこれとは違うということが言われている。だから吉田氏は富野演出に従いつつ、そこに宮崎的"感覚の再現"技法を"加え"てみる試みを、時々していたということ。
サッカー的にやや雑に言うと、"戦術"(富野)と"個人"(宮崎)的な対応か。"全体構造"と"局面"というか。欧州と南米(or和式)?
勿論これは富野演出の方に寄せた対照の仕方で、宮崎演出には宮崎演出なりの、"戦術"や"構造"があるんでしょうけど。ただ最初の"絵に頼らない"という言い方に戻れば、絵が動くから動きが伝わる宮崎演出と、シーンの概念的構成によって動きが(動いたことが)伝わる富野演出的な対比を、吉田氏がここでしようとしているのは確かだろうと思います。

では絵を動かさない(描かない)富野演出は、何をしているのか。

抜粋2

・富野監督がコントロールする部分は、コンテと編集とアフレコ
・要するに僕らが絵を描き切る前。設計図。特にコンテ。


コンテと編集とアフレコ。
まず大前提として、(絵)コンテによるシーンの設計図をきっちり作る。(VTR中の安彦良和氏によれば、富野氏は虫プロでの自身の最初期の仕事からコンテ作りには参加していたとのこと)
それに従ってアニメーターたちが絵を描いて行く訳ですが、そこの部分はそれこそ吉田氏などに任せて"コントロール"しない。(宮崎氏を筆頭とする一般的な、少なくともアニメーター出身のアニメ監督の場合、そこへもっと直接的に深く関わる)
富野監督が再び"コントロール"するのは、そうして描き上がった絵とそれによって構成されるシーン/素材の「編集」作業、及び更にそれを基にした声優によるアフレコ作業。
後者については後述するとして、つまり極端に言えば「絵」の前(コンテ)と後(編集)にしか興味が無い訳で、大部分の「絵」派の監督にとってアニメの(重要な)"本体"が絵そのものであるのに対して、富野監督にとってのアニメの絵はシーンの内容を伝える為の一種の記号というか「アニメ作品」という将棋を指す為の"駒"というかそういうものであると。"王将"と書いてあれば王だろうし、"K"と書いてあって王冠被ったひげのおじさんが判別できればキングであろうと(笑)。それでよしと。極端に言えば。「作品」の本体は"将棋"のゲーム性の方であり、「演出」とは富野監督の指し筋のことであって駒やカードの絵画的表現ではない。

だから

抜粋3

・自分が参加したキングゲイナーも含めて、実際のところ誰がアニメーターでも成り立つ、富野さんは富野さんの守備範囲["コンテ・編集・アフレコ"?]の中で、"富野作品"に出来てしまう、して行ってしまう。
・僕が演出をやらないのはそれが出来る気がしないから。


ということになります。

・・・以上ある意味では富野さんと真逆のタイプである、意識的に"非演出家"である生粋のアニメーター吉田健一氏に従って、アニメ監督富野由悠季の「特殊」性について見て来た訳ですが。


富野監督、富野演出は特殊なのか

この文章が結果どんなタイプの人にどれだけ読まれるかは分からないところはありますが、ただブログ自体の想定平均読者像からすると、正直あんまりピンと来てない人の方が多いのではないかと思ったりします。他ならぬ僕自身も、そういうところがあるので。
どういうことかというと、「コンテと編集とアフレコ」に主に注力するという富野流は、アニメ界では"特殊"なのかもしれないですけど実写の世界では、言い換えれば世間一般の映像劇視聴者がまず考える演出・監督の姿としては、むしろ普通なのではないかと思うからです。だから"特殊"前提の話の進め方には・・・という。
つまり、当たり前の話ですけど、アニメの場合重視するしない以前にまず誰かが絵を"描"かなければ、物理的に存在出来ない訳です。駒でしかないとしても駒が無ければ、将棋は指せない。(笑)
一方で実写の場合、極端に言えばカメラを持ってそこにある風景なり人間なり動植物なり機械なりのこの世に存在する何かを映せば、わざわざ"絵を描"かなくとも無から有を生み出さなくとも、とりあえず何かを映したことになる「映画」になる(ドラマなりドキュメンタリーなりに)。それぞれの美醜とか芸術性とかいう以前に、有る/無しのレベルでそういうはっきりした違いがある。
そうした絵を描く/動かす、その作業を監督するというプロセスがごっそり抜け落ちている実写ものの場合、監督・演出家が主にする作業としては、シーンの構成を考え(「コンテ」)、それに従って俳優・出演者を動かしてみてそれに調整を加え(アニメで言えば「アフレコ」、音声について"アフター"でないことも実写では多いでしょうか)、そうして撮った素材を「編集」して作品として完成させるという、要素としては正に"富野監督がコントロールしている"とされるものそのものな訳です。
そして世代的にも(1941年生まれ。TVアニメ『鉄腕アトム』開始時既に24歳)個人的にも、「アニメ」ではなく「映画」を作りたかった富野監督(参考)にとっても、それは"演出家"としてむしろ標準的なプロセスである筈。
その後結果として約60年を業界で生きた成功したアニメ監督である富野さんが、頑なに"実写流"をアニメに"押し付けて"来た筈はない訳ですが、"本当は映画が作りたかった"そしてアニメ業界でもアニメーター経由で演出家になった訳ではない富野監督が、あくまで実写/アニメ共通の作品性を極力自分の作品/演出技法に求め、それがアニメのアニメたる部分の比重の小ささとして根っからのアニメ人には"特殊"に映るという、そういう事態ではあるのではないかと思います。
そういう意味で、アニメ演出家富野監督の技法の"特殊"性はあくまで状況的相対的な特殊性であり、本人は特殊なことをやろうとも自分が"独創的"な演出家だとも、思ってはいないのではないかなと。
まあそれでアニメ業界で大きな成功を収めたところに、単に「実写」技法という外在的要素以外に富野さん個人の特殊性なり才能なりは隠れているのかも知れませんが、比較対象が少なくてなかなかそれについては難しい(数多いるアニメーター系監督どうしなら比較し易いでしょうが)。そこまで行くまでに話が終わってしまうというか。(吉田証言も含めた今回の"ドキュメンタリー"もそう)


(まとめ?)僕の中の「富野」と「宮崎」

僕自身はどうかというと、未だに毎四半期に始まる膨大な数の地上波アニメ群の少なくとも第1話はほぼ欠かさず見る僕は、一般社会的には立派なアニメオタクの部類なのかもしれませんが、余りそういう自覚は無いですし子供時代少年時代に遡ってもそれほど熱心にアニメを見ていた訳でも増して"アニメで育った"というタイプの子供でもなかったと思います。当時の有名作品は、専ら成人後にあらかた後追いでは見ましたけどね。
一方で"海外ドラマ"に関しては今も昔も物理的に見られる(日本語化された)作品は一部アジア地域除く地球上の全作品を見る勢いで見ている紛れもないオタクですし、映画もメジャー/新作作品となると心許ないですがそうでないマニアック寄りのor白黒時代も含む古い作品に関してなら、標準よりはまあまあ見ている方だろうと思います。当然そこにおける「演出」「映像」的なこだわりも、アニメの時と比べても多めにあるように思います。
そもそもアニメについてもマメに見ているのが"テレビ"アニメであることからも分かるように、見ているのは専ら人気"漫画"や"小説"の"アニメ化"されたものであって、主役は「物語」であって「アニメーション」そのものではない。
という訳で僕のアニメを見る視点も、別にいちいちそう意識している訳ではないですが本質的にアニメ"外"アニメ"内"的"汎"映像劇的なもので、そういう意味では富野監督と同じで、"演出"観も演出技法上の力点も、近いというか違和感無く理解出来るというか。一方で宮崎駿監督を筆頭とする"アニメーター"系の有名監督たちの作品/"傑作"を見ている時は、綺麗だなあよく動く絵だなあと感心したりはしつつも、感動ポイントや評価ポイントがそこにあるわけではなく、あくまで物語的にどうか一般映画的な意味での演出や演技がどうかという観点で(のみ)見ているという、それが基本的な態度。(勿論例外はあります)
だからこと「アニメ」に関して言えば、僕は圧倒的に"富野"派、絵や細部ではなく構造/構成派だと言えると思います。

ただでは常に、どのジャンルでもそうかというと、それが案外そうでもないようなんですよね。
例えば今回の富野演出のアニメ界での位置づけの為に引いてみた"サッカー"の例で言うと、確かに戦術や構造は重視するし、一定レベル以上のそれらが前提に無いサッカーを見るのは苦痛ではありますが、ただ最終的に何を見たいか何に一番感動するかというと、そうした戦術や構造と関わりながら、あるいは場合によってはそれを裏切るように発露する爆発する、個人の技能やイマジネーションの方のようなんですよね。別に"解放の為の束縛"と、"ツンデレ"的に割り切ってる訳ではないんですけど(笑)、気が付くと。そしてその"個人の技能"にしばし忘我的に耽溺している瞬間というのは、アニメで言えばアニメーターの技巧・技量そのものに、絵の躍動そのものに本体的に感動する評価する、そういう見方と重なる部分が多いのではないかと思います。
つまりサッカーにおいては、結構僕は「宮崎」寄り。特に"現代欧州サッカーファン"という(「富野」的ジャンルの)括りの中で言えば、多分半分の比重を越えて「宮崎」寄りに分類されてもおかしくない人なのではないかなと。(南米とか日本とかを入れるとまた話は違って来ると思いますが)

あるいは(ポップ)「音楽」という例で考えてみると。
確かにコンセプトも曲構造も重要ですけど、結局のところ演奏ないしそのものに面白みや聴き応えを感じないと、部屋で流すくらいはいいとしても、ヘッドフォンで"体感"的に聴くのは退屈しちゃって無理なんですよね。いい曲だけどいいアーティストだけど、ヘッドフォン聴取には耐えないというケースは、結構あります。逆に曲自体は(最初と最後の)"テーマ"の提示程度の機能しか果たしていなくて後は延々ソロやインプロヴィゼーションみたいなタイプのものでも、好きな/出来のいいものならいくらでも聴いてられます。むしろ終わらないでと願ったり。まだ10分しかやってないじゃんみたいな。(笑)
こういうある意味での"幸福な本末転倒"は、作画/絵メインでアニメを見る/評価する人の口ぶりには、ちょいちょい感じることがあります。それはそれで楽しいんだろうなと想像はしますが、僕自身はアニメに関しては、ソロとか別に要らないから、4分でも長えよサクサク行こうぜという感じの人です。
という訳で結構演奏派技術派の音楽ファンである僕ですが、だからと言ってジャズに行ったりはしないので、富野前提の宮崎多め入りみたいな感じですかね(笑)。サッカーの時よりも、宮崎成分は多いかな?

あるいは・・・AV。(笑)
これは人によって嗜好が分かれるでしょうが、僕自身は"ストーリー"とか"演技"とかほんと勘弁な人です。基本「女優」ものは見られません。ほとんど企画/ドキュメンタリー/素人系専門の人です。ただただ「絵」の躍動を見るのだけが目的、お話とか意味とか邪魔でしかない、剥き出しの「作画」のクオリティだけが目的。「絵」や「作画」がこの場合何を意味するかは、あえて語りませんが。(笑)
逆に一部の本当に「作画」派(と感じる)のアニメに関しては、AVと同類のものとしてあえて見ることもありますけどね。ストーリーがどんなに下らなくても芝居がどんなに馬鹿馬鹿しくても、それは数分間の"絡み"を見せる為のアニメーションアクションを見せる為の、"状況設定"の説明パートとして割り切るという。その作品のファンに言ったら多分怒られますけど(笑)。絡みはエロいよそれは認める。でも意味なんて考えるだけ無駄だろう?こんなのという。(言えない、言わない(笑))
とにかくAVについては、僕は完全に「宮崎」派。(と、この文脈で言うのはどうだろう(笑))
絵のエロティシズムだけが大事。

と、このように各ジャンルにおける「富野」性と「宮崎」性のばらつき(の僕の中での表れ)を提示することによって、「富野演出」(の"特殊"性)の相対的位置が分かり易く位置付けやすくなるのではないかなという、そういう話です。


最後にもう一度だけ吉田証言に戻ると。
そういう"絵に頼らない"富野演出を共に仕事をしながら見て来た"絵の人"吉田氏が、「僕が演出をやらないのはそれが出来る気がしないから」と結論的に吐露しているのは、アニメ界においての"特殊"という前提で語りつつも、結局は富野監督がやっているようなものこそが、より本来の、より純粋な意味での「演出」だと、認めているとそう感じざるを得なかったと、そういう話なように思えます。
そう、思うんですけどね、僕も。"感覚の再現"は感覚の再現で確かに魅力的ですけど、でもそれは後の話だろうと。ただ特に各アニメ「映画」の世評を見ると、たまに分からなくなってしまいます。
まあ「本来」であるならばあるならばこそ、"富野"的部分を他の"作画派"監督たちが、やっていない、軽視している筈は無いことも、言うまでもないのだろうとは思いますが。あるいは本当はそれほど"特殊"ではない富野監督一人に、その部分を背負わせて論じることの問題も、あるはありますね。

ともかく『富野由悠季の暗号』の感想としては、以上です。


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