2006年06月26日 (月) | 編集 |
遅れ馳せながら『ギャルサー』最終回に捧ぐ。
最後にやってくれました、大コスプレ祭り。
冒頭いきなり脳味噌を吹き飛ばす戸田恵梨香のカウボーイ(ガール)姿

に始まり、途中新垣結衣のナースなどを挟みつつ、
やはり白眉は鈴木えみのボロアパートで親子3人(父・佐藤隆太)肩寄せ合う”貧乏若妻”姿

か。
に、似合わねえ。痺れる。(画像提供元)
何か書きたいんですがこれといって思い浮かばないので(笑)、何となく原点的エピソードである第一回のテーマについてのいささかの愚考でも。
最後にやってくれました、大コスプレ祭り。
冒頭いきなり脳味噌を吹き飛ばす戸田恵梨香のカウボーイ(ガール)姿

に始まり、途中新垣結衣のナースなどを挟みつつ、
やはり白眉は鈴木えみのボロアパートで親子3人(父・佐藤隆太)肩寄せ合う”貧乏若妻”姿

か。
に、似合わねえ。痺れる。(画像提供元)
何か書きたいんですがこれといって思い浮かばないので(笑)、何となく原点的エピソードである第一回のテーマについてのいささかの愚考でも。
『ウザイ』編
番組中では『死ね』と並べて要するに「悪い言葉だからやたらと使わないようにしよう」というそういう切り方になっていましたが、古来(?)少女言葉や俗語が常にある種の予言力を持っていたように、『ウザイ』という感受性自体は尊重されるべきものだと思います。つまり是非/内実はともかく、関係性の失敗や距離感の喪失という事実・結果とその心理的悪影響を的確に表現する言葉として。
”悪意”はなくとも、それどころか善意から来たものであったとしても、そうした失敗や喪失はそれ自体が一種の罪であるということ。平たく言うと誰かにウザがられたら、自己弁護や相手の批判なんてしている暇があったらまずはともかく反省すること、その事実を受け止めること。
勿論どこかで誰かが自分のことをウザいと思うこと自体は、僕自身も含めて防ぎようがないわけですが、少なくとも対面的関係においてそういう事態が勃発した場合は、考えるべきことは結果としての”ウザ”さの軽減や回避であって、言い訳や反論ではない。
・・・・つまり、これは「意見」や「道徳」ではなくて、あくまでそう感じる相手の感情(感受性)の問題なので。誰かが何かをどう感じるかは純粋にその人の問題で、それに異議を唱えるというのは知らず酷く傲慢で失礼なことをやっていることになる。
要するに”恋愛”関係における好き嫌いと似たようなものと考えると分かりやすいと思いますが。ひとの『ウザイ』を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んじまえ。
ただ従来は専ら”恋愛”などの限られた関係の中でのみ重視されていたその種の感受性が、近年は割りと全面化というか、表立って重視される傾向が増えているように思います。それこそ「セクハラ」の定義なんかはその類。結果として相手が不快に思うこと、それ自体が悪。どういう”つもり”かは関係ない。
で、基本的にこれは正しい方向だと僕は思います。旧人類(笑)には頭の痛いことでしょうが、これくらいのセンシティヴィティを努力目標として義務化していかないと、人類なんて存在自体がウザくて仕方がない。死ねよ、てなもんです。
以下『キモイ編』『死ね編』につづく
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番組中では『死ね』と並べて要するに「悪い言葉だからやたらと使わないようにしよう」というそういう切り方になっていましたが、古来(?)少女言葉や俗語が常にある種の予言力を持っていたように、『ウザイ』という感受性自体は尊重されるべきものだと思います。つまり是非/内実はともかく、関係性の失敗や距離感の喪失という事実・結果とその心理的悪影響を的確に表現する言葉として。
”悪意”はなくとも、それどころか善意から来たものであったとしても、そうした失敗や喪失はそれ自体が一種の罪であるということ。平たく言うと誰かにウザがられたら、自己弁護や相手の批判なんてしている暇があったらまずはともかく反省すること、その事実を受け止めること。
勿論どこかで誰かが自分のことをウザいと思うこと自体は、僕自身も含めて防ぎようがないわけですが、少なくとも対面的関係においてそういう事態が勃発した場合は、考えるべきことは結果としての”ウザ”さの軽減や回避であって、言い訳や反論ではない。
・・・・つまり、これは「意見」や「道徳」ではなくて、あくまでそう感じる相手の感情(感受性)の問題なので。誰かが何かをどう感じるかは純粋にその人の問題で、それに異議を唱えるというのは知らず酷く傲慢で失礼なことをやっていることになる。
要するに”恋愛”関係における好き嫌いと似たようなものと考えると分かりやすいと思いますが。ひとの『ウザイ』を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んじまえ。
ただ従来は専ら”恋愛”などの限られた関係の中でのみ重視されていたその種の感受性が、近年は割りと全面化というか、表立って重視される傾向が増えているように思います。それこそ「セクハラ」の定義なんかはその類。結果として相手が不快に思うこと、それ自体が悪。どういう”つもり”かは関係ない。
で、基本的にこれは正しい方向だと僕は思います。旧人類(笑)には頭の痛いことでしょうが、これくらいのセンシティヴィティを努力目標として義務化していかないと、人類なんて存在自体がウザくて仕方がない。死ねよ、てなもんです。
以下『キモイ編』『死ね編』につづく
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