2007年04月11日 (水) | 編集 |
格闘描写の「技」と「心」、その3。富樫義博編。
出世作『幽遊白書』(’90〜’94)においては、当初はバトルものの予定ではなかったこともあってか、”霊気”が”レイガン”や”霊剣”になる式の基本的には素朴な、ドラゴンボールと同レベルのありがちな描写で通していた(それでも名作だとは思いますが)富樫義博ですが、準備万端放ったのだろうこの『ハンター×ハンター』(’98〜)

HUNTER×HUNTER [少年向け:コミックセット] / 富樫義博
では、同種の概念「念」をめぐってのちょっと他に類を見ないような精緻な体系性を持った理論を引っさげて登場して来て、正直度肝を抜かれました。
作中のいくつかの描写を見ると、作者が何らか古武術の類を研究した形跡(”水見式”とか、15巻”流々舞”とか)はすぐに見て取れると思うんですが、しかしそういうことよりも何よりもこのある意味必要以上とも言える徹底した体系性を支えているのは、いわゆる”ゲーム”の「戦闘システム」の発想なのだと思います。
『ハンター×ハンター』とゲーム
と、偉そうに言ってはいますが(笑)僕が単行本一気読みの過程でそのことに気がついたのはかなり遅くて、そのものズバリ”ゲーム”の世界である、13巻後半以降の「グリード・アイランド」編になってから。それまでは背景が分からなくて、ただただ富樫義博の天才性に震撼して、自分の理解力に自信をなくしてショボくれていました。(笑)
敏感な人ならかなり早い時期からこの作品の根底に”ゲーム”の発想があるのは分かっていたと思うんですが、僕はちょっとゲーム音痴に近い人なのでどうにも。
ここで”ゲーム”と言っているのは代表的には勿論コンピュータ・ゲームですが、グリード・アイランド編で全面展開されているようなカードゲームから何から、作者が筋金入りのゲーム好きで、子供の頃からカードゲームを自作したり今でも暇があると理想のゲーム・システムの構想を当てもなく考えたりしているということが単行本の随所で語られています。
その作者のゲーム愛の性格には勿論ヴァーチャルや空想の別世界で遊ぶ子供らしいそれも勿論あるわけですが、それ以上に目を引くのはゲームの細々としたルール、設定そのものを考えることに対する情熱・喜び、それによって論理的で包括性の高い体系/ゲーム世界を作り出すことへの興味です。
グリード・アイランド編を見てもよくぞここまでという細かさで、実際あれをちゃんと見たり覚えたりしようという人はどれくらいいるんでしょうか。(笑)
作者が意識しているかは知りませんが、その論理的な情熱は哲学者を越えてほとんど数学者的なレベルの、そういうタイプの知性のように思えます。
それ以前のパートにおいても例えばハンター試験のルールにこめられた様々な3すくみ的なジレンマ設定、クラピカのジャッジメントチェーンに代表される念能力の”縛り”と”効力”の関係、勿論随所に散りばめられたミニ・ゲームっぽいシーンなど、『ハンター×ハンター』の”ゲーム漫画”性を示す要素はあちこちに探せます。
「念」理論と”ゲーム”の「戦闘システム」
本題の「念」理論ですが、あれを「念」そのものについての作者の考え、そこから直接に出て来る理論体系だと思ってしまうと、一体この人は何者なのかと僕のように悩む羽目になるのでやめておいた方がいいです。(笑)
そうではないんですね。あれは新作ゲームの戦闘システムの考案を任されたプログラマーが、前作のシステムやゲーム全体のデザインや長さ、予算など、様々なものを考慮に入れながら、プレイヤーが適度に苦労しつつ楽しめるようこしらえた/でっちあげたシステム、そういう性格のものなんですね。
だから同じく「念」という概念を使っても、違うゲーム/作品なら全く違う理論になり得るでしょう。例えば『FF』という続き物のシリーズの同じく”アビリティ”や”魔法”であっても、ナンバーによってかなり違った理論付けがされているように。
言うなれば「念」”についての”ではなくて「念」”をめぐっての”理論、掘り下げるのではなく取り囲む、意味や真実性ではなくて体系性そのもの、作り話の広がりと辻褄を焦点とする理論なわけです。
・・・・余談ですが案外本物の科学理論の、特に社会的認知にはそういう面も大きくて、必ずしも「実証」や「論証」そのものではなくて(どのみち一般人には分かりませんし)体系の包括性、説明としての魅力がより大きな役割を果たしたりします。”精神分析”なんかはその代表でしょうけど。科学も物語である、ところがある。
実際には『ハンター×ハンター』の作中で語られている「念」理論には、少なからず作者の本気の予感が含まれていることと思いますが、当面それは主題的に語られているわけではない。
(2)につづく
出世作『幽遊白書』(’90〜’94)においては、当初はバトルものの予定ではなかったこともあってか、”霊気”が”レイガン”や”霊剣”になる式の基本的には素朴な、ドラゴンボールと同レベルのありがちな描写で通していた(それでも名作だとは思いますが)富樫義博ですが、準備万端放ったのだろうこの『ハンター×ハンター』(’98〜)

HUNTER×HUNTER [少年向け:コミックセット] / 富樫義博
では、同種の概念「念」をめぐってのちょっと他に類を見ないような精緻な体系性を持った理論を引っさげて登場して来て、正直度肝を抜かれました。
作中のいくつかの描写を見ると、作者が何らか古武術の類を研究した形跡(”水見式”とか、15巻”流々舞”とか)はすぐに見て取れると思うんですが、しかしそういうことよりも何よりもこのある意味必要以上とも言える徹底した体系性を支えているのは、いわゆる”ゲーム”の「戦闘システム」の発想なのだと思います。
『ハンター×ハンター』とゲーム
と、偉そうに言ってはいますが(笑)僕が単行本一気読みの過程でそのことに気がついたのはかなり遅くて、そのものズバリ”ゲーム”の世界である、13巻後半以降の「グリード・アイランド」編になってから。それまでは背景が分からなくて、ただただ富樫義博の天才性に震撼して、自分の理解力に自信をなくしてショボくれていました。(笑)
敏感な人ならかなり早い時期からこの作品の根底に”ゲーム”の発想があるのは分かっていたと思うんですが、僕はちょっとゲーム音痴に近い人なのでどうにも。
ここで”ゲーム”と言っているのは代表的には勿論コンピュータ・ゲームですが、グリード・アイランド編で全面展開されているようなカードゲームから何から、作者が筋金入りのゲーム好きで、子供の頃からカードゲームを自作したり今でも暇があると理想のゲーム・システムの構想を当てもなく考えたりしているということが単行本の随所で語られています。
その作者のゲーム愛の性格には勿論ヴァーチャルや空想の別世界で遊ぶ子供らしいそれも勿論あるわけですが、それ以上に目を引くのはゲームの細々としたルール、設定そのものを考えることに対する情熱・喜び、それによって論理的で包括性の高い体系/ゲーム世界を作り出すことへの興味です。
グリード・アイランド編を見てもよくぞここまでという細かさで、実際あれをちゃんと見たり覚えたりしようという人はどれくらいいるんでしょうか。(笑)
作者が意識しているかは知りませんが、その論理的な情熱は哲学者を越えてほとんど数学者的なレベルの、そういうタイプの知性のように思えます。
それ以前のパートにおいても例えばハンター試験のルールにこめられた様々な3すくみ的なジレンマ設定、クラピカのジャッジメントチェーンに代表される念能力の”縛り”と”効力”の関係、勿論随所に散りばめられたミニ・ゲームっぽいシーンなど、『ハンター×ハンター』の”ゲーム漫画”性を示す要素はあちこちに探せます。
「念」理論と”ゲーム”の「戦闘システム」
本題の「念」理論ですが、あれを「念」そのものについての作者の考え、そこから直接に出て来る理論体系だと思ってしまうと、一体この人は何者なのかと僕のように悩む羽目になるのでやめておいた方がいいです。(笑)
そうではないんですね。あれは新作ゲームの戦闘システムの考案を任されたプログラマーが、前作のシステムやゲーム全体のデザインや長さ、予算など、様々なものを考慮に入れながら、プレイヤーが適度に苦労しつつ楽しめるようこしらえた/でっちあげたシステム、そういう性格のものなんですね。
だから同じく「念」という概念を使っても、違うゲーム/作品なら全く違う理論になり得るでしょう。例えば『FF』という続き物のシリーズの同じく”アビリティ”や”魔法”であっても、ナンバーによってかなり違った理論付けがされているように。
言うなれば「念」”についての”ではなくて「念」”をめぐっての”理論、掘り下げるのではなく取り囲む、意味や真実性ではなくて体系性そのもの、作り話の広がりと辻褄を焦点とする理論なわけです。
・・・・余談ですが案外本物の科学理論の、特に社会的認知にはそういう面も大きくて、必ずしも「実証」や「論証」そのものではなくて(どのみち一般人には分かりませんし)体系の包括性、説明としての魅力がより大きな役割を果たしたりします。”精神分析”なんかはその代表でしょうけど。科学も物語である、ところがある。
実際には『ハンター×ハンター』の作中で語られている「念」理論には、少なからず作者の本気の予感が含まれていることと思いますが、当面それは主題的に語られているわけではない。
(2)につづく
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