2007年07月10日 (火) | 編集 |
一瞬だけ、”東洋のバルサ”が見えた。
アジア杯Gリーグ 日本代表 △1−1△ カタール代表(ベトナム・ハノイ)
一瞬だけね(笑)。序盤の。
なぜU−20W杯ではつけなかった「Gリーグ」という冠を、アジア杯では無意識につけたのかなと思ったら、要は対戦相手のレベルの低さにうんざりしているからでした。一戦一戦ではなく、タイトルに向けての”過程”という、つまり位置付け上の価値しか感じられないという。
これが他ならぬ国内リーグも盛り上がって、最近売り出し中の新興国のサッカーとは。俺たち日本がもっと若かった頃はなあ、ブツブツ。
オシムというのはやはり何を考えているのかよく分からない人で。それはジーコに対するような「何考えてんだ!」という罵倒、否定の慣用句としてではなく、文字通りの意味ですが。
・・・・つまりこの試合で(も)見せた両中村と遠藤の3ファンタジスタの同時起用、それからその為の工夫という意味合いが濃いのだろう、キリン杯よりも更にケツの軽いバルサ風4−1−2−3的なシステムが、要するに何を目的としたものなのか。
考えられるのは
1.純粋に勝つ確率を上げる戦術的「手段」
2.世間(や協会)の願望(とオシムが考えているもの)への一種のおもねり
3.オシム自身の究極的理想・希望を見据えたいち過程
といったところですが。
大会前にほとんど問わず語りに「勝てなかったらクビ覚悟」と自らぶち上げてプレッシャーをかけていたところから、論理的には1である、あるいは1的基準でメンバー選考をして来るのだろうと予想されるわけですが、これがそれなのか。とてもそうは思えない。憲剛と遠藤は元々の基幹選手でもあるからいいとしても、俊輔についてはわざわざ当てはめているのは明らか。それで2みたいな話も出て来るわけですが。
で、やはり一番強く感じるのは3のニュアンスで、特にキリン杯からアジア杯という流れを考えると、より正確にはその親善試合から真剣勝負へという流れに逆行するように、更に”道楽”度の高い布陣をぶつけて来たのを見ると。
・・・・実際には「逆行」してるのではなくて「無視」してるんだと思いますけどね。結局好きでやっている、自分のこだわりでやっている。
なんか気のせいか、いつの間にか”美しさ”と”勝利”の二項対立のさなかに日本代表が置かれてるようですが、はて”美しく”してくれとか頼みましたっけ。
『日本らしいサッカーをする』『日本代表を日本化する』という例のマニュフェストは、それによって正に『日本』人選手がやりやすくなる、力を自然に発揮できるようになる、そしてそのことによって”強く”なる、”勝”てるという、そういう意味で受け取られ、支持されたように思うんですが。
”美しさ”というのはどちらかというと前の監督の・・・・今はトルコにいる・・・・
実際には遠藤の方が(憲剛に比べて)より前がかりな、4−2−3−1的な並びに見える時間が多かった気がしますが、それでもやはりキリン杯との違いは出ていたと思います。
憲剛が(キリン杯のように)はっきりドイスボランチでそのラインを仕切っていると、持ち味から大きなサイドチェンジのパスが良く出てそれがチームの基本展開になるわけですが、この日のような並びだと憲剛はワン・オブ・ゼム、”上手い選手の1人”になって、淡々と繋ぐというか小さめの展開の連続になるというか。外へ外へ回そうという意識自体は残ってるんですけど。
そこらへんが威勢良く華やかに、相手を圧して行なわれていた序盤は、だからほんとにバルサっぽかったと思うんですけどね。(笑)
その内思ったように攻め込めなくて、また後半になって徐々にカタールもプレッシャーをかけてくるようになってからは交わしのパスが多くなったというか、とりあえず持っているという感じになってしまいましたが。あれって”圧倒”なのかな。
ここで冒頭の話に戻って、またヴェルディ者としての立場で言わせてもらうと、日本代表はだらしないです、ヘタレです。
つまり・・・・カタール代表はセレッソだったわけですよ、この前の。やる気あんのかというダサダサのドン引き。”狙い”度自体はより強いとしても、現象としては。
で、その時ヴェルディは、あらそうですかと気を良くして(笑)与えられたスペースを伸び伸びと使ってパスを回して、それによって盤石のマイペースを作って行ったわけですが、一方の日本代表はむしろまごついたように居心地が悪いかのようにかえってバタバタとして、回している割りには最後までリズムに乗れていなかったように見えました。余裕があり過ぎて出し手と受け手の呼吸がかえってうまく調整出来ないような感じ。
これはつまり「文化」の差だと思うんですよね、その蓄積の。
トルシエに言われて以来、「”守備の文化”がない」というのは一つの定説のようになっていますが、それを言うなら実はパス回しの文化もない。少なくとも代表チームには。フィニッシュが見えている状態での一気にスピードアップして行くタイプ(この日の序盤などもしかり)の繋ぎならかなり上手いですが、それ自体、ある程度目的的な、すぐには出口が見えない状態でキープするようなそういうものは。
あまりに必要にかられて、ジーコの時はすこーし見えましたけどね。(笑)
まあこれはこの前のコロンビア戦について言ったことの逆ということでもあるでしょう。むしろコロンビアの与える恒常的な圧力があった時は、それに対応する形でピンポイントのタイミングや選択肢を見出すことが出来たんですが、自由にやれと言われても基本的なテンションの高さ、急迫的なタイム感の収め所が見付からない。
この試合のパス回しを評価する人って、なんか基準が低過ぎるんじゃないかと思うんですけど。この相手に持てるのは当たり前じゃないか。
・・・・おーっと随分書いてしまったので、前振りしておいた(?)「吉田U−20との比較」は次戦以降ということに。
アジア杯Gリーグ 日本代表 △1−1△ カタール代表(ベトナム・ハノイ)
一瞬だけね(笑)。序盤の。
なぜU−20W杯ではつけなかった「Gリーグ」という冠を、アジア杯では無意識につけたのかなと思ったら、要は対戦相手のレベルの低さにうんざりしているからでした。一戦一戦ではなく、タイトルに向けての”過程”という、つまり位置付け上の価値しか感じられないという。
これが他ならぬ国内リーグも盛り上がって、最近売り出し中の新興国のサッカーとは。俺たち日本がもっと若かった頃はなあ、ブツブツ。
オシムというのはやはり何を考えているのかよく分からない人で。それはジーコに対するような「何考えてんだ!」という罵倒、否定の慣用句としてではなく、文字通りの意味ですが。
・・・・つまりこの試合で(も)見せた両中村と遠藤の3ファンタジスタの同時起用、それからその為の工夫という意味合いが濃いのだろう、キリン杯よりも更にケツの軽いバルサ風4−1−2−3的なシステムが、要するに何を目的としたものなのか。
考えられるのは
1.純粋に勝つ確率を上げる戦術的「手段」
2.世間(や協会)の願望(とオシムが考えているもの)への一種のおもねり
3.オシム自身の究極的理想・希望を見据えたいち過程
といったところですが。
大会前にほとんど問わず語りに「勝てなかったらクビ覚悟」と自らぶち上げてプレッシャーをかけていたところから、論理的には1である、あるいは1的基準でメンバー選考をして来るのだろうと予想されるわけですが、これがそれなのか。とてもそうは思えない。憲剛と遠藤は元々の基幹選手でもあるからいいとしても、俊輔についてはわざわざ当てはめているのは明らか。それで2みたいな話も出て来るわけですが。
で、やはり一番強く感じるのは3のニュアンスで、特にキリン杯からアジア杯という流れを考えると、より正確にはその親善試合から真剣勝負へという流れに逆行するように、更に”道楽”度の高い布陣をぶつけて来たのを見ると。
・・・・実際には「逆行」してるのではなくて「無視」してるんだと思いますけどね。結局好きでやっている、自分のこだわりでやっている。
なんか気のせいか、いつの間にか”美しさ”と”勝利”の二項対立のさなかに日本代表が置かれてるようですが、はて”美しく”してくれとか頼みましたっけ。
『日本らしいサッカーをする』『日本代表を日本化する』という例のマニュフェストは、それによって正に『日本』人選手がやりやすくなる、力を自然に発揮できるようになる、そしてそのことによって”強く”なる、”勝”てるという、そういう意味で受け取られ、支持されたように思うんですが。
”美しさ”というのはどちらかというと前の監督の・・・・今はトルコにいる・・・・
実際には遠藤の方が(憲剛に比べて)より前がかりな、4−2−3−1的な並びに見える時間が多かった気がしますが、それでもやはりキリン杯との違いは出ていたと思います。
憲剛が(キリン杯のように)はっきりドイスボランチでそのラインを仕切っていると、持ち味から大きなサイドチェンジのパスが良く出てそれがチームの基本展開になるわけですが、この日のような並びだと憲剛はワン・オブ・ゼム、”上手い選手の1人”になって、淡々と繋ぐというか小さめの展開の連続になるというか。外へ外へ回そうという意識自体は残ってるんですけど。
そこらへんが威勢良く華やかに、相手を圧して行なわれていた序盤は、だからほんとにバルサっぽかったと思うんですけどね。(笑)
その内思ったように攻め込めなくて、また後半になって徐々にカタールもプレッシャーをかけてくるようになってからは交わしのパスが多くなったというか、とりあえず持っているという感じになってしまいましたが。あれって”圧倒”なのかな。
ここで冒頭の話に戻って、またヴェルディ者としての立場で言わせてもらうと、日本代表はだらしないです、ヘタレです。
つまり・・・・カタール代表はセレッソだったわけですよ、この前の。やる気あんのかというダサダサのドン引き。”狙い”度自体はより強いとしても、現象としては。
で、その時ヴェルディは、あらそうですかと気を良くして(笑)与えられたスペースを伸び伸びと使ってパスを回して、それによって盤石のマイペースを作って行ったわけですが、一方の日本代表はむしろまごついたように居心地が悪いかのようにかえってバタバタとして、回している割りには最後までリズムに乗れていなかったように見えました。余裕があり過ぎて出し手と受け手の呼吸がかえってうまく調整出来ないような感じ。
これはつまり「文化」の差だと思うんですよね、その蓄積の。
トルシエに言われて以来、「”守備の文化”がない」というのは一つの定説のようになっていますが、それを言うなら実はパス回しの文化もない。少なくとも代表チームには。フィニッシュが見えている状態での一気にスピードアップして行くタイプ(この日の序盤などもしかり)の繋ぎならかなり上手いですが、それ自体、ある程度目的的な、すぐには出口が見えない状態でキープするようなそういうものは。
あまりに必要にかられて、ジーコの時はすこーし見えましたけどね。(笑)
まあこれはこの前のコロンビア戦について言ったことの逆ということでもあるでしょう。むしろコロンビアの与える恒常的な圧力があった時は、それに対応する形でピンポイントのタイミングや選択肢を見出すことが出来たんですが、自由にやれと言われても基本的なテンションの高さ、急迫的なタイム感の収め所が見付からない。
この試合のパス回しを評価する人って、なんか基準が低過ぎるんじゃないかと思うんですけど。この相手に持てるのは当たり前じゃないか。
・・・・おーっと随分書いてしまったので、前振りしておいた(?)「吉田U−20との比較」は次戦以降ということに。
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