2007年07月24日 (火) | 編集 |

オフィシャル
そうそう、この世には「冷房病」というものがあるんだということを一年ぶりに思い出している今日この頃。まあ正確には「ドライ病」ですけど。
無理矢理外出する用事を作って、炎天下計1時間くらい歩いて調子を取り戻します。
早く夏終われ。
二日連続サッカー以外のこと書くなんて久しぶり。でも明日は2試合か。
『少女ファイト』
最終的には何とか本編の流れに回収された感じはする”賭けバレー”編ですが、月1のスローペースでやっぱりちょっと遊び過ぎという気が。その割りには祭り切らなかったと思いますし。喘息起こしてんじゃないよ犬神先輩。
まあエスカレートする練とシゲルのラブラブマッサージ描写も含めて(笑)、なんかそういう気分なんでしょうね。表紙も「股間がポイント」だそうです。(巻末)
新登場の隆子のプライドが高いんだか低いんだかよく分からない、ミチルへの不思議な求愛の意味はまだ理解出来ませんが、ミチルの兄シゲルに対する、畏怖に近い敬意を込めた兄弟愛の方は何となく分かる気がします。
多分劣等感を持っていることまで含めて受け入れているんですよね。それだけ心底兄貴の価値を認めている。それの出来るミチルもまたそれなりの人間であるのは確かなんですが、やはりどこかで自分自身を表現・解放はしなくてはならない。
でも、望まないだろうなあ本人、なかなか。案外今の立場が好きで執着している。シゲル自身がミチルを”捨てる”というのがオーソドックスなきっかけですが、このまま行くんじゃないかというか、そこまで描く余裕が今のペースであるのかというのも少し。
『勇午』
中国が日本を捨てる日。やっぱり刺激されますねこういうのは。
なんだかんだアメリカ&アングロサクソン(つまりイギリスですが)以外、友人と呼べる国は無いんじゃないかと根本的な部分では思います。肌の色含めて色々違うところもあるんですが、基本的に善意というか似たナイーヴさを持っているんですよこの3国は。後はまあドイツか、アングロサクソンの源流(つまりゲルマン)の。
『GOLD DASH』
関係無いですが武侠小説を読むようになって、僕にも少しヤンキーみたいな人種の気持ちが分かるようになりました。感情・心意気を中心に生きるとはどういうことか。
『食いタン』
奥さんが殺人犯だったらひどい話だなと思いましたが、これくらいならまあ。
しかし気になる奥さんの巨乳(笑)。実写系よりもあからさまに描き手の「意図」が伝わって来るので、二次元性欲は捕まり出すとなかなか抜けられない。何でもないことにも反応してしまう。
『もやしもん』
前回書き忘れましたが、「フランス(またはご当地)料理以外に無理矢理ワインを”マリアージュ”させるなんて、道楽過ぎて下品だ」という主張は、見ようによっては『神の雫』へのかなり強烈な当てこすりですよね。やる気?!
『描き逃げやんわり』
あら終わっちゃうの。続けてくれて良かったのに。
今回の内容にも正に表れているように、キャラ的にどうも打ち切りやすいような気もしますねこの人は。(笑)
『ZOO KEEPER』
ああ、こういうオチだったからああいうフリだったのね。根本が「教訓」と「不完全燃焼」だから、展開が説明メインだった。
少なくとも犬と猫に関しては、筋として徹底的に人間が責任を持たなくてはいけないと思います。それは場合によっては、人間そのものより優先して。”助ける”というよりも”幸せにする”という感覚で。あんなに求めて来てしかも与える力がこちらにもあるケースなんて、滅多にないですよ。
要するに幼な子に対するのと同じ、と言ってしまうと、少し当たり前に聞こえるかもしれませんが。
しかしどうしてこの人の描く人物はどれもこれもカニみたいな顔の形なんでしょう(笑)。園長にしろ、獣医にしろ、勿論香也にしろ。一方で日本橋さん(『少女ファイト』)なんかはみんなラッキョウみたいだし。(笑)
分かっててもそうなるんでしょうねえ。
『高嶺の花』(前編)
何の話だか。でも面白い。読める。
資質か腕かが、根本的に優れてる人だと思います。最近とみに”情緒”嫌いの(笑)僕でも気にならずに浸れる。
情緒ってねえ、本来気持ち悪いもんなんですよ、こういう。ジクジクした。それを上っ面で綺麗にやろうとするから腹が立つ、退屈する。
”文化”なんかもそうですね。どちらかというと「仕方のない」ものであって、それ自体として特に「良い」ものではない。要は”既成事実”の美名です。(これ前にも言いましたっけ)
暑い。おしまい。
この記事へのコメント
ご無沙汰しております。
マシンも安定稼動して、無茶した後の体調も整ってきたので、さっそく返信、という所です。
で、前回の続き
> ”日本人”や”人間”という大きな枠で(笑)で見た時に
だとするならば、後は自身のバランスの問題なのかもしれません。
…うーん、、個レベルで、はたして、対極を両方持ちつつの総合的には中央寄りがいいのか、片方を極めるだけ極めた方がいいのか…?
少なくとも、ある程度の集合としては前者が正しいと思ってますが。
あ、「大きな枠」という言葉につられて、ふっと、”動物”、という枠で見たときがどうなるか気になったんですが、”人間”は論理的傾向に偏っていそうで、そもそもケモノとでは比較対照にならなさそうな。
> ・・・・カラミをご希望なら(笑)、モーニングの方とかも何かコメントあったらよろしく。
まぁ、希望というか、習慣化しつつある行為への前振りというか。
モーニングはピアノの森しか読まないので、ちょっとコメントしづらいです。
何か読みきりとかで面白いのがあればちょっとコメント書きに来ます。
せっかくですし、ここの「コメント」を本来の意味で少し。
> ミチルへの不思議な求愛の意味
本編読んでいる最中はそんな事はまったく考えていませんでしたが、「練への愛」とかじゃないでしょうか。ってのはインスピレーションですが、何処となく嫉妬故の行動と思えたので。
個人的に今回のイブニングで気になったポイントは2つ。うち一つがタイトルのですね。
もう一つが、遥さんのベッドで手招きシーン。妙にそそられました。というか、かわいい?
2P後の魔王降臨をどうやっつけるかが課題ですが。(w
マシンも安定稼動して、無茶した後の体調も整ってきたので、さっそく返信、という所です。
で、前回の続き
> ”日本人”や”人間”という大きな枠で(笑)で見た時に
だとするならば、後は自身のバランスの問題なのかもしれません。
…うーん、、個レベルで、はたして、対極を両方持ちつつの総合的には中央寄りがいいのか、片方を極めるだけ極めた方がいいのか…?
少なくとも、ある程度の集合としては前者が正しいと思ってますが。
あ、「大きな枠」という言葉につられて、ふっと、”動物”、という枠で見たときがどうなるか気になったんですが、”人間”は論理的傾向に偏っていそうで、そもそもケモノとでは比較対照にならなさそうな。
> ・・・・カラミをご希望なら(笑)、モーニングの方とかも何かコメントあったらよろしく。
まぁ、希望というか、習慣化しつつある行為への前振りというか。
モーニングはピアノの森しか読まないので、ちょっとコメントしづらいです。
何か読みきりとかで面白いのがあればちょっとコメント書きに来ます。
せっかくですし、ここの「コメント」を本来の意味で少し。
> ミチルへの不思議な求愛の意味
本編読んでいる最中はそんな事はまったく考えていませんでしたが、「練への愛」とかじゃないでしょうか。ってのはインスピレーションですが、何処となく嫉妬故の行動と思えたので。
個人的に今回のイブニングで気になったポイントは2つ。うち一つがタイトルのですね。
もう一つが、遥さんのベッドで手招きシーン。妙にそそられました。というか、かわいい?
2P後の魔王降臨をどうやっつけるかが課題ですが。(w
2007/07/26(Thu) 00:31 | URL | そう゜ #SfxLvLC6[ 編集]
確かに満遍なくクオリティは高いけど、インパクト薄いと言えば薄いですもんねモーニングは。前にも言いましたが。
ていうか基本は単行本(単品)の人なのではという感じも。
>対極を両方持ちつつの総合的には中央寄りがいいのか、片方を極めるだけ極めた方がいいのか…?
対極、ではないんだと思うんですけどね。処理水準とその時その時要求される情報としての形式の違い。
ただしそういうことを意識しない、または連続的に捉え(られ)ない人にとっては、両者は敵対する別のものになってしまう。
僕にとっては不定形の自分が温度によって固体になったり気体になったりという、それくらいの感覚かな(笑)。基本は液体?流動体生物?とか。
・・・・結論としては、その人が把握できるなるべく細かくて連続性のあるカテゴリー分けに従って、それぞれに、満遍なく強化するべしということでしょうか。
どちらをというより、両者を俯瞰した感覚・緊張感を持ちつづけることが肝かと。”バランス”自体は結果として生じるもの。
>”動物”、という枠で見たときがどうなるか
まず「直観」と「論理」という区分は、あくまで人間・・・・というよりヒト用のものですね。ヒトの意識の形式や脳の構造や生物的条件の下での。
ただそれでも類似性や進化的な連続性を見ることは可能で、例えばヒトにおける「論理」や「理性」のある部分は、動物における「本能」行動の形式性・プログラム性を起源としているのではないかと僕は考えています。
つまりそれぞれの動物が生きて行く為の、それぞれの「1+1」に対するそれぞれの「2」という条件付けられた反応ということ。
「本能」も「論理・理性」も共に生存の為の種としての武器でありまたある意味でのその種特有の限界であるとすれば、「直観」はその余剰部分というか自由裁量部分というか。それが人間は圧倒的に大きい。
それは適応しようとする環境や条件の無限性によるので、だから犬や猫など人間という特殊で複雑な「環境」に適応することを強いられて来た動物は、野生動物に比べて非常にクリエイティヴな脳の使い方を、少なくとも進化のある時期にやったのではないか。
まあ実験用の動物なども、与える刺激によってかなり幅のある反応をしますよね。
それを一般化したり応用力のレベルに高めて固定できるかどうかが、ヒトと動物の脳の性能の違いというか。ヒトの個体どうしにもそれはあるかも知れませんが。(笑)
・・・・ちょっと「論理」の問題と「条件付け」の問題がごちゃごちゃで分かり難いかな。つまり論理のある部分は単なる条件付けだということですか。
ていうか基本は単行本(単品)の人なのではという感じも。
>対極を両方持ちつつの総合的には中央寄りがいいのか、片方を極めるだけ極めた方がいいのか…?
対極、ではないんだと思うんですけどね。処理水準とその時その時要求される情報としての形式の違い。
ただしそういうことを意識しない、または連続的に捉え(られ)ない人にとっては、両者は敵対する別のものになってしまう。
僕にとっては不定形の自分が温度によって固体になったり気体になったりという、それくらいの感覚かな(笑)。基本は液体?流動体生物?とか。
・・・・結論としては、その人が把握できるなるべく細かくて連続性のあるカテゴリー分けに従って、それぞれに、満遍なく強化するべしということでしょうか。
どちらをというより、両者を俯瞰した感覚・緊張感を持ちつづけることが肝かと。”バランス”自体は結果として生じるもの。
>”動物”、という枠で見たときがどうなるか
まず「直観」と「論理」という区分は、あくまで人間・・・・というよりヒト用のものですね。ヒトの意識の形式や脳の構造や生物的条件の下での。
ただそれでも類似性や進化的な連続性を見ることは可能で、例えばヒトにおける「論理」や「理性」のある部分は、動物における「本能」行動の形式性・プログラム性を起源としているのではないかと僕は考えています。
つまりそれぞれの動物が生きて行く為の、それぞれの「1+1」に対するそれぞれの「2」という条件付けられた反応ということ。
「本能」も「論理・理性」も共に生存の為の種としての武器でありまたある意味でのその種特有の限界であるとすれば、「直観」はその余剰部分というか自由裁量部分というか。それが人間は圧倒的に大きい。
それは適応しようとする環境や条件の無限性によるので、だから犬や猫など人間という特殊で複雑な「環境」に適応することを強いられて来た動物は、野生動物に比べて非常にクリエイティヴな脳の使い方を、少なくとも進化のある時期にやったのではないか。
まあ実験用の動物なども、与える刺激によってかなり幅のある反応をしますよね。
それを一般化したり応用力のレベルに高めて固定できるかどうかが、ヒトと動物の脳の性能の違いというか。ヒトの個体どうしにもそれはあるかも知れませんが。(笑)
・・・・ちょっと「論理」の問題と「条件付け」の問題がごちゃごちゃで分かり難いかな。つまり論理のある部分は単なる条件付けだということですか。
で、読むのが増えてレギュラー化した、という感じですね。
モーニングは読む雑誌を増やしたくなかった事と、「読むなら最初から、順番に」な縛り?もあって、なるべくスルーしていたらほとんど読まなくなった、という感じで。
> 対極、ではないんだと思うんですけどね。
敵対させるつもりは無いんですが。この辺は軸のとり方の問題な筈。
たとえば、"悲しみ"←→"楽しみ"という軸のとり方をするか、"感情"←→"論理"というとり方をするか、といった。
判断するときなどに、"感情"50%、"論理"50%の総合ニュートラル?が理想なんじゃないかなぁと思っているだけでして。(この例だと、感情を元に論理を構築している場合もあり、かえってややこしく話になっている気もしますが)
そういう意味では、偏るよりかはバランス良く、なのですが、ちょっと不安定に寄り気味かなぁとも思えた物で。
「不安定」辺りをもう少し書くと、「対極を両方持ちつつの総合的には中央寄り」だと柔軟性はあれど移り気っぽく不安定に思え、「片方を極めるだけ極めた方」だと頑固なれどどっさり構える感じから安定感があるように思えた訳です。
何かを表現するときに、文章を用いるか図や絵を用いるかという視点ではなく、文章を補うように図や絵を配置したりまたその逆を行ったりした場合、片方の習熟度が低ければその効果が薄れそう(もしくは、表現力が低い方に落ち込む)、という視点からの"バランス"記述ですね。
> 「本能」も「論理・理性」も共に生存の為の種としての武器でありまたある意味でのその種特有の限界であるとすれば、「直観」はその余剰部分というか自由裁量部分というか。それが人間は圧倒的に大きい。
・・・なんか、ここまで来て新たな概念というか。前者が一方向を示すベクトルとすれば、後者はカオス的な、ベクトルに対してならば平面というか。
見方の問題で両方が成立しうるか、と思いましたが、直観がすべての論理を内包しているとは思え無いので、こっち側の印象が間違いなのかなぁ。
眠さで考えがまとまらず、どこかしら抜けがある内容ですが、すでに三夜ほど繰り返しておりまぁいいや、と。
犬や猫に対し、カラスも絡めてみると面白そうだなぁとか思ってたんですけどね。
モーニングは読む雑誌を増やしたくなかった事と、「読むなら最初から、順番に」な縛り?もあって、なるべくスルーしていたらほとんど読まなくなった、という感じで。
> 対極、ではないんだと思うんですけどね。
敵対させるつもりは無いんですが。この辺は軸のとり方の問題な筈。
たとえば、"悲しみ"←→"楽しみ"という軸のとり方をするか、"感情"←→"論理"というとり方をするか、といった。
判断するときなどに、"感情"50%、"論理"50%の総合ニュートラル?が理想なんじゃないかなぁと思っているだけでして。(この例だと、感情を元に論理を構築している場合もあり、かえってややこしく話になっている気もしますが)
そういう意味では、偏るよりかはバランス良く、なのですが、ちょっと不安定に寄り気味かなぁとも思えた物で。
「不安定」辺りをもう少し書くと、「対極を両方持ちつつの総合的には中央寄り」だと柔軟性はあれど移り気っぽく不安定に思え、「片方を極めるだけ極めた方」だと頑固なれどどっさり構える感じから安定感があるように思えた訳です。
何かを表現するときに、文章を用いるか図や絵を用いるかという視点ではなく、文章を補うように図や絵を配置したりまたその逆を行ったりした場合、片方の習熟度が低ければその効果が薄れそう(もしくは、表現力が低い方に落ち込む)、という視点からの"バランス"記述ですね。
> 「本能」も「論理・理性」も共に生存の為の種としての武器でありまたある意味でのその種特有の限界であるとすれば、「直観」はその余剰部分というか自由裁量部分というか。それが人間は圧倒的に大きい。
・・・なんか、ここまで来て新たな概念というか。前者が一方向を示すベクトルとすれば、後者はカオス的な、ベクトルに対してならば平面というか。
見方の問題で両方が成立しうるか、と思いましたが、直観がすべての論理を内包しているとは思え無いので、こっち側の印象が間違いなのかなぁ。
眠さで考えがまとまらず、どこかしら抜けがある内容ですが、すでに三夜ほど繰り返しておりまぁいいや、と。
犬や猫に対し、カラスも絡めてみると面白そうだなぁとか思ってたんですけどね。
2007/07/31(Tue) 02:59 | URL | そう゜ #SfxLvLC6[ 編集]
前提としている枠に余り意味が感じられません。
>"感情"50%、"論理"50%
という言い方は、当然合わせて"100%"になるある固定的な「全体」を想定しているわけでしょうけど、そんなものがあるのかと。知っているのかと。あるいは(例えば)"感情"と"論理"は、そういう単純に牽制し合う関係にあるのか。
「感情」と「論理」という概念自体が一つの(意識の便宜の為の)抽象なのに、そこに更に空想の数学的関係という抽象をかぶせてしまっているように思いますが。
次の嘘によって前の嘘が嘘であることを忘れさせてしまう、危険な思考だと思います。
つまりは”偏り”も、”バランス”も、自分で勝手に判断しているだけで、実態とはあまり関係ないんじゃないかということです。
「感情」でも「論理」でも、それぞれにベストを尽くす。結果生じるのがそのケースケースの必然的な「バランス」であり、それによってその時見えているのがそのケースの「全体」。見えもしない「全体」を予め計算するのではなくて、現れたものをその都度「全体」として包括して行くという作業を、言わば永遠に続けて行くわけです。神ならぬ身の人間としては。
少なくとも哲学的にはね。日常的対他人的には、どこかで単純化する必要はあるでしょうけど。
>見方の問題で両方が成立しうるか、と思いましたが、直観がすべての論理を内包しているとは思え無いので、こっち側の印象が間違いなのかなぁ。
ちょっとここは何回読んでもよく分かりませんでした。(笑)
>"感情"50%、"論理"50%
という言い方は、当然合わせて"100%"になるある固定的な「全体」を想定しているわけでしょうけど、そんなものがあるのかと。知っているのかと。あるいは(例えば)"感情"と"論理"は、そういう単純に牽制し合う関係にあるのか。
「感情」と「論理」という概念自体が一つの(意識の便宜の為の)抽象なのに、そこに更に空想の数学的関係という抽象をかぶせてしまっているように思いますが。
次の嘘によって前の嘘が嘘であることを忘れさせてしまう、危険な思考だと思います。
つまりは”偏り”も、”バランス”も、自分で勝手に判断しているだけで、実態とはあまり関係ないんじゃないかということです。
「感情」でも「論理」でも、それぞれにベストを尽くす。結果生じるのがそのケースケースの必然的な「バランス」であり、それによってその時見えているのがそのケースの「全体」。見えもしない「全体」を予め計算するのではなくて、現れたものをその都度「全体」として包括して行くという作業を、言わば永遠に続けて行くわけです。神ならぬ身の人間としては。
少なくとも哲学的にはね。日常的対他人的には、どこかで単純化する必要はあるでしょうけど。
>見方の問題で両方が成立しうるか、と思いましたが、直観がすべての論理を内包しているとは思え無いので、こっち側の印象が間違いなのかなぁ。
ちょっとここは何回読んでもよく分かりませんでした。(笑)
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