2007年08月28日 (火) | 編集 |

オフィシャル
イブニングが出るということは第4週目ということで、8月も終わりですね。
エアコンではなくて網戸からの夜風で涼めるようになると最高で、ここから開けてられなくなる11月の途中くらいまでが好きな季節。
大学生の頃は平気で11月にTシャツ1枚で歩き回っていたものですが、さすがに年取ると後が怖いからやらない。(笑)
『ロッキー』と『のこりび』をリストラして、イブニングも衣替えの季節?
『GOLD DASH』
いつのまにかすっかり楽しみな作品に。
ゼッケン渡す係のお姉さんまでヤンキー髪型なのはいかがなものかと思いますが(笑)、狭いなりに嘘のない、安定した&善良な情緒の世界が心地良い。
このままトントンとストレスなくお伽話的に進んでもいいかという気分ですが、やはりこの先は山あり谷ありなんでしょうね。でもそんなに嫌な話にはならない、嫌な人は出て来ないような気がします。
ある意味心配(笑)した「巨乳」と「ランナー」の相乗効果は、意外と控え目というか自然な感じで流されていますね。あくまで「脂肪」と「筋肉」でしかないというか。
『ヤング島耕作』
新登場の”綿貫さん”は、大別すればやはり「ツリ目」ではありますが、割りと柔らかいというか中間的というか、この人にしては珍しいタイプの顔。少しかわいい。
・・・・それだけです。(笑)
『ハタキ』
それなりに実績のある人(野中英次)なので期待してはいますが、2話連続新連載の初回は微妙。
あんまり力が入ってるようには。
とりあえず”ストーリー漫画”なんでしょうか(笑)。「ハタキ」が成長して口を利いたり?
お馴染みの”上向き横顔”の羅列も、そろそろ画力向上して欲しいような気になって来ました。
『K2』
えっ・・・・。病気治ってもフォーク落ちるの?説明は?
ジレンマの処理に注目した僕の立場は?
『食いタン』
先週のBS2「マンガノゲンバ」に出て来た寺沢大介さんは、ある意味予想通りですがとても理知的というか意識的というか確信犯で、”料理漫画”というジャンルに対する思い切った見切りのもとに、あえてあの身も蓋も無い大仰なリアクションを登場人物にとらせているということでした。
一種の様式化ですね、島本和彦さんの”熱情”や”圧”みたいなものとはむしろ真逆。効果としては似たようなものになってますけど。漫画は漫画だよと、カッコつけてもしょうがないよと。
ちなみに「『食いタン』はほとんど料理漫画とは言い難い」と作者の弁。逆に言うと料理漫画そのものにはもうあまり興味がないというか、限界を感じているというか。・・・・どっちかというと”大食い漫画”ですかね。(笑)
『少女ファイト』
実は主人公(または最も興味深い人物)は小田切のような気が。次がシゲル。
練はなんか、プレーヤーとしては魅力的だけど、基本的にはいい気なもんというか、ぐだぐだニュータイプというか。(笑)
どのみち”バレーボール”そのものをハードに追ってナンボだと思います、この作品は。新たな超絶プレーヤー(由良木姉)の登場には期待。・・・・にしてもなんかとっ散らかってるなあ。
ちなみに日本橋さん自身のパーソナリティは、割りと小田切に重なります。地味で冴えないけど優れた洞察力で、かっこいい友人たちを心から応援しながら見守る感じ。(そして漫画に描く。)
『まんがバカ幸福論』
なるほど、この程度のストック/リソースしか持っていない漫画家に対してなら、上からガンガン行くしか扱いようがないか。ならば逆になぜそんな奴に描かせるのかという感じもしますが、それでも才能は才能ということなのかな。あるいは「編集・批評の才能と創作の才能は全く別もの」というか。
女の子が裸に見えないのは絵が下手なのか(店側の?)狙いなのか。それにしてもここまでの初心者なら、むしろ”擬似恋愛”度の高いイメクラ/ヘルスの方がいいように思うんですが、これは編集者の趣味か?(笑)
「そりゃキスは勃ちますよ」は確かに”いいネーム”。
『ZOOKEEPER』
「私 この仕事好きだ」
「一生向かいあうものを見つけた人間を しがらみで繋ぐような真似はすまい」
久しぶりの名セリフ。
特に後者について。仮に”家族”が「帰るべき場所」であるなら、そう自負するなら、逆に言えば「帰る」必要もない時に帰ることを求めるのはおかしい。一生帰って来ないくらいでちょうどいい。そしてもし帰って来たなら、それが10年ぶりだろうと20年ぶりだろうと、当たり前のように迎えればいい。不義理・不人情を責めるなんてとんでもない。
これは”恋人”や”友人”でも同じですね。「追う」というのは結局相手を認めていないということです。自分から離れる自由も、行った先で”間違い”を犯す自由も、相手を認めるのなら認めなくてはならない。
・・・・まあどのみち「愛」と「敬意」(尊重)というのは別のもの、ほとんど対立する事柄で、それが何となく「良いもの」として一緒くたにされているというのが根本的な問題なんですが。
ちなみにこの二つがあまり矛盾しないのが動物との関係、動物に対して抱く感情の面白いところ。根本的にどうもならんですからね、アイツらは。”認める”以外に付き合いようがない。でも同時にはかなく弱い。
この記事へのコメント
ご無沙汰しております。
マシンの調子がようやく安定してまいりました。今年の夏は電源トラブルが頻発しているような・・・。まぁ、トラブル発生した電源はなぜかメーカーが同じでしたが。(w
ということで、修理他で『ウミショー』はまだ見れていません。まぁ、来週くらいにやっつけよう。
> だから”直観が論理を内包”しているのではなくて、直観の上に論理が被さっている
こうしてみてみると、直観をより高度化したものが論理な感じですね。
ま、それでいて、より単純化したものともとれて。
してみると、なんだかアナログとデジタルの関係に近い気がしてきたな。
> 「一生向かいあうものを見つけた人間を しがらみで繋ぐような真似はすまい」
一通り読んでいたはずなのに、何処にそんな言葉が載っていたかと再度見てみたら、確かに。
何か脳内から抜け落ちていた模様。
なんだんだろう?自分にとってなにがしかの不都合な所があのシーンにあったとでも?
ま、それはともかく、そんな行動が出来るべく精進したいところではあります。
> 「愛」と「敬意」(尊重)というのは別のもの、ほとんど対立する事柄で、それが何となく「良いもの」として一緒くたにされている
「愛」の本質は本来醜いものな筈で、それでも、まったく持ち合わせていないとなると人としてどうなの?って所から必要とされてしまっている、というところではないでしょうか。後は「良いもの」と仕上げた物語が多いという事か。
マシンの調子がようやく安定してまいりました。今年の夏は電源トラブルが頻発しているような・・・。まぁ、トラブル発生した電源はなぜかメーカーが同じでしたが。(w
ということで、修理他で『ウミショー』はまだ見れていません。まぁ、来週くらいにやっつけよう。
> だから”直観が論理を内包”しているのではなくて、直観の上に論理が被さっている
こうしてみてみると、直観をより高度化したものが論理な感じですね。
ま、それでいて、より単純化したものともとれて。
してみると、なんだかアナログとデジタルの関係に近い気がしてきたな。
> 「一生向かいあうものを見つけた人間を しがらみで繋ぐような真似はすまい」
一通り読んでいたはずなのに、何処にそんな言葉が載っていたかと再度見てみたら、確かに。
何か脳内から抜け落ちていた模様。
なんだんだろう?自分にとってなにがしかの不都合な所があのシーンにあったとでも?
ま、それはともかく、そんな行動が出来るべく精進したいところではあります。
> 「愛」と「敬意」(尊重)というのは別のもの、ほとんど対立する事柄で、それが何となく「良いもの」として一緒くたにされている
「愛」の本質は本来醜いものな筈で、それでも、まったく持ち合わせていないとなると人としてどうなの?って所から必要とされてしまっている、というところではないでしょうか。後は「良いもの」と仕上げた物語が多いという事か。
2007/08/29(Wed) 23:03 | URL | そう゜ #SfxLvLC6[ 編集]
せっかくだから(?)「直観」と「論理」の話にからめますと(笑)、要するに「愛」も「敬意」も所詮言葉であって、ある程度完成された一つの論理・命題として把握されているわけですよね。
ではだから抽象で空虚かというとそんなこともなくて、何らか元となるもの、「直観」のようなものは実在するわけですね。
ただそれをどう「論理」化するのか、文化的社会通念的に構築・固定するかはかなりケースバイケースなわけで、そのたかだか”ケース”を一字一句真に受ける、絶対化する、”真理”として固定しようとするところに混乱や争いや圧制が生まれるわけですね。・・・・宗教のように。
「宗教」というのはほとんど比喩ではなくて、『恋愛』も『親子愛』も、間違いなく一種の擬似宗教であって、それも宗教であることが気付かれない分、「最も成功した宗教」だとすら言えるかもしれない。
ちなみに前者はその”儀礼”性が、後者は”絶対”性が特に出色。
話戻してだから言葉/概念としての「愛」の相対性と、とはいえ何らか根拠はあるという二つのレベルが見えているわけですが、
>まったく持ち合わせていないとなると人としてどうなの?
というのは前者のレベルに、言わば当然の疑問を抱いた人に対して向けられる批判かもしれない。
しかし逆によく見られるのは、前者のレベルへの疑問がそのまま無雑作に後者のレベルの否定に繋がってしまうことで。それも意識して、本当に「否定」しているのなら別にいいんですが、可能性を検討する過程もなく、機械的にやってしまっている場合。
この状態だと、実は盲信している人と大して変わらないんですね。肯定側か否定側かというだけ。
人間が人間である限り最終的には言葉として表現せざるを得ないんですが、その際に1回言葉以前のレベルに遡って、その状態を感じて、改めて「愛」なら「愛」という概念を”作る”くらいのつもりでいられたらいいんだろうと思いますが。
その過程で”醜い”か”美しい”かといった意味付けの問題も、自然に落ち着くところに落ち着くと思うんですけど。文脈次第というか。
ではだから抽象で空虚かというとそんなこともなくて、何らか元となるもの、「直観」のようなものは実在するわけですね。
ただそれをどう「論理」化するのか、文化的社会通念的に構築・固定するかはかなりケースバイケースなわけで、そのたかだか”ケース”を一字一句真に受ける、絶対化する、”真理”として固定しようとするところに混乱や争いや圧制が生まれるわけですね。・・・・宗教のように。
「宗教」というのはほとんど比喩ではなくて、『恋愛』も『親子愛』も、間違いなく一種の擬似宗教であって、それも宗教であることが気付かれない分、「最も成功した宗教」だとすら言えるかもしれない。
ちなみに前者はその”儀礼”性が、後者は”絶対”性が特に出色。
話戻してだから言葉/概念としての「愛」の相対性と、とはいえ何らか根拠はあるという二つのレベルが見えているわけですが、
>まったく持ち合わせていないとなると人としてどうなの?
というのは前者のレベルに、言わば当然の疑問を抱いた人に対して向けられる批判かもしれない。
しかし逆によく見られるのは、前者のレベルへの疑問がそのまま無雑作に後者のレベルの否定に繋がってしまうことで。それも意識して、本当に「否定」しているのなら別にいいんですが、可能性を検討する過程もなく、機械的にやってしまっている場合。
この状態だと、実は盲信している人と大して変わらないんですね。肯定側か否定側かというだけ。
人間が人間である限り最終的には言葉として表現せざるを得ないんですが、その際に1回言葉以前のレベルに遡って、その状態を感じて、改めて「愛」なら「愛」という概念を”作る”くらいのつもりでいられたらいいんだろうと思いますが。
その過程で”醜い”か”美しい”かといった意味付けの問題も、自然に落ち着くところに落ち着くと思うんですけど。文脈次第というか。
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