2007年10月02日 (火) | 編集 |
![]() | ヒロイック・エイジ III 能戸隆.冲方丁.平井久司 (2007/09/05) KINGRECORDS.CO.,LTD(K)(D) この商品の詳細を見る |
覚書。(1)。
『ヒロイック・エイジ』における少年少女
この作品に対する僕のリアルタイムの感想を追ってみると、
「人物が子供っぽい」「 「ノアの箱舟」と「15少年漂流記」を合わせた感じ」(5/5)→
「単なる甘さではなくて少年少女的な、しかしそれなりに骨太の理想主義」(5/26)→
「良い意味でナイーヴ」「好感度の高いホワイトベース/ニュータイプ」(8/30)
という感じ。
最初に”子供っぽさ”を難点として挙げ、次に思い直してそれをその深層にあるもので擁護し、最後には直接肯定という経路?(笑)
ことほどさように事実としてエイジ、ディアネイラ、イオラオスを筆頭に、『ヒロイック・エイジ』では少年少女たちが血で血を洗う現実の世界で中心的な活躍をするわけですが、しかし同様のストーリーである『ガンダム』や『エヴァン』とは、少なからぬ違いがあります。
それは
1.大人は大人で存在するが、それとの衝突や葛藤はほぼ無い。
2.”少年少女”は純真ではあるが”未熟”ではなく、それ自体としてある意味完成されている。
というようなことです。
言い換えると問題になるのはあくまでニュータイプ的なそれを含めた「能力」そのもので、その判断の前に大人も子供もない、大人だからといって子供を侮ったりしないし、勿論逆に子供が大人とその作る世界に対して無闇に反抗心を燃やしたりはしない。すんなり共同で問題に向かう。
それどころか”ニュータイプ”や”少年少女”の特有のナイーヴな感受性や理想主義も、弱さや悩みや障害になることなく、ほぼ純粋な美質として大人に尊重・尊敬され、それの現実への適用に(こちらは)大人の責任感でもって全面的なサポートを受ける。
勿論これは主に問題となる”少年少女”が、英雄の種族の超絶的な戦闘能力を宿す「ノドス」であるエイジや、テレパス能力的にも人格的にもほとんど聖女的存在のディアネイラであるという理由が、直接的には大きいのだと思います。
しかしその他のイオラオスらの普通の人間である少年少女も特にそういう葛藤を抱えている様子は見えず、すんなり1人前として扱われ、また彼らの方も時に年齢相応の稚気は稚気として発揮しつつ、大人的な責務を粛々と引き受けます。
・・・・うーん、これでもまだ説明的か。はっきり言ってしまうと、作品内の個別の事情はともかくとして、この作品は最初からそういう構造・そういうメンタリティの作品なんですよね。ある意味の予定調和で、”事情”は原因であるよりも結果である、そうした大人と子供の関係を実現する為の単なる道具立てであるという感じ。
公平に言って出来過ぎの部分はあるとは思うんですが、それを許容させてしまうエイジやディアネイラの純粋さや高邁さの輝かしい魅力と、出現した大人と子供の関係の心地良さ。子供のサポートに専心する大人たち、モビードやニルバールの幸福感と誇りと。
当然「ドラマ」ですから邪魔したり見苦しい振る舞いをする人も出て来ますが、そのメイン(ディアネイラの兄たち)は定番の”オールドタイプ”側ではなく、どちらかというと子供側の層に属します。
年齢ではなく、後は個人の資質・個人差だと、そういう話の格好。
そもそも”大人”は居るのか、または要るのかという宇宙的問題?
ただこうしたあえて意識的に大人と子供の関係を描いている地球人側の場面を除けば、この宇宙規模の種族間戦争ストーリーにおいて大人の存在感は稀薄というか、普遍性が無いというか。
・・・・つまりそもそもの宿敵であり、少なくとも科学力や精神感応力において明らかに地球人類の遥か先に位置する”銀の種族”や、エイジ以外の4人のノドスたちの人相風体(キャラクターデザインとも言う・笑)は、大人とも子供ともつかない、あえて言えばだいたい少年後期〜青年初期くらいの印象で統一されていて(”パエトー・オー”以下参照)、こうして見ると宇宙にいわゆるむさ苦しい(笑)”大人”というカテゴリーは、地球にしか存在しないのではないかという風に見えます。
その硬直した特殊な類型を後生大事に抱え込んでいるところに、それによる過剰なエゴや征服欲や破壊欲の飽くなき拡張に、”鉄の種族”の鉄たる部分があり、それを危険視する”銀の種族”による絶滅命令の理由がある(これは物語的事実)のであると。鉄の種族の大人たちが子供のサポートに専心するのも、進化的奇形である自分たち大人風情(?)が、未だ王道に留まる少年少女の方たちをお助けするのは当然であると。
・・・・まあ地球の(笑)歴史的研究によると、どちらかというと「子供」という概念の方が後年発明された人工的なもののようですから(アリエス)、大人がというよりも大人と子供の区別が、あるいは男権主義的「人間」概念がどうたらこうたらとかいう、そっちの説明の方がいいかもしれませんがそれはともかく。
作者(沖方丁)がこうしたことを論理的に訴えているとは僕は思わない/感じないですが、ただキャラクターデザインに反映される、また上段で述べた大人と子供の独特の関係ヴィジョンの根底に、そうした感性的把握があるのは確かだと思います。
理論までは行かない、資質の問題として。「述べて」いるのは飽くまでそれぞれの登場人物が語る言葉としての問題意識で、誰が(大人か子供か)語っているかは直接的には焦点化されていないと思いますが。
ニュータイプの感性的全面化
ようやく本題。
このようにすんなりとかつ宇宙的に”非”大人、それも多くは超感覚的知覚の類を備え、かつ少年少女的な理想主義や潔癖性を一心に行動原理として回転させるキャラたちが主導する世界・・・・しかもその世界そのものは”大人”や”オールドタイプ”ともそのまま共有する、本物のハードな世界であってファンタジーでもモラトリアムでもないという作品世界は、優れてニュータイプ仕様の世界であると、アニメ史的には言えると思います。(言う必要があればですが)
そして勿論、ガンダムやエヴァンでは大人やオールドタイプ側から、あるいはその価値観から抜け出られないまま不器用にor見世物的に描かれていたそれは、ここでは単なる現実としてあるいはその現実の担い手である”ニュータイプ”たちの目腺で、堂々と自然に描かれています。・・・・あんまり自然なので、その真価に気付くのにえらく時間がかかったくらいです。(笑)
更に言えばこれは非常に感性的な世界です。
見てない人に直感的に説明するとすれば、例えばゼータでカミーユがゼータガンダムの機体を依り代に敵のビームもはね付ける異様な力を発揮した時、そして「生命は宇宙(そら)を支える大切なものなんだ。そんな簡単に失ってはいけないんだ」と絶叫した時、”ニュータイプ”が確かに世界を把握していると感じられる時、あの激しく濃密な感覚をより静かに安定的に、満遍なく、宇宙に作品世界に常に満たしている、そんな感じです。
その中で喜びも、それから後で述べる戦いの哀しみも、より鋭敏で繊細なものとして見る者に迫る・・・・というより染み入って来る。涙腺緩みっ放し。(笑)
具体的には正真正銘の聖少女ディアネイラの、網のように膜のように、宇宙空間に延べられたテレパス感覚と、敵にも味方にも、時には星々や宇宙全体にすら語り掛けているように聞こえる静かで力強い呼びかけの声。それを基本トーンとする世界。
ゼータのそれにしろディアネイラにしろ、そんな反則的に万能/至善なものをベースに、ちゃんと起伏のある1本のストーリーを作れるのかいなという感じですが、作れるんですね。
まあ正に「感性」で、多分に天然なものによっているんだと思いますが。原作者なり監督なり、中心的スタッフの誰かの。”資質”というやつ。
かなり気恥ずかしいのは確かですし(笑)、入れなければそれまでというところもあります。僕も最初は入れませんでしたし。普通に見れば”ファンタジーSF”とかになっちゃうのかな?あるいはジュヴナイル。
でも確かに、提唱者さえさほど真面目に提唱していないかもしれない(笑)”ニュータイプ”たち、彼らが本当に世界を担ったら、こんな感じになるのかなという、1つの可能性を感じさせてくれた作品でした。
・・・・つまりそもそもの宿敵であり、少なくとも科学力や精神感応力において明らかに地球人類の遥か先に位置する”銀の種族”や、エイジ以外の4人のノドスたちの人相風体(キャラクターデザインとも言う・笑)は、大人とも子供ともつかない、あえて言えばだいたい少年後期〜青年初期くらいの印象で統一されていて(”パエトー・オー”以下参照)、こうして見ると宇宙にいわゆるむさ苦しい(笑)”大人”というカテゴリーは、地球にしか存在しないのではないかという風に見えます。
その硬直した特殊な類型を後生大事に抱え込んでいるところに、それによる過剰なエゴや征服欲や破壊欲の飽くなき拡張に、”鉄の種族”の鉄たる部分があり、それを危険視する”銀の種族”による絶滅命令の理由がある(これは物語的事実)のであると。鉄の種族の大人たちが子供のサポートに専心するのも、進化的奇形である自分たち大人風情(?)が、未だ王道に留まる少年少女の方たちをお助けするのは当然であると。
・・・・まあ地球の(笑)歴史的研究によると、どちらかというと「子供」という概念の方が後年発明された人工的なもののようですから(アリエス)、大人がというよりも大人と子供の区別が、あるいは男権主義的「人間」概念がどうたらこうたらとかいう、そっちの説明の方がいいかもしれませんがそれはともかく。
作者(沖方丁)がこうしたことを論理的に訴えているとは僕は思わない/感じないですが、ただキャラクターデザインに反映される、また上段で述べた大人と子供の独特の関係ヴィジョンの根底に、そうした感性的把握があるのは確かだと思います。
理論までは行かない、資質の問題として。「述べて」いるのは飽くまでそれぞれの登場人物が語る言葉としての問題意識で、誰が(大人か子供か)語っているかは直接的には焦点化されていないと思いますが。
ニュータイプの感性的全面化
ようやく本題。
このようにすんなりとかつ宇宙的に”非”大人、それも多くは超感覚的知覚の類を備え、かつ少年少女的な理想主義や潔癖性を一心に行動原理として回転させるキャラたちが主導する世界・・・・しかもその世界そのものは”大人”や”オールドタイプ”ともそのまま共有する、本物のハードな世界であってファンタジーでもモラトリアムでもないという作品世界は、優れてニュータイプ仕様の世界であると、アニメ史的には言えると思います。(言う必要があればですが)
そして勿論、ガンダムやエヴァンでは大人やオールドタイプ側から、あるいはその価値観から抜け出られないまま不器用にor見世物的に描かれていたそれは、ここでは単なる現実としてあるいはその現実の担い手である”ニュータイプ”たちの目腺で、堂々と自然に描かれています。・・・・あんまり自然なので、その真価に気付くのにえらく時間がかかったくらいです。(笑)
更に言えばこれは非常に感性的な世界です。
見てない人に直感的に説明するとすれば、例えばゼータでカミーユがゼータガンダムの機体を依り代に敵のビームもはね付ける異様な力を発揮した時、そして「生命は宇宙(そら)を支える大切なものなんだ。そんな簡単に失ってはいけないんだ」と絶叫した時、”ニュータイプ”が確かに世界を把握していると感じられる時、あの激しく濃密な感覚をより静かに安定的に、満遍なく、宇宙に作品世界に常に満たしている、そんな感じです。
その中で喜びも、それから後で述べる戦いの哀しみも、より鋭敏で繊細なものとして見る者に迫る・・・・というより染み入って来る。涙腺緩みっ放し。(笑)
具体的には正真正銘の聖少女ディアネイラの、網のように膜のように、宇宙空間に延べられたテレパス感覚と、敵にも味方にも、時には星々や宇宙全体にすら語り掛けているように聞こえる静かで力強い呼びかけの声。それを基本トーンとする世界。
ゼータのそれにしろディアネイラにしろ、そんな反則的に万能/至善なものをベースに、ちゃんと起伏のある1本のストーリーを作れるのかいなという感じですが、作れるんですね。
まあ正に「感性」で、多分に天然なものによっているんだと思いますが。原作者なり監督なり、中心的スタッフの誰かの。”資質”というやつ。
かなり気恥ずかしいのは確かですし(笑)、入れなければそれまでというところもあります。僕も最初は入れませんでしたし。普通に見れば”ファンタジーSF”とかになっちゃうのかな?あるいはジュヴナイル。
でも確かに、提唱者さえさほど真面目に提唱していないかもしれない(笑)”ニュータイプ”たち、彼らが本当に世界を担ったら、こんな感じになるのかなという、1つの可能性を感じさせてくれた作品でした。
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