2006年08月03日 (木) | 編集 |
前回。
改めて読み返してみて、自分で自分に感想文。(笑)
こうした新しい同性愛研究から、現在及び近未来における同性愛にまつわるどんな風景、ヴィジョンが見えてくるのか。
結論から言うと、意外かもしれませんがむしろ”異性愛絶対主義”の再確立みたいなものが僕には見えて来ます。反動的?
なぜ”意外”なのか、なぜ”反動的”なのか、そこらへんについて再び補助線。
同性愛の風景、社会的地位の人類史的変遷。(超簡略版)
1.自然的異性愛絶対主義の時代
2.文化的性愛相対主義、または寛容主義の時代
”歴史”とはとても言えない精度ですが、おお〜まかに言うとこういう風に時代は流れて来て、今は2.の最中なわけです、少なくとも広い意味での「近代社会」に至った地域においては。程度の差はあれ。強烈に生理的で普遍的な事柄なので、事実上”歴史”などないも同然と言えなくもないんですが、あえて言うとすると。
1.は同性愛に対する自然的観点から当然の違和感・嫌悪感を背景にし、それをはっきり”罪”と断ずるキリスト教やイスラム教を象徴とする、時間的空間的に大部分の人類社会のあり方。
2.は生理的な部分は仕方がないにしても、基本的には個人の内面生活であるし、現実に他人に害意を持つわけでもなく生きている人たちの生活をなるべくしやすくしようという文明人的寛容性、及びあらゆる「価値」や人間行動の「形」に極力相対的個別的にアプローチしようとする、大きな現代的思想風潮の一つとして同性愛の権利確保に努める流れ。究極的には同性愛も異性愛も、あらゆる性愛の形の同等な一つの可能性でしかないとする。
そこでなぜ新しい同性愛研究が、一見すると1.に逆戻りしているかのようなことを僕が言うかですが。要点は2つ。
(1)同性愛はあくまで異常である。(”病気”である。)
(2)同性愛は異性愛の変形した現れである。
こういう方向を科学(者)は指しているように見えるわけです。
(1)
同性愛者は教育やら人生経験やら、まとめて「文化的」「心理的」な類の要因によって生まれたりはしない。生物・生理的な、もっとはっきりした背景や原因を持った現象/存在である。単なる「価値観」の問題ではない。
具体的には恐らく発達早期に生じた、ホルモン異常の影響を主たる原因とするものである。本人的には直接の苦痛や体調不良、増してや生命の危機がもたらされるわけではないので、いわゆる”病気”とまで言う必要があるかどうかは別ですが。
(2)
マイケル・ベイリー博士の”異性化している”(研究1の項)という表現が最も端的ですが。
例えばある男性同性愛者が男性を「愛して」いる時、それは本当に男として男を愛しているのではなくて、基本的(遺伝的)には男性であるその男性同性愛者の、部分的に(脳の)”女性化”した部分が性愛の対象として男性を選んでいるのである。つまり同性愛が”同性”愛なのは見かけだけで、その内実は異性愛なのである。
・・・・これが僕が見て取った現代の「科学的な」同性愛観ですが。
次にこれをもう少し社会的観点でとらえ直してみます。(つづく)
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改めて読み返してみて、自分で自分に感想文。(笑)
こうした新しい同性愛研究から、現在及び近未来における同性愛にまつわるどんな風景、ヴィジョンが見えてくるのか。
結論から言うと、意外かもしれませんがむしろ”異性愛絶対主義”の再確立みたいなものが僕には見えて来ます。反動的?
なぜ”意外”なのか、なぜ”反動的”なのか、そこらへんについて再び補助線。
同性愛の風景、社会的地位の人類史的変遷。(超簡略版)
1.自然的異性愛絶対主義の時代
2.文化的性愛相対主義、または寛容主義の時代
”歴史”とはとても言えない精度ですが、おお〜まかに言うとこういう風に時代は流れて来て、今は2.の最中なわけです、少なくとも広い意味での「近代社会」に至った地域においては。程度の差はあれ。強烈に生理的で普遍的な事柄なので、事実上”歴史”などないも同然と言えなくもないんですが、あえて言うとすると。
1.は同性愛に対する自然的観点から当然の違和感・嫌悪感を背景にし、それをはっきり”罪”と断ずるキリスト教やイスラム教を象徴とする、時間的空間的に大部分の人類社会のあり方。
2.は生理的な部分は仕方がないにしても、基本的には個人の内面生活であるし、現実に他人に害意を持つわけでもなく生きている人たちの生活をなるべくしやすくしようという文明人的寛容性、及びあらゆる「価値」や人間行動の「形」に極力相対的個別的にアプローチしようとする、大きな現代的思想風潮の一つとして同性愛の権利確保に努める流れ。究極的には同性愛も異性愛も、あらゆる性愛の形の同等な一つの可能性でしかないとする。
そこでなぜ新しい同性愛研究が、一見すると1.に逆戻りしているかのようなことを僕が言うかですが。要点は2つ。
(1)同性愛はあくまで異常である。(”病気”である。)
(2)同性愛は異性愛の変形した現れである。
こういう方向を科学(者)は指しているように見えるわけです。
(1)
同性愛者は教育やら人生経験やら、まとめて「文化的」「心理的」な類の要因によって生まれたりはしない。生物・生理的な、もっとはっきりした背景や原因を持った現象/存在である。単なる「価値観」の問題ではない。
具体的には恐らく発達早期に生じた、ホルモン異常の影響を主たる原因とするものである。本人的には直接の苦痛や体調不良、増してや生命の危機がもたらされるわけではないので、いわゆる”病気”とまで言う必要があるかどうかは別ですが。
(2)
マイケル・ベイリー博士の”異性化している”(研究1の項)という表現が最も端的ですが。
例えばある男性同性愛者が男性を「愛して」いる時、それは本当に男として男を愛しているのではなくて、基本的(遺伝的)には男性であるその男性同性愛者の、部分的に(脳の)”女性化”した部分が性愛の対象として男性を選んでいるのである。つまり同性愛が”同性”愛なのは見かけだけで、その内実は異性愛なのである。
・・・・これが僕が見て取った現代の「科学的な」同性愛観ですが。
次にこれをもう少し社会的観点でとらえ直してみます。(つづく)
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