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代表時計・・・・異常なし?!
2006年08月10日 (木) | 編集 |
ああ、疲れた。
トルシエの初戦、’98.11月の五輪チームのアルゼンチン代表戦(覚えてます?)くらいの緊張感は当然覚悟していましたが、それどころじゃないハイペース、ハイテンション&前チームとの違和感で。

ヴェルディ者としてはむしろ2004シーズンの後半に、オジーが突然決意してプレッシング・サッカーを敢行し始めた頃の緊迫感を引き合いに出したいところ。あのいかにも”らしくない”危なっかしいのが一応はモノになったんだから、こんなのは全然日本代表のDNAの想定の範囲内なんでしょうけどね。


さて、実は余り執筆意欲を掻き立てられていません。
試合内容に不満があるからということではなくて、むしろ取り立てて不満や不安がないから、予想や予定、それに希望に普通に沿っているからですが。

結局”ジーコ後”ということが大きいわけですね。
最低限ひととおりのことが出来ていたトルシエの時は、それを前提にもっと出来るだろうもっと上手く出来るだろう、もっと凄いものを見せてくれとそういう方向に僕らの”不満”は働いていたわけですが、ジーコの場合は技の選択以前にまず体が満足に動くかどうか、今日はどこの関節がイカれてるんだろうとそっちの心配をしなくてはならなかったので。

五体満足の有り難味を知ってしまったので、当座それ以上のことを求める気になれない。不幸の数よりも幸せの数を数えなさいと、ちょうど昨日美輪さんも言ってたしな。(笑)

そしてもう一つ重要なことは、「代表時計」というのは必ずしもノーマルなものではないということ。”幸せな時代”とは多幸感の時代でもあり、躁病的な全能感を求める時代でもある。”夢のサッカー”や”完璧なサッカー”を求める、もっと言えば不可欠なものとして必要とするというのは、裏を返せばそれだけ劣等感に怯えているということで。

本当は劣等感を友として当然の時代はもう終わっているはずなんです。日常を刻む時計というよりも、正体不明の”爆発”へのカウントダウンを告げるものである「代表時計」は、一度止まるとおいそれとシラフでまた動かせるものではないんですね。
それに”ジーコ”というワンクッション(分厚いけど)が置かれたことで気付いてしまった。

・・・・ていうか実はもう「日本人らしいサッカー」って出来上がってるんじゃないかとも思うんですけどね。必死こいて作り上げるまでもなく。みんなの心の中に。(笑)
それは”ジーコの4年間”という否定的定義によってとも言えるし、猛スピードで続いていた作業が小休止して、一種の「醸成」「寝かす」期間を確保することが出来たとも言えるし。”オシム”ですら最初から相対化して見る余裕が今や日本人にはある。

後はその時その場で必要に応じた創意工夫があるだけ。基本的には元気にやってくれればそれでいい。(笑)


”浦和ブロック”というのはまともにJ(1)リーグを見ている人なら当然の発想ではあるんですが、いかんせん現状みんなあまり状態が良くなかったんで心配していたところ、大過なくて何より。(長谷部だけはちょっと、でしたが。)
浦和の良さ、凄さを十二分に分かった千葉の監督というのは、Jから出す代表監督としては本当に理想的なバランスですよね。何で4バックなんだろうというのはちょっと謎でしたが。”とりあえず”なら尚更。

親善試合 日本代表○2−0●トリニダード・トバゴ代表(国立)

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