2008年01月29日 (火) | 編集 |
木尾士目の漫画 『げんしけん』 と、よしもときんじ(監督)のアニメ 『げんしけん2』 の比較。
オタク論三部作の一つ目・・・・の、予定ですが未定です。(笑)
げんしけんWiki、アニメ公式
先回りして結論的に言うと、僕が感動したのはむしろ”よしもときんじの”げんしけんらしいです。
というのは単純な話で、僕がアニメを見ていてゾクッとした代表的な3つのシーン/セリフが、そのものとしては原作には無いことが、後で読んで判明したからです。
単純でないことも言うと(笑)、アニメ版に感じていた演出の冷静さの凄みのようなものは、原作には感じなかったというのもありますが、それはまた別な話。 (注1)
とにもかくにも、まずはその「3つ」を挙げてみます。
1.「まあ誰でも通る道だから」 〜アニメ6話『趣味のモンダイ』より
詳しくは 『げんしけん』はコワい エントリーを参照。上手く書けているとは言い難いですけど。
要するに「荻上さん」というキャラクターが、”趣味”としては十分にディープなオタクであるが、一方で”存在””ライフスタイル”としてオタクであることには頑強に抵抗する様を生温かく眺めている、げんしけん先輩方のセリフです。
その淡々とした客観性が怖い、という話でしたが、アニメでそのセリフが吐かれたコミケ会場のシーンでも、その他の箇所でも明示的にそういうセリフは存在しませんでした。
原作にそういう思想・観点が無いとは言いませんが、僕がインパクトを感じたのは正にあの場面でのそのセリフの吐かれ方、ニュアンスであったので、やはり功績(?)としてはよしもと監督の方に帰したいかなという。
ちなみにこの”趣味”と”ライフスタイル”の違いの問題については、第二部(笑)で詳述する予定です。
2.「オタクは趣味以外に金を使いたくないよね」
2’.「衣食住に金を使うなんて、馬鹿馬鹿しいよね」
映像が手元に無いので(ぶっちゃけウチのPC動画重くて見れません)、何話とか語の正確なところは分かりません。
前者はいかにもなキモオタデブ”久我山先輩”の、後者は超美人の彼女(非オタ)もいるイケメンオタ”高坂くん”のセリフだったと思います。
意味としては同じようなことですが、前者にはポジティヴな、後者にはネガティヴな切実さがそれぞれこもっていて、甲乙つけ難いです(笑)。好きなことが!やりたいんだ。俺を下らないことに巻き込むな!
これらのセリフのどこにインパクトを感じたかというと、上の段落で実感込めて”!”を使っていることからもバレるように(笑)、僕も大いに心当たりがあるからです。ちょっと待て、その定義だと俺もオタクになってしまうじゃないか。
というのはこれも第二部ですが、僕は上の”趣味”と”ライフスタイル”の相違を軸に、自らをオタクと認定することに頑強に抵抗する予定だからです。(笑)
頑張ろうね?荻上さん!
ともかくこれらのセリフは、近いニュアンスのものは原作にもあったと思いますがここまではっきりしたものではなく、キーコンセプトとしてよしもと監督が、あえて取り上げたかったものであるのは明らかだと思います。 (注2)
3.「アメリカ人だって空気は読める」 〜アニメ10・11話
これはかなり語の正確性には自信がありませんというか、ほぼ意訳です。(日本語→日本語)
場面としては、帰国子女「大野さん」のツテでげんしけん&日本のコミフェスにはるばる来日した、アメリカン・オタクの「スージー」と「アンジェラ」。(ともに純白人)
その内の1人巨乳のメガネフェチアンジェラが、げんしけんのメガネ男子「斑(まだら)目先輩」に好意を寄せて、純オタ純日本人の斑目が最初から英語と外人にビビって「どうせコミュニケート出来ない」からと終始逃げ腰でいるのを、責めるわけでも迫るわけでもないんだけど、そんなに違うわけじゃないよ、分からないと思っているかもしれないけどちゃんと顔色で色々分かるよと、控え目に恨み言(?)を言い置いてでも爽やかに帰って行くというそういうエピソード。
・・・・あ、いかん。書いてて涙が出そうになった(笑)。けなげでねえ、アンジェラが。
ちなみにスージーアンジェラエピソード自体は原作にもあって(期間を置いて2回)、これはアニメ版同様素晴らしい、ほとんど漫画史に残る名エピソード(群)じゃないかと個人的には思います。
心の触れ合いとはこのことかという。”オタク”という共通項と特殊性をめぐって、日本人とアメリカ人が繰り広げる。
話には色々聞きますが、日本のオタク(orポップ)カルチャーに寄せるある種のアメリカ人外国人たちの憧れと称賛と、日本人のそれとはまた違う、意外なほどの真剣さと。
逆に同じような嗜好や行動をなぞっても、それがアメリカ人の体を通すと色々と違う風景や意味合いが見えて来るんですよね、今回はこれ以上言いませんが。スージーもいいですよお。
その中で(原作には無い)アニメ版のこのアンジェラのエピソードは、「空気」なり「顔色」なり「ニュアンス」なりといった、言ってみれば非アメリカ的な要素を、オタク/マンガ/アニメという日本的な文化現象を通して焦点化して、それに対する胸の内を(恋愛という万国共通な枠を通して)アメリカ人たるアンジェラに語らせたエピソードなわけですが。
そうした微分的な日本文化の意味、あるいは”アメリカ”がアメリカである為にふるい落として来たものを当のアメリカ人はどう感じているのかについて、示唆的な面白い描写だと思いました。
・・・・ただし、書いているのは日本人ですけど(笑)。ていうかこの回の脚本は原作者木尾さん本人です。僕もこの方面に明るいわけではないので想像するしかないですが、原作の評判からすればこれも何らかフィールドワークに基づいたものではないかとは思いますけどね。
と、言うのと、原作執筆時点では書けなかったこと、あるいはその後の自分の思索の成果として、どうしても書きたいことだったのではないかなと、そういう力のこもったエピソード。
まとめ
で、何が言いたいかというとですね。
こうしたアニメ版に新たに付け足されたセリフやエピソードは、要するにどれも”オタク”の「本質」、あるいは”オタク”という形で今日焦点化されている、(日米問わず?)人間の中のある種の傾向や感じ方の「意味」、そうしたものに対する考察や換骨奪胎を目指したものだと言えると思います。これはあくまでよしもときんじの/げんしけん2の”オタク”であって、必ずしも原作(や、それが元にしている典型群)から即ちで出て来るものではないんですね。
それとの比較で言えば原作は、要するにオタクの「実態」を活写したもの、それ以上でもそれ以下でもないと、あえて言えばそうだと思います。勿論鋭い洞察は沢山ありますが、種類としては何と言うか”ディテール”なんですよねあくまで。内部というか。 (注3)
だから駄目だと言いたいわけではないですが、僕が真に感動したのはそれに対するメタ・レベルでのアニメ版の”作業”と、それを背景にした演出の緊張感と透徹性であると、そういうことです。
というような感じで、単に漫画やアニメ(やゲーム)が好きで萌え萌え言ってる人たち(笑)というような把握の”先”を予感しつつ、第二部へ。
オタク論三部作の一つ目・・・・の、予定ですが未定です。(笑)
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げんしけんWiki、アニメ公式
先回りして結論的に言うと、僕が感動したのはむしろ”よしもときんじの”げんしけんらしいです。
というのは単純な話で、僕がアニメを見ていてゾクッとした代表的な3つのシーン/セリフが、そのものとしては原作には無いことが、後で読んで判明したからです。
単純でないことも言うと(笑)、アニメ版に感じていた演出の冷静さの凄みのようなものは、原作には感じなかったというのもありますが、それはまた別な話。 (注1)
とにもかくにも、まずはその「3つ」を挙げてみます。
1.「まあ誰でも通る道だから」 〜アニメ6話『趣味のモンダイ』より
詳しくは 『げんしけん』はコワい エントリーを参照。上手く書けているとは言い難いですけど。
要するに「荻上さん」というキャラクターが、”趣味”としては十分にディープなオタクであるが、一方で”存在””ライフスタイル”としてオタクであることには頑強に抵抗する様を生温かく眺めている、げんしけん先輩方のセリフです。
その淡々とした客観性が怖い、という話でしたが、アニメでそのセリフが吐かれたコミケ会場のシーンでも、その他の箇所でも明示的にそういうセリフは存在しませんでした。
原作にそういう思想・観点が無いとは言いませんが、僕がインパクトを感じたのは正にあの場面でのそのセリフの吐かれ方、ニュアンスであったので、やはり功績(?)としてはよしもと監督の方に帰したいかなという。
ちなみにこの”趣味”と”ライフスタイル”の違いの問題については、第二部(笑)で詳述する予定です。
2.「オタクは趣味以外に金を使いたくないよね」
2’.「衣食住に金を使うなんて、馬鹿馬鹿しいよね」
映像が手元に無いので(ぶっちゃけウチのPC動画重くて見れません)、何話とか語の正確なところは分かりません。
前者はいかにもなキモオタデブ”久我山先輩”の、後者は超美人の彼女(非オタ)もいるイケメンオタ”高坂くん”のセリフだったと思います。
意味としては同じようなことですが、前者にはポジティヴな、後者にはネガティヴな切実さがそれぞれこもっていて、甲乙つけ難いです(笑)。好きなことが!やりたいんだ。俺を下らないことに巻き込むな!
これらのセリフのどこにインパクトを感じたかというと、上の段落で実感込めて”!”を使っていることからもバレるように(笑)、僕も大いに心当たりがあるからです。ちょっと待て、その定義だと俺もオタクになってしまうじゃないか。
というのはこれも第二部ですが、僕は上の”趣味”と”ライフスタイル”の相違を軸に、自らをオタクと認定することに頑強に抵抗する予定だからです。(笑)
頑張ろうね?荻上さん!
ともかくこれらのセリフは、近いニュアンスのものは原作にもあったと思いますがここまではっきりしたものではなく、キーコンセプトとしてよしもと監督が、あえて取り上げたかったものであるのは明らかだと思います。 (注2)
3.「アメリカ人だって空気は読める」 〜アニメ10・11話
これはかなり語の正確性には自信がありませんというか、ほぼ意訳です。(日本語→日本語)
場面としては、帰国子女「大野さん」のツテでげんしけん&日本のコミフェスにはるばる来日した、アメリカン・オタクの「スージー」と「アンジェラ」。(ともに純白人)
その内の1人巨乳のメガネフェチアンジェラが、げんしけんのメガネ男子「斑(まだら)目先輩」に好意を寄せて、純オタ純日本人の斑目が最初から英語と外人にビビって「どうせコミュニケート出来ない」からと終始逃げ腰でいるのを、責めるわけでも迫るわけでもないんだけど、そんなに違うわけじゃないよ、分からないと思っているかもしれないけどちゃんと顔色で色々分かるよと、控え目に恨み言(?)を言い置いてでも爽やかに帰って行くというそういうエピソード。
・・・・あ、いかん。書いてて涙が出そうになった(笑)。けなげでねえ、アンジェラが。
ちなみにスージーアンジェラエピソード自体は原作にもあって(期間を置いて2回)、これはアニメ版同様素晴らしい、ほとんど漫画史に残る名エピソード(群)じゃないかと個人的には思います。
心の触れ合いとはこのことかという。”オタク”という共通項と特殊性をめぐって、日本人とアメリカ人が繰り広げる。
話には色々聞きますが、日本のオタク(orポップ)カルチャーに寄せるある種のアメリカ人外国人たちの憧れと称賛と、日本人のそれとはまた違う、意外なほどの真剣さと。
逆に同じような嗜好や行動をなぞっても、それがアメリカ人の体を通すと色々と違う風景や意味合いが見えて来るんですよね、今回はこれ以上言いませんが。スージーもいいですよお。
その中で(原作には無い)アニメ版のこのアンジェラのエピソードは、「空気」なり「顔色」なり「ニュアンス」なりといった、言ってみれば非アメリカ的な要素を、オタク/マンガ/アニメという日本的な文化現象を通して焦点化して、それに対する胸の内を(恋愛という万国共通な枠を通して)アメリカ人たるアンジェラに語らせたエピソードなわけですが。
そうした微分的な日本文化の意味、あるいは”アメリカ”がアメリカである為にふるい落として来たものを当のアメリカ人はどう感じているのかについて、示唆的な面白い描写だと思いました。
・・・・ただし、書いているのは日本人ですけど(笑)。ていうかこの回の脚本は原作者木尾さん本人です。僕もこの方面に明るいわけではないので想像するしかないですが、原作の評判からすればこれも何らかフィールドワークに基づいたものではないかとは思いますけどね。
と、言うのと、原作執筆時点では書けなかったこと、あるいはその後の自分の思索の成果として、どうしても書きたいことだったのではないかなと、そういう力のこもったエピソード。
まとめ
で、何が言いたいかというとですね。
こうしたアニメ版に新たに付け足されたセリフやエピソードは、要するにどれも”オタク”の「本質」、あるいは”オタク”という形で今日焦点化されている、(日米問わず?)人間の中のある種の傾向や感じ方の「意味」、そうしたものに対する考察や換骨奪胎を目指したものだと言えると思います。これはあくまでよしもときんじの/げんしけん2の”オタク”であって、必ずしも原作(や、それが元にしている典型群)から即ちで出て来るものではないんですね。
それとの比較で言えば原作は、要するにオタクの「実態」を活写したもの、それ以上でもそれ以下でもないと、あえて言えばそうだと思います。勿論鋭い洞察は沢山ありますが、種類としては何と言うか”ディテール”なんですよねあくまで。内部というか。 (注3)
だから駄目だと言いたいわけではないですが、僕が真に感動したのはそれに対するメタ・レベルでのアニメ版の”作業”と、それを背景にした演出の緊張感と透徹性であると、そういうことです。
というような感じで、単に漫画やアニメ(やゲーム)が好きで萌え萌え言ってる人たち(笑)というような把握の”先”を予感しつつ、第二部へ。
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