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同性愛の「着地点」
2006年08月15日 (火) | 編集 |
遅くなりましたが締め。
前回「未来像」というタイトルはちょっと言い過ぎというか肯定的ニュアンスが強過ぎて誤解を生むかなということで、「着地点」と。そういういわゆる”落としどころ”を探る内容です。


さて前回は「新しい科学研究は同性愛の”異常”性を強調する方向に向いている」(らしい)という話でした。
(自然)科学研究は科学研究であって、時代の風潮なんぞとは一応は別ものではあるんですが、研究プランを立てるのは人間なのでやはり何がしかそういう嗅覚は働くものだと思います。

更に遡ってそもそも同性愛の科学的研究が始められた当初においては、(具体的にはちょっと挙げられませんが)何らか生物的根拠があるもので単なる個人の「趣味」や「選択」によるものではないらしいという科学側の示唆は、むしろ同性愛者をある種道徳的・全人間的な批判から守り、その存在を認めさせる方向に機能していたように思います。

しかし一方で自然科学はあくまで普遍客観性を目指すものなので、「相対的だ」「色々あっていいんだ」で終わっては生殖という性本能の本来の目的からは明らかに”異常”な同性愛の取り扱いとしては不徹底なわけで、順番としては次にこういう方向に行く/機能するというのも分かる気がします。


で、その「意図」はともかくとして、今のところの研究結果・結論が示すものは、割と僕自身納得性が高いんですよね。恐らく社会の(異性愛者の)マジョリティにとってもそうだと思います。

つまり今更既に同性愛者に「なっている」人に対して排除しようなどというあり方は(実際にはありますが)許されないですが、”権利”や”対処”の問題は問題として、どうあっても「変だな」あるいは「気持ち悪いな」という感じ方自体は残っているわけです。
生物的条件が根本的に変わらない限り、これがいずれなくなるというようなことは起きないと思います。人種だの民族だのに対する「差別」とは根深さのレベルが違う。あえて言えば根拠ある差別/抵抗感でしょう。

そしてこうした感じ方は、積極的・意図的に許されてもいいんじゃないかと僕は思います。今回挙げられたような「科学的」研究の援護も受けて。
言うなれば最近数十年間に同性愛者に与えられて来た『許し』を、許す努力をして来た異性愛者の方にも!というわけです。それで全体が安定するのではないかと。

・・・・まあ『許し』という言い方はいかにも同性愛者が”罪”を犯したようでナンですが。許”される”屈辱というのもつきまとうでしょうし。

ただ自分たちこそが”正常”だという異性愛者の根本の部分での自負というのはどうしようもないもので、それを平等や相対性一本で押し切ってしまうのはかなり無理があると思います。
異性愛者と同性愛者がトータルとして共存して行く為には、ここは一つ「花を持たせて」ではないですが(笑)、基本定義としての正当性はすっぱり異性愛者に譲ってもらって、その安心感を背景に現実の付き合い上のあれこれを落として行くと、こういうデザインがいいのではないのかな、そしてそれを科学も後押ししているようだなと、これがその10分あまりのVTRから僕が受けたインスピレーションです。(長い)

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