2008年02月06日 (水) | 編集 |
別にいちいち”補”をつけると決めてるわけじゃないんですけど。(笑)
まあ代表デーでソワソワして、新しいことを書く気にもならないし。 「オタクと評論家」より
しかし雪かよ・・・・
・評論的”欲望”と、創作的”欲望”
昨日はいかに評論と(二次)創作が違うか、「二つは独立した別の欲望だ」ということを書いたわけですが。
しかしよく注意すると、or強調点を変えると、二つは「独立」はしているかも知れませんが同時に共に「欲望」ではあるということになります。
つまり、二次創作をする人がキャラに淫して、作品世界に溺れて(笑)”感情”的にやっているのに対して、評論をする人は冷静に”理性”的にやっている・・・・わけではないのですね。
そうではない、どちらも基本は欲望であって、どっちもどっちのヤクザ者ではあるわけです。当面種類は違いますが、より掘り下げれば同じような動機を発見出来るというか。
勿論かなりの程度「科学的」な、おいそれと創作と一緒にするわけにはいかないタイプの評論(的文章)はありますし、また”競馬評論家”などのようにある程度客観的な「情報」や「事情」に通じていることが本義であって、自己表現やクリエイティヴィティとはあまり関係の無いタイプの評論もあります。
しかし一方で「文章表現」や「自己表現」であることを本義とするタイプの評論も、分厚い層として社会に存在しているのも確かで、ブログ等の素人評論も含めれば、むしろそちらの方が大勢であるとさえ言えるところがあるのではないかと思います。現代人にとって重要と言うか。俺にも・何か・言わせろ。
でまあどっちが重要かとかは別にいいんですが、少なくとも後者のようなタイプの「評論」にとって、その人が言葉によって意見や思想を表明する、それに説得力・伝達力を持たせる為になるべく魅力的な秩序を自分の文章に与えようとする、その限りにおいてそれは創作と変わらないのであって、要は評論も”お話”だということです。
かく言う僕も、ネット上で(じゃなくてもいいんですけど)文章を公開することに慣れるにつれて、それについて意欲や意識が高まるにつれて、そうした感覚はむしろ強くなりました。”正しい”ことを書こう、”正しい”と認められようではなく、「今度はどんな”お話”をデッチ上げてだまくらかしてやろうかウヒヒヒヒ」というのがメインのモチベーション。(笑)
これはもう、”創作”をする人と何ら変わりないですね。
文章や表現に慣れるほど、その構造や限界を見つめれば見つめるほど、そういう認識は出て来るはずなのであって、いつまでも『客観性』の幻想にどっぷり浸ったままだとすればそれは余りにもおめでたいというか、ちょっと危ないです。本人的にも、影響的にも。むしろ”客観”幻想や”真理”幻想こそが、「教祖様」などを生んだりするので。
まあこんなことは別に新奇な主張でもなくて、例えば『邪魅の雫』
での京極夏彦なども、似たようなことを言ってますね。自分の小説への”批評”に悩む関口をさとす中禅寺の言葉として。評論も小説と本質的に何ら変わらなくて、要は「面白い評論と面白くない評論」があるだけだと。
・・・・まあそういう意味では「評論」も広い意味での「二次創作」ではあるわけですね(笑)。素材作品を元にした。
・作者との対決
ただ一緒だ一緒だと言っててもつまらないところがあるので、改めて違いを考えてみると、こういう視点はあるかなと。ていうか自分のことなんですけど。(笑)
なぜ(二次創作的なものではなく)原作品にこだわるか/とどまるかと言えば、それは要するに知りたいから理解したいからなわけですね、原作品を。あくまで。当たり前ですが。
その為に解釈して掘り下げて、その先に何があるかというと・・・・作者がいるわけです。
なんか国語の授業みたいなことを言いますが(笑)、作者との対話、もっと言えば対決、1対1関係、結局それが焦点なんだろうと思います、僕の場合。下手すると作者の精神分析。嫌な読者ですね。(笑)
一方で「作者で作品を説明してはいけない」「見えているものをその”背後”の要素に安易に還元してはいけない」というのは、現代的な評論の一つのセオリーではあるわけですけど。
僕がやっている/興味があるのは・・・・多分「作品」というよりも「作品の形成行為」なんだろうと思います。その場合はまあ、”作者”に主に着目するのは間違ってはいないのではないかと。
なぜこんなことをわざわざ書こうと思ったかというと、それは要するに僕のサッカーの「試合評」の類も、同じ構造を持っているからですね。それを指摘するのは面白かろうと。(多分・笑)
形成物としての作品=事実としての試合についても書かなくはないですが、基本的に背後にいる”作者”とその形成行為の方に興味が向いている。サッカーの場合は第一に「監督」、第二に「選手」ですね。
監督については、あるいは僕の監督絶対主義的な傾向については説明の必要はないでしょうが、選手はどうなのか、むしろ”キャラクター”の方じゃないのかという意見があるかもしれませんが、違うと思います。選手が結果的に行った/行っている”プレー”ならそうかも知れませんが、選手そのものはやはり第二の”作者”であると思います。作品の要素としては確定していない。それがフィクションのストーリーなどとは違う、サッカーの一つの特徴。
とにかく僕は本や漫画を読んだり映画やアニメを見るように、サッカーの試合という「作品」を読む、そして究極的には「作者」である監督や選手と個人として”対決”する、その形成行為を理解しようとする。そういう感覚で専らやっているわけですね。
別にやろうと思ってやってるわけではないんですけど(笑)。自然に興味がそっちへ向いてしまうだけで。だから実際問題試合を”見て”ないことがままあります(笑)。作者たちの声を聴いているだけで。しかも心の。(いかがわしいなあ・笑)
最後に本題に戻すと、作者に興味がある僕と、与えられた「作品」で満足して、それで遊ぶことに専念する二次創作者たちと。あるいは作品が”作られた”ものであることを常に意識して、その形成行為に遡ろうとする僕と、それをある種の”実在物”として受け入れて無心に埋没するオタクたちと。
そういうことですかね。
(追記)
ちょっと難しい話になりますが、作者論ではない、客観主義的なテクスト・リーディングの類のものというのは、作品をある意味固定・実体化しているという意味で、むしろより二次創作に近いものではないのかなと。学術的で強面なようで(笑)。ふと思いました。
サッカーで言えば、可視的な現象やメカニズムに傾斜した分析(≒テクスト・リーディング)が、しばしば華麗な戦術・システム論議(という”二次創作”)に飛躍するように。(ちょっと強引?)
まあ代表デーでソワソワして、新しいことを書く気にもならないし。 「オタクと評論家」より
しかし雪かよ・・・・
・評論的”欲望”と、創作的”欲望”
昨日はいかに評論と(二次)創作が違うか、「二つは独立した別の欲望だ」ということを書いたわけですが。
しかしよく注意すると、or強調点を変えると、二つは「独立」はしているかも知れませんが同時に共に「欲望」ではあるということになります。
つまり、二次創作をする人がキャラに淫して、作品世界に溺れて(笑)”感情”的にやっているのに対して、評論をする人は冷静に”理性”的にやっている・・・・わけではないのですね。
そうではない、どちらも基本は欲望であって、どっちもどっちのヤクザ者ではあるわけです。当面種類は違いますが、より掘り下げれば同じような動機を発見出来るというか。
勿論かなりの程度「科学的」な、おいそれと創作と一緒にするわけにはいかないタイプの評論(的文章)はありますし、また”競馬評論家”などのようにある程度客観的な「情報」や「事情」に通じていることが本義であって、自己表現やクリエイティヴィティとはあまり関係の無いタイプの評論もあります。
しかし一方で「文章表現」や「自己表現」であることを本義とするタイプの評論も、分厚い層として社会に存在しているのも確かで、ブログ等の素人評論も含めれば、むしろそちらの方が大勢であるとさえ言えるところがあるのではないかと思います。現代人にとって重要と言うか。俺にも・何か・言わせろ。
でまあどっちが重要かとかは別にいいんですが、少なくとも後者のようなタイプの「評論」にとって、その人が言葉によって意見や思想を表明する、それに説得力・伝達力を持たせる為になるべく魅力的な秩序を自分の文章に与えようとする、その限りにおいてそれは創作と変わらないのであって、要は評論も”お話”だということです。
かく言う僕も、ネット上で(じゃなくてもいいんですけど)文章を公開することに慣れるにつれて、それについて意欲や意識が高まるにつれて、そうした感覚はむしろ強くなりました。”正しい”ことを書こう、”正しい”と認められようではなく、「今度はどんな”お話”をデッチ上げてだまくらかしてやろうかウヒヒヒヒ」というのがメインのモチベーション。(笑)
これはもう、”創作”をする人と何ら変わりないですね。
文章や表現に慣れるほど、その構造や限界を見つめれば見つめるほど、そういう認識は出て来るはずなのであって、いつまでも『客観性』の幻想にどっぷり浸ったままだとすればそれは余りにもおめでたいというか、ちょっと危ないです。本人的にも、影響的にも。むしろ”客観”幻想や”真理”幻想こそが、「教祖様」などを生んだりするので。
まあこんなことは別に新奇な主張でもなくて、例えば『邪魅の雫』
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・・・・まあそういう意味では「評論」も広い意味での「二次創作」ではあるわけですね(笑)。素材作品を元にした。
・作者との対決
ただ一緒だ一緒だと言っててもつまらないところがあるので、改めて違いを考えてみると、こういう視点はあるかなと。ていうか自分のことなんですけど。(笑)
なぜ(二次創作的なものではなく)原作品にこだわるか/とどまるかと言えば、それは要するに知りたいから理解したいからなわけですね、原作品を。あくまで。当たり前ですが。
その為に解釈して掘り下げて、その先に何があるかというと・・・・作者がいるわけです。
なんか国語の授業みたいなことを言いますが(笑)、作者との対話、もっと言えば対決、1対1関係、結局それが焦点なんだろうと思います、僕の場合。下手すると作者の精神分析。嫌な読者ですね。(笑)
一方で「作者で作品を説明してはいけない」「見えているものをその”背後”の要素に安易に還元してはいけない」というのは、現代的な評論の一つのセオリーではあるわけですけど。
僕がやっている/興味があるのは・・・・多分「作品」というよりも「作品の形成行為」なんだろうと思います。その場合はまあ、”作者”に主に着目するのは間違ってはいないのではないかと。
なぜこんなことをわざわざ書こうと思ったかというと、それは要するに僕のサッカーの「試合評」の類も、同じ構造を持っているからですね。それを指摘するのは面白かろうと。(多分・笑)
形成物としての作品=事実としての試合についても書かなくはないですが、基本的に背後にいる”作者”とその形成行為の方に興味が向いている。サッカーの場合は第一に「監督」、第二に「選手」ですね。
監督については、あるいは僕の監督絶対主義的な傾向については説明の必要はないでしょうが、選手はどうなのか、むしろ”キャラクター”の方じゃないのかという意見があるかもしれませんが、違うと思います。選手が結果的に行った/行っている”プレー”ならそうかも知れませんが、選手そのものはやはり第二の”作者”であると思います。作品の要素としては確定していない。それがフィクションのストーリーなどとは違う、サッカーの一つの特徴。
とにかく僕は本や漫画を読んだり映画やアニメを見るように、サッカーの試合という「作品」を読む、そして究極的には「作者」である監督や選手と個人として”対決”する、その形成行為を理解しようとする。そういう感覚で専らやっているわけですね。
別にやろうと思ってやってるわけではないんですけど(笑)。自然に興味がそっちへ向いてしまうだけで。だから実際問題試合を”見て”ないことがままあります(笑)。作者たちの声を聴いているだけで。しかも心の。(いかがわしいなあ・笑)
最後に本題に戻すと、作者に興味がある僕と、与えられた「作品」で満足して、それで遊ぶことに専念する二次創作者たちと。あるいは作品が”作られた”ものであることを常に意識して、その形成行為に遡ろうとする僕と、それをある種の”実在物”として受け入れて無心に埋没するオタクたちと。
そういうことですかね。
(追記)
ちょっと難しい話になりますが、作者論ではない、客観主義的なテクスト・リーディングの類のものというのは、作品をある意味固定・実体化しているという意味で、むしろより二次創作に近いものではないのかなと。学術的で強面なようで(笑)。ふと思いました。
サッカーで言えば、可視的な現象やメカニズムに傾斜した分析(≒テクスト・リーディング)が、しばしば華麗な戦術・システム論議(という”二次創作”)に飛躍するように。(ちょっと強引?)
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