2008年02月22日 (金) | 編集 |
承前。
岡田監督の「接近・展開・連続」
今まで見た中ではこれが一番分かり易い/具体的/まとまっているかなと。(ネタ元)
パッと見て思うのは・・・・まんまラグビーじゃないのか?ということ。
”エッセンス”がどうのこうのというより、ラグビーのプレーの流れをそのままサッカーに翻訳しようとしているような気がします。
スクラム/ラックから掻き出したボールを横(斜め前)に展開して、そのままゴールを目指すがもう一回捕まりかけるところを(しつこく展開するかまたは)、細かいステップorパスワークでかいくぐってトライ!
・・・・みたいなプレーを無理矢理サッカーに置き換えているような。
僕が一番無理矢理/厳しいんじゃないかと思うのは、接近して半ば静止した状態から、作り直さずにそのまま「抜け出しての展開」を図るという部分。
ラグビーでこういうプレーが可能なのは、手を使うからじゃないでしょうか。足よりずっと融通が利く手でなら、密集でも止まった状態からでも、自在なコース取りでパスを出したり、ボールをこぼさずに抜け出したり出来るかもしれませんが、足でそれをやってもボールをとられるリスクばかりが高いような感じがします。コンパクトな状態ではパスが出し難いのは、日本人だろうとナニ人だろうと同じでしょう。「高い技術」の一言で解決されても。
更によりラグビーサイド/原理論的に言うと、(狭いスペースから高い技術で)「抜け出す」のは『接近』の技術であって、「展開」とは別ものではないのかと。『展開』はあくまでオープン、広い方。
はっきり言えばこれは揚げ足取りであって、たまたまある場所で行った説明に噛み付いているというところはあると思います。必ずこんな典型的な状態を考えているわけではないでしょうし、言葉では上手く説明出来なくても、実際の指導で補える/やらせられる部分もあるでしょう。
ただそれにしても・・・・と思うところはあります。
岡田監督の準備の問題
本来的な理論的技術的可能性はまた別として、岡田監督が「接近」理論をこのような直訳的な形でしか説明出来ないのは、要するに自分でも未消化だからなんだろうと思います。その気配をビシビシ感じます。(笑)
Q(急に)K(監督を)T(頼まれて)、ただやるのも芸が無いし無難にやるだけだろうと思われてるのもシャクだし、正直しばらくサッカーのことは忘れてたけど、そういえばちょっと前こんなことを考えていたなと、慌てて脳の奥から引っ張り出して来た、別に嘘ではないけど考え抜かれたわけでもない「理想」「理論」。詳細はこれから、やりながら。ああ、そういえば最近甲府がやっていたあれとかどうだろう。いい感じなんじゃないか。
そうであるのはある意味見え見えで、誰が悪いかと言えば頼んだ方が悪いと、そういう意味で岡田監督のそこらへんを道徳的には衝かないというのは、現状日本のサッカーファンの合意事項ではあるわけでしょうけどね。
ただ僕が結局問題かなと思うのは、そのことによって「接近」戦術が、大西ジャパンなり大木甲府なりという、たまたまの実例の「形」から入るばかりで、一向に本質的な部分で突き詰められない、「あんな感じの接近」「こんな感じの接近」というだけで、「接近は”こう”だからそれを活かす為に”こう”いう形を取る」というような順番の思考が全然感じられないということ。
それをやりながら見つけるということでしょうけど。”実験”のプロセスとしては、「仮説の検証」ではなく限りなく機械的な「試行錯誤」。
岡田監督が並行して盛んに「サッカーに”常”は無い」(だからシステムやスタイルにはこだわらない)と言ってるのも、ダイヤ4−4−2というニュートラルが最大の特徴なフォーメーションをメインにしているのも、なんか上手い具合に辻褄合わせだなと。(笑)
わざとやってるならそれはそれで見事な危機管理、「政治」ですが。
とにかくとりあえずの「ラグビーイメージの直接適用」から、徐々にカスタマイズまたは崩壊過程を辿っているのというのが、僕の現状認識。
後で言うように(これまでも言って来たように)「接近」理論そのものには個人的に可能性と魅力を感じているので、やり方の雑さはどうにも残念なところがあります。
タイミングと能力の問題
前回までの論考で、僕は「接近・展開・連続」(or大西ラグビー的サッカー)は見ようによっては既に前任者たちが部分的にやって来ているものかもしれないということを書きました。
それはそれである種継続性を保証するものとして歓迎すべき要素である可能性もありますが、逆にそこらへんがうまく認識されないと、変に孤立・意識過剰化するというか、要するに何をやってるのかが分からなくなる危険もある。
例えばそれこそ加茂ジャパンの後に、ああいうピンチヒッター的な形でなく岡田ジャパンが「接近・展開・連続」を掲げて登場したなら、「プレスで取ったボールをどうするか」という今より更に切実だった問題に対する一つの回答として、よりオープンに取り扱われることも出来たでしょう。
今回のタイミングだと、変な言い方ですが”オシムよりどれだけ優れているか”という、えらい厳しいハードルをクリアしなくてはいけないようなところがある。あるいは一種の「趣味」の問題として、独立した理論・方法論としての優秀性が問われる(実際に問われていると思いますが)わけですが、残念ながら既に述べたように、ろくな完成度も達成しないまま職務に就く羽目になっている。
悪くはないが今やる価値があるのか、あるいは今の観客の目に応えられるようなものなのか。この程度の”意義”で有り難がってもらえるのか。実際のところ、なぜどのように「接近」なのか。誰かちゃんと分かってるのか。
それは岡田監督の根本的な能力の問題としてもそうで、加茂の後ならいざ知らず、その後トルシエとオシムを経験した日本サッカー&代表選手たちを率いる監督として、実際に始まってみてもやはりいかにも貧相ではあるわけですよね。勝ち負け以前に与えられる予感される”秩序”の質が、高級感が。代表に行ったらきれいな服が着られると思ったのに、なんだこのノンブランドみたいなのは。ノンブランドでも暑さ寒さは凌げるでしょうし(笑)、高級感が無いから勝てないと決まってるわけでもないでしょうが。
ただここまでの経緯を見ても、やっぱり選手にリスペクトされてないなあというのは切実に感じますね。選手が自分の意見をどんどん言うのは結構なことですが、余りにもはばかりが感じられないというか。3トップにしてみる、やり難いとクレームがつく、じゃあ2トップに。1ボランチでやってみる、駄目だから2ボラにするよ?、あ、じゃあそういうことで。柔軟というよりノンポリという印象が否めませんが。
現場の最前線の選手の”やりやすさ”というのは、要するに安全な方へ常識的な方へ行くのは当然であり世の常なので、そこを敢えて押して、こういう”不自然”やこういう”リスク”が、総体として/究極的にこういうメリットや到達点に導くんだと納得させるのが基本的に監督の職分なわけですよね。当面のやりやすさに引っ張られてるだけじゃあ。
それが本当に「自在性」ならいいんですが、経緯からして理論的準備の不足によるものである疑惑が余りにも濃い。
とにかく何とかかんとかやっているという状態で。その過程で現在の代表選手たちの成熟度、特に啓太・憲剛・遠藤のそれは改めて目を引くわけですけど。
岡田監督の「接近・展開・連続」
守備では素早く敵に接近してプレスをかけ、攻撃では敵と接近した狭いスペースからでも高い技術で抜け出しての展開を図る。日本の誇るあくなきスタミナで繰り返しプレスをかけ、繰り返し攻める。
(『サンケイスポーツ』本紙 2008年1月8日号より)
今まで見た中ではこれが一番分かり易い/具体的/まとまっているかなと。(ネタ元)
パッと見て思うのは・・・・まんまラグビーじゃないのか?ということ。
”エッセンス”がどうのこうのというより、ラグビーのプレーの流れをそのままサッカーに翻訳しようとしているような気がします。
スクラム/ラックから掻き出したボールを横(斜め前)に展開して、そのままゴールを目指すがもう一回捕まりかけるところを(しつこく展開するかまたは)、細かいステップorパスワークでかいくぐってトライ!
・・・・みたいなプレーを無理矢理サッカーに置き換えているような。
僕が一番無理矢理/厳しいんじゃないかと思うのは、接近して半ば静止した状態から、作り直さずにそのまま「抜け出しての展開」を図るという部分。
ラグビーでこういうプレーが可能なのは、手を使うからじゃないでしょうか。足よりずっと融通が利く手でなら、密集でも止まった状態からでも、自在なコース取りでパスを出したり、ボールをこぼさずに抜け出したり出来るかもしれませんが、足でそれをやってもボールをとられるリスクばかりが高いような感じがします。コンパクトな状態ではパスが出し難いのは、日本人だろうとナニ人だろうと同じでしょう。「高い技術」の一言で解決されても。
更によりラグビーサイド/原理論的に言うと、(狭いスペースから高い技術で)「抜け出す」のは『接近』の技術であって、「展開」とは別ものではないのかと。『展開』はあくまでオープン、広い方。
はっきり言えばこれは揚げ足取りであって、たまたまある場所で行った説明に噛み付いているというところはあると思います。必ずこんな典型的な状態を考えているわけではないでしょうし、言葉では上手く説明出来なくても、実際の指導で補える/やらせられる部分もあるでしょう。
ただそれにしても・・・・と思うところはあります。
岡田監督の準備の問題
本来的な理論的技術的可能性はまた別として、岡田監督が「接近」理論をこのような直訳的な形でしか説明出来ないのは、要するに自分でも未消化だからなんだろうと思います。その気配をビシビシ感じます。(笑)
Q(急に)K(監督を)T(頼まれて)、ただやるのも芸が無いし無難にやるだけだろうと思われてるのもシャクだし、正直しばらくサッカーのことは忘れてたけど、そういえばちょっと前こんなことを考えていたなと、慌てて脳の奥から引っ張り出して来た、別に嘘ではないけど考え抜かれたわけでもない「理想」「理論」。詳細はこれから、やりながら。ああ、そういえば最近甲府がやっていたあれとかどうだろう。いい感じなんじゃないか。
そうであるのはある意味見え見えで、誰が悪いかと言えば頼んだ方が悪いと、そういう意味で岡田監督のそこらへんを道徳的には衝かないというのは、現状日本のサッカーファンの合意事項ではあるわけでしょうけどね。
ただ僕が結局問題かなと思うのは、そのことによって「接近」戦術が、大西ジャパンなり大木甲府なりという、たまたまの実例の「形」から入るばかりで、一向に本質的な部分で突き詰められない、「あんな感じの接近」「こんな感じの接近」というだけで、「接近は”こう”だからそれを活かす為に”こう”いう形を取る」というような順番の思考が全然感じられないということ。
それをやりながら見つけるということでしょうけど。”実験”のプロセスとしては、「仮説の検証」ではなく限りなく機械的な「試行錯誤」。
岡田監督が並行して盛んに「サッカーに”常”は無い」(だからシステムやスタイルにはこだわらない)と言ってるのも、ダイヤ4−4−2というニュートラルが最大の特徴なフォーメーションをメインにしているのも、なんか上手い具合に辻褄合わせだなと。(笑)
わざとやってるならそれはそれで見事な危機管理、「政治」ですが。
とにかくとりあえずの「ラグビーイメージの直接適用」から、徐々にカスタマイズまたは崩壊過程を辿っているのというのが、僕の現状認識。
後で言うように(これまでも言って来たように)「接近」理論そのものには個人的に可能性と魅力を感じているので、やり方の雑さはどうにも残念なところがあります。
タイミングと能力の問題
前回までの論考で、僕は「接近・展開・連続」(or大西ラグビー的サッカー)は見ようによっては既に前任者たちが部分的にやって来ているものかもしれないということを書きました。
それはそれである種継続性を保証するものとして歓迎すべき要素である可能性もありますが、逆にそこらへんがうまく認識されないと、変に孤立・意識過剰化するというか、要するに何をやってるのかが分からなくなる危険もある。
例えばそれこそ加茂ジャパンの後に、ああいうピンチヒッター的な形でなく岡田ジャパンが「接近・展開・連続」を掲げて登場したなら、「プレスで取ったボールをどうするか」という今より更に切実だった問題に対する一つの回答として、よりオープンに取り扱われることも出来たでしょう。
今回のタイミングだと、変な言い方ですが”オシムよりどれだけ優れているか”という、えらい厳しいハードルをクリアしなくてはいけないようなところがある。あるいは一種の「趣味」の問題として、独立した理論・方法論としての優秀性が問われる(実際に問われていると思いますが)わけですが、残念ながら既に述べたように、ろくな完成度も達成しないまま職務に就く羽目になっている。
悪くはないが今やる価値があるのか、あるいは今の観客の目に応えられるようなものなのか。この程度の”意義”で有り難がってもらえるのか。実際のところ、なぜどのように「接近」なのか。誰かちゃんと分かってるのか。
それは岡田監督の根本的な能力の問題としてもそうで、加茂の後ならいざ知らず、その後トルシエとオシムを経験した日本サッカー&代表選手たちを率いる監督として、実際に始まってみてもやはりいかにも貧相ではあるわけですよね。勝ち負け以前に与えられる予感される”秩序”の質が、高級感が。代表に行ったらきれいな服が着られると思ったのに、なんだこのノンブランドみたいなのは。ノンブランドでも暑さ寒さは凌げるでしょうし(笑)、高級感が無いから勝てないと決まってるわけでもないでしょうが。
ただここまでの経緯を見ても、やっぱり選手にリスペクトされてないなあというのは切実に感じますね。選手が自分の意見をどんどん言うのは結構なことですが、余りにもはばかりが感じられないというか。3トップにしてみる、やり難いとクレームがつく、じゃあ2トップに。1ボランチでやってみる、駄目だから2ボラにするよ?、あ、じゃあそういうことで。柔軟というよりノンポリという印象が否めませんが。
現場の最前線の選手の”やりやすさ”というのは、要するに安全な方へ常識的な方へ行くのは当然であり世の常なので、そこを敢えて押して、こういう”不自然”やこういう”リスク”が、総体として/究極的にこういうメリットや到達点に導くんだと納得させるのが基本的に監督の職分なわけですよね。当面のやりやすさに引っ張られてるだけじゃあ。
それが本当に「自在性」ならいいんですが、経緯からして理論的準備の不足によるものである疑惑が余りにも濃い。
とにかく何とかかんとかやっているという状態で。その過程で現在の代表選手たちの成熟度、特に啓太・憲剛・遠藤のそれは改めて目を引くわけですけど。
| ホーム |


