ヴェルディ、代表、グラドル、漫画、アニメ、等
”世界を驚かす”ことと「日本化」
2008年03月01日 (土) | 編集 |
承前

真・”世界を驚かす”こと

さてここで問題です。その韓国やギリシャに、世界は本当に”驚いた”のでしょうか。

まあ驚いたっちゃ驚いたでしょうけどね。少なくとも結果には。あれよあれよとまさかの勝ち進み。
ただ内容に関しては驚いたというより”ヒイた””辟易した”とか、そっちのニュアンスの方が近そう(笑)。うわそこまでやる?それ。くー、きついねえ。分かった分かった、そんなに勝ちたいなら譲るよ今回は、俺らはまたいつでも勝てるし・・・・とまでは言わないでも。(笑)
やはり真に”驚いた”と言うには、知的興奮の要素も入っていないと、それこそ’74オランダなどのように。

まああんなレベルのものは滅多に起きることではないのでいいんですが、岡田監督が「接近・展開・連続」と仮にでも言挙げしてイメージしているのも、実際には韓国代表のそれよりももっと知的なニュアンスの濃いものだと思います。規模はどうあれ一種の”新戦術”。
理由は簡単で、同じようにやろうにも、日本には韓国ほど分かり易い、国民的合意のある「型」がまだ無いから。良くも悪くもよりクリエイティヴな、発見的な作業にならざるを得ない。

それは「危うさ」ではありますが(特に現状・笑)、本質的には大きな「楽しみ」でもあるわけです。くだんの韓国やギリシャの戦いが天晴れであるのは間違い無いですが、ありていに言えば(当事者の)勝利と成功とナショナルな熱以外、何も残らないと言えば残らない。下手するとただの”珍事”扱い。
日本代表がやろうとしている作業は、もし成功すれば仮にそれ自体としてはローカルな類型にとどまって、サッカーの戦術を革命などしなくても、”発見”の過程で働く創造的な知性は、必ず勝敗以外の部分で世のサッカー・ファンの心に残る何かを生み出すはず。世界は確かに”驚く”はず。

それで充分というか、それ以上を最初から求める筋合いは無いというか。
まあここらへんの内的な”発見”の喜びというのは、クラブでも代表でも、同一チームを見続ける醍醐味の根本でもあります。


「日本化」の諸相

だから問題は”革命”ではなくて(それはおまけ)、例の「日本化」そのものになるわけですけどね、結局。「個性化」と言ってもいいですが。

ところでここで加茂→オシム→岡田と、それぞれ何らか「日本化」を強く意識したチーム作りをした(している)と思われる監督(トルシエやジーコが全く違うとは言いませんが、力点として)の仕事の性格を改めて見てみると、日本サッカーが自信をつけていく過程が見えるようで面白いです。
つまり
 加茂 :とにかくまずはヨーロッパ・メソッドの学習だ
 オシム :日本人には誇るべき武器もあるから、それを活かす方向で調整してみよう
 岡田 :一人で出来るもん

(笑)。例えばかのNo.1オシム/トータルフットボール代弁人西部謙司氏は、某所で岡田ジャパンを評して、「オシムの”日本化”を尖鋭化したものだ」と言っています。同じ流れにはあるがより純粋主義的であると。
実際「細かいボールテクニック」や「俊敏性」に優れ、「勤勉」で「走力」があるといった基本的な特徴・長所の認識そのものは、言葉の上でもオシムと岡田さんはほとんど違いはないわけです。

違うのはオシムがそれらを自分の元々のメソッドと合成する形で、言い換えればより包括的な理論・戦術の「一部」として活かそうとしたのに対して、岡田さんの場合はある意味それのみで突破しようと、あるいはそれを直接核としてスタイルを構築しようとしているところ。

こうした手法の選択自体は必ずしも意識的なものではなくて、既に得意のスタイルを確立していて、かつ外国人として基本的に「世界」から日本を見ているオシムがそちら側に「日本」を組み込もうとするのは当然ですし、また岡田さんの場合はそうしたオシムの「日本化」の作業・仕事の内容に、オシムより遥かに長く・近く日本サッカーを見続けていた者として日本のサッカー人が当然感じる違和感を、言わば代表する形で今回の職に就き、自然そこらへんのモチベーションが強調される。(そして準拠すべきスタイルは持っていない。(笑))
結果ある意味ついた勢いが止まらないような形で、”純粋化””尖鋭化”してしまう部分が出て来る。

そうした行きがかりはともかくとして、手法として端的に両者を比べてみると、どちらが”強い”かとかは当面言いようがないとしても、オシムの安定感に比べて岡田”尖鋭化”に避け難い危なっかしさがあるのは確かです。・・・・つまり、仮に「一人で出来る」としたとしても、わざわざ「一人で」やる必要は無いわけで。借りられる力は借りればいいし、持てる幅は持てばいい。目的は勝つことであって、自意識を満足させることそのものではない。

まああえて予測するとすれば、少なくとも韓国代表的な”凝集した突破力”ということで言えば、オシムのようなチーム作りよりも、「一人で」やった場合の方が持ちやすいかなとは思いますが。
なぜならオシムのチームでは良識的過ぎで、世界をヒかせることは出来ないから(笑)。すんなり納得されて、席を与えられてしまう。はい、キミ、そこね。あ、すいません。

今後の展望?

ただし繰り返しになりますが、岡田さんは勢い余ってそうなってるだけで、必ずしも意識的に純粋主義をとっているわけではないわけです。「本当の日本化(日本の本質)はこうだ!」という自負自体はあるでしょうが、手法として何か固まったものがあるわけではない。
だから無常だのジャズだのぬるいこと(笑)を言っているわけですし、引き合いに出すのは最初から”参考”以上のものになりようが無い、ラグビーの話なわけで。

最終的に自分の仕事の規模を、性格を、どのように考えているのか。”発明””発見”の類なのか、既成の類型・手法のカスタマイズで済むのか。
今までの発言からすると後者のようですが、それは”済む”とか”済まない”というよりも、その方がいい/好きだ、自分がやりやすいということの一端が覗いてるのであって、特に「この仕事」についてということではないんだろうと思います。それが過去”現実家”と言われて来たゆえんでもあるわけでしょうし。『理想』は抱くが、掲げはしない。むしろ忍び込ませる、埋め込む。

だから出来る出来ない以前に大向こうに分かり易い鮮やかなスタイルの構築というのは、方法論的に最初から捨てられているのかなと思います。
それは僕が効率的と考えるルートとも、また岡田さんが期せずして踏み込んだ純粋主義的(≒発明的)な方向性ともやや矛盾しているような気がするんですけど、まあ無いものねだりをしても仕方がない。その”ズレ”が原因で失敗したら、「ほらね?」とは言うでしょうが。(笑)

では現実的に考えられる最良の可能性とはどんなものか。・・・・うーん、現状の「延長」だけだと、ほとんど何の展望も描けないですね。少なくとも書く価値を感じるようなものは。
だから思い切って視点を転換して、前回フランスの時に岡田さんが作ったチームを思い返してみると、消極的過ぎるという悪評も買ったあのチームですが、僕自身は細かい不満はありましたが、基本的には当時の日本人選手の実力がそれなりに必然的に結び付けられて過不足無く発揮された、納得感のあるチームだったと思っています。それはその後のトルシエやジーコの最終結果と比べても。ある意味あの”W杯”が一番好きです(笑)。あの負けっぷりが。

だから形はどうあれ、あれをもう一回、今度は少なからずレベルアップした今の日本人選手たちでやってくれれば、それだけでも案外また楽しいW杯になるかなと、そんな風にも思います。
そしてもし「接近」というインスピレーションが、本質的な部分で的外れでないなら(ないと思いますが)、岡田さんの手による最適化(≒日本化)の過程&結果で、必ずやそうした要素はチームの完成形の中に浸透して、案外元気に活躍してくれるんじゃないかなと。(そして世界は驚く?)


まああんまり好みではないですけどね。もうちょっとスパッとやって欲しいですけど。いきなり本番に飛んでるのは、途中のことを考えると若干気が滅入るからです。(笑)
とにかくしばらく「接近・・・・」は忘れた方がいいでしょうね。無駄だからという消極的な意味でも、意識しない方が逆に上手く行くんじゃないかという積極的な意味でも。

これくらいでだいたい”岡田ジャパンを見る準備作業”は終わりでいいでしょうか。
出来れば次に、結局のところの中心概念である「日本化」について、僕自身のパースペクティヴを示してみたいと思います。


コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック