ヴェルディ、代表、グラドル、漫画、アニメ、等
ワニと小鳥(補)
2008年04月24日 (木) | 編集 |
承前

1.”個性”

あれからまた調べてみたら、カエラ自身はこの曲を、「個性を大事にすること」について歌っていると解説しているようですね(参考1)。直接該当するのは

 後悔してるよ 思い通りにしたいなんて
 おかしな話だ


の部分。なるほど。
更に言えば、近付き過ぎて、好きなところより嫌いなところ、イラッとさせられるところ≒「自分と違うところ」を見てしまって、責めてしまった、”食べて”しまった。

 気に入らないことに ハラを立てて
 君を食べた


僕が反応したのは、個性云々ということも含めて、とにかく何かの理由/きっかけで、必ずしも悪意・敵意を持っているわけではない(orむしろ好意を持っている)相手に”イラッとする”こと、攻撃的排除的言動行動をとること、それら全体の性格についてのカエラの感じ方(「ダメ」)なわけですけどね。カエラ自身がどこまで自覚的かはともかく。

(身近な)他人を攻撃するというのは、それが排除であれ破壊であれ、「思い通りに」する=同化であれ、要するに自分でない他人、違う個性の存在が疎ましいということですから、ひとまとめに『個性』の問題だと、言えなくはないですけどね。


何となく思い出すのは例えば、これは響きがいい(?)のでよく引きますが

 地獄とは他人のことである

というサルトルの言葉。他人が他人であるだけで、そこにいるだけで、どれだけ疎ましいか脅威か、あるいは攻撃の対象になる可能性、もっと言えば正当性・必然性があるか。
好きとか嫌いとか、良いとか悪いとか、ある意味二の次。

それから突然(笑)、『幽遊白書』17巻における幻海師範の、魔族として覚醒後の幽助に対する言葉。

 人は自分の気分次第で壊せるものをそれぞれ持っている。
 おもちゃだったりペットだったり恋人だったり家庭だったり国だったりする。
 お前はそれが人よりデカい。それだけだ。


直接関係無い部分もありますが、とにかく人が何かを”壊す”行為の、ある意味の自然さ、自己目的性について語っていると思います。存在する”力”は、振るわれる可能性があるというか。
ワニが小鳥を食べたのは、それがワニにとって食べることの出来る対象であったから。ワニが食べる存在であるから。そして小鳥が食べられたのは、その時そこにいたから。

・・・・だいぶ本体から離れてしまった感はありますが(笑)、カエラのインスピレーションも、昨日紹介した聖書や生物学的共生というような元ネタも押さえつつも、結局は「ワニと小鳥」というシンボル・イメージそのものが喚起するものなのではないかと思います。
その2匹のたたずまいの危うさ、はかなさ、それゆえの美しさ。

歌の中心になってるのも、「食べられた小鳥がかわいそう」ではなく、「食べてしまった/しまうワニの哀しさ」なわけで。力を持っている、振るう側の。
そういう意味では、『個性を大切に』という”教訓”的な説明は説明として(笑)、僕の受けたやや悲観的/運命論的なインスピレーションも、そんなに的外れではないかなと。まあ”教訓”だけでは芸術としてちょっとねというのもありつつ。


2.カエラの「個性」

ということとも関係しますが。

実は僕は「女」「アイドル/モデル」としての木村カエラには特に興味は無いですし、バラエティ・CM等でのタレントとしてのカエラも、そんなに好きではないんですよね。ちょっと撥ね付けるような、浅いというかディフェンシブなリアクションをすることがあって、たまにイラッとすることも。
でも、ミュージシャン、ヴォーカリストとしては諸手を上げて好きです。歌ってる時の彼女は最高です。一種の天才だと思いますね。”ロック”に選ばれた存在というか。

これは言い方を変えると、彼女は歌うことによって完成する真の木村カエラになるということですね。歌を、音楽を通じて初めて、彼女は自分でも必ずしも把握し切れていない、自分の可能性の全てを実現出来る。・・・・特に”優しさ”や”豊かさ”、”包容力”といった、面と向かって言われたら照れて嫌がるかもしれない(笑)要素。
歌ってる時の木村カエラに、僕がそれ以外の時の彼女に感じるようなイラつき要素はかけらもない。

これが音楽/芸術の力だと言ってもいいですし、人/才能と表現の関係として、とても幸せな例だと言ってもいいですが。人は自分が知っている以上のことを、表現できることがある。
いずれ人間カエラはミュージシャンカエラに追いつくのでしょうか・・・・なんて言い方は、あまりにも偉そうですね、失礼。(笑)


以上、余談でした。


木村カエラ/ワニと小鳥
2008年04月23日 (水) | 編集 |

 涙止まらなかったんだ
 ダメな ボクは君を食べた
 好きなところばかりの君に 会えることもない
 今は少しおちついてきたよ
 でもね ボクはおくびょうだ
 自分を いじめてるつもりで 生かしてる

 だからね
 いつも頭の上に止まる 小鳥を見上げてみる
 かわいい声 君の色 全て大好きだったんだよ
 みにくいボクに 体をゆだね 心をゆるす
 戻ってきてよ

 君のステキなところも
 ボクはわからなくなってた
 1番うばってはいけないもの
 気に入らないことに ハラを立てて
 君を食べた

 後悔してるよ 思い通りにしたいなんて
 おかしな話だ
 本気で笑ってつぶやいた

 だからね
 いつも頭の上に止まる 小鳥を見上げて笑う
 君に重ねて 思い出している
 たくさん話をして 言葉を聞いて
 こんなボクなら 生かしてあげれるかな

 だからね
 いつも頭の上に止まる 小鳥を見上げてみる
 かわいい声 君の色 全て大好きだったんだよ
 みにくいボクは
 食べないよ 食べないよ もう

(木村カエラ/「ワニと小鳥」 ”Scratch”('07)より)



・・・・「誰かが誰かを傷つける」ということを、これ程見事に表現した歌詞を僕は他に知りません。
”ボク”であり”キミ”であり、(力の強い)”ワニ”であり(弱い)”小鳥”であるということから、基本的には傷つけたのは男で傷つけられたのは女だと、一応はそういうイメージでいいんだと思いますが。まああんまりこだわると味が台無しになりますけど。

関係性の方に着目するなら、「無心な信頼を寄せた側」(小鳥)と、「寄せられた側」(ワニ)となりますか。両者のデフォルトの力関係の差にもかかわらず、と言ってもいいですし、「寄せた側」は「寄せた相手」に対して無力になるという、一般的な意味でもいい。
とにかく小鳥が寄せた、裏切ってはいけないタイプの信頼を、つい、裏切ってしまったわけですね、ワニは。

僕が秀逸だと思うのは、そうしたワニの行為を、”悪”(い)ではなく、”ダメ”という言葉で表現したカエラのチョイス、センス。その鋭さと、優しさと。
そうなんですよね。”ダメ”な行為なんですよね。悪いというより。悪いから悪意があったからやったのではなくて、ダメだから、ダメなところがでてしまったから、やって”しまった”んですよ。ふっとね。その瞬間は、実は空白なんですよね。

ワニは小鳥を確かに好きで、大好きで、好きなところばかりで、それは嘘ではない。
自分の力も分かっていて、自分がそうすれば相手を傷つける、あるいは壊してしまうということも、心の底では分かっている、分かっていた。そうするのが望みなのか、そうした行為から予想されるその結果を、望んでいたのか、あえて問われれば否と答えるでしょう。
でも、やってしまったんですね。やってしまうんですね、その瞬間には。そういう瞬間があるんですね。ダメだから。ダメだったから。

曲自体は『食べないよ 食べないよ もう』と締めくくられていて、その気持ち決意に嘘はないんでしょうけど、もし仮に小鳥が”戻ってき”たとして、またワニは食べちゃうかもしれない。大好きだけど。大好きなんだけど、ダメだから。ダメな時があるから。
そうした構造全体への直観があるから、”悪”と切る/断罪するのではなく、”ダメ”と表現する、認識する、あえて言えば赦すんだと思います。

でもワニは単に懲りずに繰り返すわけでも空約束をしてるわけではなくて、ちゃんと分かってはいるんですね。起きたことを、自分がやってしまったことを。
どうすればいいかということもちゃんと考えている。分かっている。
『たくさん話をして 言葉を聞いて
こんなボクなら 生かしてあげれるかな』

と。

更に言えば”食べ”てしまった経験を通して、自分がどれほど小鳥が好きだったか、小鳥が自分にとってどういう存在だったか、一つ一つ思い出して、再確認して、間違いなくワニは前のワニではなくなっていると思います。
だから例え繰り返しになる可能性があるとしても、繰り返しになったとしても、トライするのは無意味ではないと思いますが。

でもまあ、食べちゃうかもしれませんね。ダメだから。ワニだから。
ロック in アメリカ
2008年01月06日 (日) | 編集 |
ナイトレンジャーの曲名ではありません、て、古いなあ。

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”アニソン”話の「アニ」と「ソン」、それぞれにかすってる話。ちょっと思い出したので。


僕はスカパーで何はなくても”ドラマセット”(ch.722,725,728,390,361,362)だけは契約する海外ドラマ(つっても韓中じゃない)ヲタで、結構どっちでもいいのでも何となく常に見てる(”聴いて”たりもする)んですが、最近のその中に『スーパーナチュラル』『One Tree Hill』というのがあります。前者は日テレ深夜でもやってましたね。

それぞれまあまあ見られなくもくらいの感じの作品なんですが、その中での現代アメリカの若者文化における”ロック”のポジション(の描かれ方)がなんか面白いなあと思いました。

まず『スーパーナチュラル』
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はイケメン兄弟2人組が全米を悪霊退治して歩く話(こうしてまとめると酷いな)で、成宮寛貴と次課長井上の悪評を呼んだ素人臭い吹き替えが、最初は違和感あったんですが逆に生々しくていいかなと、結果的に気に入って見ています。
どうせベテランプロがやったって、「他人の声」には違いないわけですからね。どのみちアメリカ人が見たら笑うに決まってるわけで。別にいいかと。

と、言うようなラフな割り切り方が出来るのも、このドラマがそれなりに力を入れて製作されたAクラスのドラマ(だから日テレでもやった)らしいにも関わらず、いい意味で手作りというか若者身内ノリというかそういうところがあるからで、その象徴が毎回ドライブ中に流されるブラック・サバスやらAC/DCやら、主に’70・80年代ハード・ロック/ヘヴィ・メタルの名曲・名バンドたちの音楽。

これは設定としては根っからの反抗児のアニキの趣味なんですが、いい大学行って一度は真っ当な道を歩こうとしていた弟も別に嫌がってるわけではなく(多少物理的にうるさがってはいますが(笑))、何よりも製作者側が好きで使っている、堂々と流すのが楽しくて仕方がないというそういう感じが伝わって来て、微笑ましいです。

それと同時にドラマ自体の構造として、「一見平穏な表面的な平和・秩序にたゆたう市民社会」と、兄弟が直面する「その裏に存在する闇の、”真実の”現実」みたいなコントラストがあって、その”真実”性を一つ象徴するものとして、これらの(ハード)ロックが使われているわけです。


次の『One Tree Hill』
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だとここらへんはもっとはっきりしています。

ドラマとしてはまず、アメリカに掃いて捨てて掃いて捨てて掃いて捨ててもまだあるような(笑)、「高校青春ドラマ」です。学園を支配する金持ち花形運動部員(バスケ)&チアガールの”上流階級”と、その陰の貧乏人や文化系やオタクやガリ勉やらとの階級構造、そのどちらが「真理」と「正義」に近づけるかという。普通は後者の視点で描かれるわけですが。
ただこれはそのコントラストが鋭角というか、後者寄りというか。・・・・つまり”寄る”ゆえに逆に、「前者」の救済もかなり真面目に考えているんですね。そこが結構面白い。

で、初期設定としては”上流階級”のど真ん中にいた金髪のかわい子ちゃんのペイトンというコがいまして、そのコはとりあえずその地位を楽しみつつも、何か違うんじゃないかと、馴染めないものも感じている。
その象徴として使われるのがまたもやロック・ミュージックで、同じ階級の友達が、よく分かりませんがヒップ・ホップやらダンス系やら、とにかく流行りのものを無自覚に無趣味に聴き流す中、そのコは自宅でひっそり古めのダサめのロックを聴いていて、彼氏に嫌がられたりしている。(笑)

結局はそこらへんの文化的精神的亀裂が拡張されて、ペイトンは”階級””グループ”の外に出て、「真実の」人生を歩もうと決意して行くわけですね。

ちなみにこっちで言挙げされる”ロック”は主にアメリカの、ちょうど『スーパーナチュラル』でかかっていたような音楽が廃れた後に流行ったロックで、業界用語で言えば(笑)「LAメタル」や「スラッシュ・メタル」以降、あるいは「グランジ」以降のギター・ロック色を強めたハードなロック(”ハード・ロック”ではなく)。

・・・・の中のポップな方なのかな。ニルヴァーナとかメタリカの名前が出て来た覚えが無い。
とにかくこの前の回では同好の士の男友達が、「凄くクールなバンドを見つけたよ」といって取り出して来たのが”Ratt”

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だったので、リアルタイム世代の僕はちょっと笑ってしまったんですが。
というのはそこらへんはむしろ「真実」サイドから”魂を売った”系、あるいは”魂を売る匙加減お試し”系という位置付けだったはずなので。作中の彼らが反抗しているダンス系とかと同サイド。
まあ今やボン・ジョビが”カリスマ”で”魂のロック”らしいですから、時間が経つとそんなものなんでしょうね。へええ、俺には男闘呼組やTOKIOと区別がつかないけど。

と言って別に趣味の良さや音楽観を競うのがこのエントリーの目的ではなくて(笑)、今時のアメリカの若者文化における(そこらへんの)ロックの記号論的位置が確認出来て面白かったということですね。こうして”ロック伝説”は作られるのかという感慨も含みつつ。


その”面白さ”について更に解説しますと、かつてロックが記号としてまとっていた「真実」や「反抗」は、主に”大人”社会との『縦』の関係、縦の分裂を前提としていたわけですよね。
ところがその後ロックは十分にメインストリームになり、日本でも”歌謡曲”というジャンルが事実上崩壊したりして、アメリカではある意味それに代わる”レベル(反抗)・ミュージック”としてヒップ・ホップを筆頭とする黒人系(ロックは基本白人)の音楽がワッと出て来た。

ただ黒人音楽というのは根がどうしようもなくダンス・ミュージック&ラブソングで、またデフォルトのクオリティ主義が表社会・メジャー・お芸能音楽的色彩をどうしても呼び込んでしまうので、凄まじい勢いでコマーシャル化してとどまるところを知らない。

で、恐らくそこらへんの構造・勢力図が息苦しいくらいに長期固定化されていて、それでまとめてそれら自体が反抗(もしくはやっかみ)の対象となって、ブラック/ダンスでなければ、ロックであれば何でもいいというような感じでRattすらも担ぎ出される、あるいは古の”ロック”に過剰な意味付けがされるという、そういうことか起きてるのかなあと、これらを見ていて感じました。
つまり言ってみれば『横』の関係、横の分裂ですね、若者音楽の若者音楽に対する反抗

本チャンの「音楽批評」のフィールドでどういう話になっているかは知りませんが、こうしたTVドラマなどの一般カルチャーのレベルで見るとという。


・・・・というのと、いずれ「オタク」論で述べたいと思いますが、アメリカ人のある層によるアメリカのメインカルチャー自体への”恥”感みたいなものを、非常に背景に感じるんですよね、両作とも。
構造としては常にあったものなんですが、程度が進んでいるなあと。


「ロックとサッカーと私」(わらい)
2005年10月19日 (水) | 編集 |
元の枠組を大きく逸脱して非常識に長々と書いて来た、『ミュージカル・バトン』解題の締め。

むしろ書きながら思ったんですが、何だかんだ僕の人格形成に相当な影響を与えているようですね、ロックは。
別にプロを目指したり熱く青春を燃やした経験があったりするわけではないのですが、ロックという音楽が喚起するもの、特に古今東西様々な音楽要素を俯瞰し、採取し、それぞれに距離感を工夫してアプローチしてその切り口や手法の妙を競う、何か具体的で個別的な”モノ”ではなく、素材との関係性の中に「個性」を浸透させて「自己表現」とするという際立って批評的な性格。

あまり単純化するのもナンですが、ここらへんズバリ「内容」や「感情」や「魂」を表現の主体とする黒人(ポップ)音楽などとは明らかに違うわけで。勿論形式と内容が既定のものとしてセットでがっちり固まっている、伝統的ルーツ的諸音楽とも。解体と再構築の過程そのものがロックにとっての「内容」。

前にOGU of my lifeさんが僕の文章を、「サッカーもアイドルも全く同じような調子で論評されるのが面白い」とおっしゃってましたが、つまりそういう僕の文体は、僕が何でも評論屋さん(笑)なのは、最初からアプローチや切り口の方が主役で取り扱う対象や内容はある意味付随的なものでしかないという、こうしたロックのスタイルが染み付いているからですね。
言わば僕の文章は僕のロックなのでしょう。牢獄ロック。(笑)


こうして書くとまるで僕が(ロックが)色々な素材をつまみ食いして便利遣いして切り貼りする、冷酷非情な厭な奴のようですが(笑)、それはちょっと違うと言いたいです。僕はサンプラーでもヒップホッパーでもありませんし、並列化や平準化には興味がありません。
あくまでやっているのは深掘りであって、つまりむしろこれはそれぞれの素材・対象への一つの愛の形であり、それぞれの本当の良さや本当の個性を標準的な理解・受容では満足せずに、うっかりすると壊すくらいの勢いで禁じ手なしで追究するそういう作業です。ペンタングルとフォークの関係なんかは理想的ですね。解体再構築を繰り返して先鋭化すればするほど、同時にフォーク本来の味わいや情感も底光りして来るという。

例えばサッカーについてもそれは同じで、試合をいわゆる「観戦記」の形にはめ込んだり、選手やプレーの評価を通用的なポジション/役割概念、タームに行儀良く沿って落としたりというそういう見方・書き方はまずしないし出来ません。人によってはそれらは便利な道具なんでしょうが、僕には最初からそれがあるとニュートラルで根本的な思索・観察のひたすら邪魔になる気がしてしまいます。むしろわざわざ壊します。壊さずにはいられません(笑)。

そして解体して精査して掻き回した中からぐいっと手を突っ込んで掴んだ(と思った)本質に、いちから相応しい形式や分類を新たに与えます。ロックの基本は「1バンド1ジャンル」ですが、さしずめ僕の試合評は「1エントリー1スタイル」です。読み難いわけですね(笑)。ほとんどがアルバム一枚で解散ですし。

つまり先走って大げさにほめたりそこまで言うかというくらいにけなしたりするのも、対象への妥協なき興味と潜入のある種自然的な帰結であって、僕自身はほめようともけなそうとも、いかなるありものの評価の枠組に落とし込むつもりもさらさら無いんですというそういうまとめでしょうか。その時ピンと来る音を探してたまたま出来ちゃったスタイルが、鳴った音がそれだったという。

ということで。レッツ・ロック。

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「踊ってばかりの国」/ハバナエキゾチカ (後)
2005年10月18日 (火) | 編集 |
前編から)

彼女たちに何が起こったのか。これはいわゆる”オーバープロデュース”なのか。それとも彼女たち自身が本当に奇跡の大進化・大変化を遂げたのか。答えはそのちょうど中間くらいにあると思います。

「踊ってばかりの国」に展開された音楽要素が予め潜在的に彼女たちの中にあり、またインディーズ時代のハード・ファンク・ロックとも本質的に矛盾しないものであるのは確かだと思います。かなりびっくりはしましたが、決して付け焼刃でも木に竹を接いだわけでもないのは既に書いた通りです。仮にハバナエキゾチカが何年かまとまった年数続いたとすれば、経緯はともあれいずれはこんなようなアルバムを作っただろうと思います。それこそツェッペリンが「フォー・シンボルズ」や「聖なる館」を、ビートルズが「ホワイトアルバム」や「アビーロード」を作ったように。

ただ、早い。サイクルが異様に早い。あり得ないくらい早い。「LOVEが大事」とのミッシングリンクが巨大過ぎる。
このことに辣腕プロデューサーヤン富田が大きく貢献しているのは当然でしょう。間違い無くインディーズ時代の生硬さも彼女たち自身の実像ではあったので、まだ”素質””芽”でしかなかった彼女たちが持っていたそれぞれの音楽要素を、こうして洗練された形で大棚ざらえさせたのはプロデューサーの力でしょう。あるいはそれ以上の示唆・関与もあったのかも知れません。

しかしそれはプロがアマを、ベテランが新人を手取り足取り指導したとかびしびし鍛えたとか、増してや押し着せたとか操ったとかそういうものでは全くないと思います。両者のキャリアやスキルの差は歴然だったでしょうが、それでもこれは限りなく対等の共同作業だったのではないか、そう思わせる自然さや自発性、そして内側からの勢いがあります。「作った」のではなくて「出来た」作品です、これは。

あえて言えばヤン富田は、彼女たちに「教えた」のではなくて「思い出させた」のだと思います。何を?前世の記憶を?「人は人を教えることは出来ない、思い出させるだけだ」と、プラトンもアウグスティヌスも言っていますが。それはともかく。
つまり間違い無く彼女たちは経験不足の新人であったわけですが、同時に本当は何でも知っている何でも出来る海千山千のすれっからしでもあるのです。彼女たちがメジャー・デビューアルバムで成し遂げた大変化や大進化は、一方で奇妙なデジャ・ヴを伴う静謐なものでもありました。それが1990年代にロック・バンドとしてデビューするということです。
「踊ってばかりの国」/ハバナエキゾチカ (前)
2005年10月17日 (月) | 編集 |
踊ってばかりの国 踊ってばかりの国
ハバナ・エキゾチカ (1991/04/21)
ミディ

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元ネタ前フリ

「LOVEが大事」というミニ・アルバムをインディーズで発表し一部で話題になっていた女性4人組のファンクロック・バンド”ハバナエキゾチカ”が、1991年にメジャー・デビューを飾ったアルバム。その後もう一枚アルバムを発表してバンドは解散、中心メンバーはBuffalo Daughter というバンドを新たに結成して今日に至るらしいですが、こっちの方は僕は知りません。彼女たちが作ったのならいいバンドに決まってると思いますが。

インディーズ時代は「女だてらにバカテク轟音ハード・ファンクロック」を聴かせるバンドとして名をはせ、「LOVEが大事」も概ねそういう内容。やや力みが目立っていかにも素人臭い作りですが、それでも基本的な能力の高さとプロデュースの拙さで引き出し損ねているものの潜在的な成熟も見て取れました。
そこにヤン富田という当時の日本のクラブ/ダンス/ブラック系では屈指のプロデューサーを迎えて作られたメジャー・デビュー・アルバムでは、当然そこらへんが整理されて思うさまバカテク轟音(以下略)を堪能出来るものと誰もがそういう期待を持って新作に臨んだはずですが・・・・。

いやあ、びっくらこきました。商品間違えたかな?とまでは思いませんでしたが、ここはどこ?私は誰?という状態には一瞬確実になりました。
例えばツェッペリンがデビュー前にレコード会社へのプロモ用として、手間仕事に忙しいJ・P・ジョーンズ抜きで実際の1stより少し粗い楽曲を集めたテープを録音していたとしましょう。それを聴いていいバンドだね可能性があるよと言っていた人が、ほらあのバンドのデビュー・アルバムだよと渡されたのがツェッペリンの4枚目(または5枚目)だったとしたら。
あるいはビートルズがアワナホージョーヘーンとかわいくビート・ロックをかましていた次の瞬間に、突然覚醒してor気が狂って『ホワイトアルバム』を作ってしまったとしたら。びっくらこくでしょ?何これ?と思うでしょ。そんな感じ。

具体的にはまず”轟音”がいっさい消えています。
いや、基本形がファンク・ロックであるのは間違いないんです。ベースはブイブイ言ってますし、ノイジーなギター・ソロもちょいちょい挟まってはいる。でもそれらはみな極限まで簡素化されて、何かそういう音楽要素の骨格標本を見せられているようなそんな印象を受けます。「記号」としての”轟音”は健在だけど、物理的な音圧や心理的な威圧がいっさい取り去られているとそう言った方がいいかな。

代わりに前面に出て来ているのは、恐らくはプロデューサーが持ち込んだのでしょういわゆる”ダブ”の要素。そしてその特にリヴァーブ・サウンドのダルさから連想的に導き出された薄い皮膜としてのサイケデリックな感覚と、更に突き詰めてフォーキーな繊細さやフォーク・ブルースな倦怠感。
まあ単純に遅い曲が多い、または意識的に遅く緩くアレンジされた曲が多いということでもあります。よく聴くと跳ねてたりドライヴしてたりもするんですが、あくまで『骨格標本』であって派手な反応をするにはそれを自分で肉付けする想像力が必要。

こうして書くと全然変わってしまった、または雑多な要素が羅列してあるように聞こえるかもしれませんが、不思議と統一感があってしかも「幅を広げた」というよりは「元からあったものが順番に剥き出されて行っている」という印象を最終的に受けます。「進化した」という青臭さすら無く、むしろこういうダブっぽいサウンドの本職であり、前歴を知らなければハナからこういうバンドのように聴こえます。逆にロックナイズされた?みたいな(笑)。

ていうか・・・・気持ちいいです。”ハードなファンク・ロックで弾ける”期待感なんかどっか行ってしまいました。染みます、泣けます、眠れます。でも実は踊れます。染みながら踊れます。

後編に続く)

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「ザ・ファントムギフトの世界」/ザ・ファントムギフト
2005年08月16日 (火) | 編集 |
ザ・ファントムギフト
ザ・ファントムギフトの世界 / ファントムギフト

元ネタ前フリ

ジャンルぐるみで批評性の高さを競っていた感のあるジャパニーズ・ロック界(前フリ)においては、いいバンド=マニアックなバンドと定義してもさほど言い過ぎでないそういう状況にあったわけですが、特に威嚇的なスタイルを売りにしていたわけでもないのに更にそこからも弾かれてしまった悲劇の名バンド。

一聴してこりゃすげえ!と当時の音楽仲間に紹介して回ったものの、老若男女(?)あらゆるバックボーンの聴き手に揃ってハァ?という反応をされて、結構傷付いたなああれは。
・・・・つまり”悲劇”というのは僕にとっての”悲劇”でもあったわけですが(笑)。勿論一般社会でもそれは同じで、「それを(我々の意図を) 理解したのは残念ながら ロッキング・オンだけだった。」とメンバーも当時を振り返って語っていたりします。

今回書くに当たって色々検索で出て来たものを読んでみて、その後徐々に真価に気が付く人が増えていっぱしのカリスマとして歴史の中に、後発バンドの憧れの中に置かれているのを知って、だろ?というかざまあみろ!というか、お前は間違ってないよと当時の自分を慰めてやりたいというか(笑)。まだ僕が他人に何かを期待していた時代の酸っぱい話です。
「日本のロック」の楽しみ
2005年08月03日 (水) | 編集 |
Musical Baton注釈4、ザ・ファントムギフト編/日本のロック編に入る前の前置き。

ひょっとしたらJリーグ以上に世代差が問題になる領域かもしれません。物心ついた時には既にジャパニーズ・プロフェッショナル・フットボールリーグがあった世代と、無かった世代。
同様に日本人によるロック、日本語によるロックというものがジャンルとして確立していた世代としていなかった世代。

Jリーグの場合は身体言語であるサッカーはかなりの部分世界共通語であり普遍性をデフォルトとして持っているものですから、後は栄えてるか栄えてないか、歴史が古いか古くないかだけみたいなところがあるかもしれません。でも「英語」と「英語圏の文化」とイコールに近く密接に結び付いた、ローカルまたは特権的な音楽であるロックの日本版/日本語版は、Jリーグ以上に確立が困難で歴史の行きがかりによっては未だに確立していなかった可能性だってあるものだと思います。

ちなみに”確立”というのは大雑把にいわゆる”バンドブーム”(前後)以降の、日本語ロックが商業的に市民権を得た今日に至る現象を指して言っています。テレビの歌番組でロックバンドが異物としてではなく普通に出演しているのを見たり、オリコンでジャニーズとトップを争ったりしているのを見るのは未だにふと気が付いて不思議な感じがすることがあります。
まあユニコーンあたりを筆頭とする初期の主だったバンドたちは、実際には社会的にそのレベルまでは行かなかったわけですが。BOOWYなんかでもまだ「殴りこんでいる」というようなニュアンスが残っていたように記憶しています。逆に言えばその頃が注釈抜きの『歌謡曲』がジャンルとして存在していた最後の時代。

・・・・と、ここで日本のロックの概説をやるつもりは無いですが、そのようにある種幸運に成立したジャンルとしての「日本のロック」の楽しみを僕なりに思い切ってまとめると、”ロックの本質の純粋培養”みたいなものとなります。
つまりここまで駆け足で展開して来た、素材となる対象への憧れ/敬意→一体化の不可能性/適切な距離感の発見→解釈/換骨奪胎→独自性の獲得というロックの基本作業が「日本のロック」の確立過程においても見られるのであり、しかもそれがより純粋・露骨・過激な形で表現されているのが醍醐味であるとそういうことです。
ロッド・スチュワート「アトランティック・クロッシング」(後編)
2005年07月13日 (水) | 編集 |
トゥルース&ベック・オラ トゥルース&ベック・オラ
ジェフ・ベック・グループ (1999/09/29)
東芝EMI

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スーパースターはブロンドがお好き スーパースターはブロンドがお好き
ロッド・スチュワート (2005/10/26)
ワーナーミュージック・ジャパン

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前編元ネタ

このようにロッド・スチュワートは異なった3つのスタイルを、どれを「本分」とも主張し得るようなレベルで使い分けるわけですが、これは実は結構レアなことだと思います。

例えば1の歌心を大事にする人は2の楽器としてのある意味道具(”インストゥルメント”のそもそもの意味)的な使い方には圧迫感を感じるでしょうし、逆に楽器的な歌い方の得意な人、先の例で言えばツェッペリンのR・プラントやD・パーブルのI・ギランなどは、いざ歌心を要求されると形だけなぞったような空々しいものしか見せられなかったりします。そんなのは最初から捨ててるセックス・ピストルズのジョン・ライドンのような潔い人もいますが(笑)。
3.”記号”的なヴォーカルについては要するに上手く己を虚しうすれば元のスタイルが何であれ適応は可能でしょうが、そうでないと生な歌心や楽器としての威力がデザインのバランスを崩してしまいます。

ではなぜロッドにそれが可能だったかというと、まずは勿論ロッドのヴォーカリストとしての基礎能力の高さ、声量なり生まれもった歌心なり技術なりが挙げられます。
往々にして「個性」や「スタイル」の決定というのはその人の可能性を限定する見切ることによって固定されるものなわけで、特に『商品化可能なレベル』というものを要求されれば尚更です。ロッドの基礎能力の破格さが、ロッドに多くのヴォーカリストにはない自由を与えた。

ただそれよりも僕が強く感じるのが、冒頭で述べた「解釈の天才」としてのロッドです。自分が持っているものを客観視し、その一つ一つに徒らに拘泥せず、目の前の音楽が要求するものを虚心に的確に察知して100%、いや120%応え切る自己プロデュース力。むしろ自己愛の肥大が本業であるようなヴォーカリストという人種(笑)では稀有のことでしょう。

更に言うならば確かに他にも解釈力/自己プロデュース力を目立って発揮しているヴォーカリストは少なからずいます。先程挙げたジョン・ライドンやかのデヴィッド・ボウイなどは正にそうですし、ソロを基本として活動するヴォーカリストの場合は必要性もあってそういう能力を示している人は多いでしょう。バンドでもバンド自体が多彩さを売りにしている、例えばクイーンの故フレディ・マーキュリーなんかはそこらへんが素晴らしかった。

ただ解釈派のヴォーカリストの場合、原因であり同時に結果として「歌の上手さ」や「歌心」は売りにしていない、あきらめている、または犠牲にしているケースが多く、ライドンについては既に述べましたが、フレディなんかも技術的には「上手い」人ですししっとりした曲も多いですが、実際は全てが「ひどく巧みな物真似」であって、本当の意味で”歌っている”とは言えないと思います。
つまりやろうと思えばドロドロのド演歌歌手的なものにもなれるロッド・スチュワートみたいな人が、ここまでこういう能力を示しているというのは相当に変わったケースなわけです。よほどそちらの資質が高いのでしょうね。ゴリゴリのストライカーと見せかけて実はパノラマ視野のグレート・ゲームメイカーみたいなそういう感じ。
ロッド・スチュワート「アトランティック・クロッシング」(前編)
2005年07月13日 (水) | 編集 |
アトランティック・クロッシング アトランティック・クロッシング
ロッド・スチュワート (2005/10/26)
ワーナーミュージック・ジャパン

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ロッド・スチュワート。ハァ?もしくはプッというのが主要な反応でしょうか。
伝説と言う以上に過去の人・昔の流行りものであり、温故知新を志す奇特な若人にとってさえもあえて手に取るモチベーションや歴史的意義が見出し難い存在。とりあえず大多数の普通の人にとっては、CMで繰り返し使われる名バラード”Sailing”を歌っている人ということになるでしょうか。・・・・ああ(笑)、「サッカー好きの有名人」の代表的存在でもあるか一応。

ペンタングルなんてディープなバンドを紹介した後にロッド・スチュワートを持って来るのは、何も僕がここらで1つ物分かりの良いところを見せようとか自分の幅を誇示しようとかそういう狙いがあるわけではありません。それどころかやろうと思えばほとんど同じ論法でペンタングルとロッド・スチュワートを褒めることが可能です。
つまり僕にとってのロッド・スチュワートは単なるしみじみとバラードを歌い上げるソウルフルなシンガーでも、増してや”I’m Sexy”でディスコブームにあっさり身を売ってしまった頭カラッポのポップスターでもなく、むしろ相当に知的な、「解釈の天才」的な稀有のヴォーカリストなのです。

実はそれほど網羅的に聴いているわけでもないのですが、その限られた範囲でも僕が思うに少なくとも3つの本質的に異なるスタイルのヴォーカリゼーションを、それもハイレベルでロッド・スチュワートは使い分けています。大別すると
1.”歌”としてのヴォーカル・・・・代表は上記”Sailing”も収録されているこのアルバムか。
2.”楽器”としてのヴォーカル・・・・何と言っても第1期ジェフ・ベック・グループ
3.”記号”としてのヴォーカル・・・・とりあえず”I’m Sexy”。
となりますか。以下説明を。