ヴェルディ、代表、グラドル、漫画、アニメ、等
『それでもボクはやってない』
2008年03月02日 (日) | 編集 |
それでもボクはやってない スタンダード・エディションそれでもボクはやってない スタンダード・エディション
(2007/08/10)
加瀬亮;瀬戸朝香;山本耕史;もたいまさこ;役所広司

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フジでやってたのを見ました。

オープニングの煽りでは、「日本の裁判制度の悲惨な現状を告発」どうたらとか言っていたので、まあ痴漢冤罪事件の話なんだから何らかそんなような内容ではあるんだろうけど、そんな一面的な主張でわざわざ周防さんが”映画”を一本作るかなと疑問に思ったら、やっぱり違ったようで。
苦労実らず有罪が確定してしまった後の主人公の、「裁判は真実を見極める場ではなく、手に入る材料から仮に有罪無罪を決める為の場でしかない」(細部おぼろげ)という心の叫びから見えて来るのは、「”裁判”そのものの不可能性」の洞察という着地点。

そう、ここまでやらないとね。”芸術”や”表現”にはならない。”映画”が特定の主張の道具化してしまうというか。”新聞”や”論文”なら、道具でいいんでしょうけど。

勿論上の「洞察」は極論ではあって、個別の問題としては正に『日本の(刑事)裁判制度』の問題や、(証拠のほとんど存在しない)『”痴漢”事件の難しさ』というのが前の段階としてはあるんでしょうけど。特に後者は大きいですね、今回は。
ただ作品中、主人公を有罪にする(観客からすれば)”分からず屋の”裁判官を、極力”悪意”ではないように描こうとしていたのは、やはり周防さんの思考・直観がそうした洞察の方にどうしても至らざるを得なかったことを示している(ことから来ている)わけで。

司法関係者(特に裁判官)も官僚制度の一員だからというフォローは基本言い訳だとしても、ぶっちゃけ目一杯主人公側に立っても、最後の論告求刑の際の裁判官の述べた論理そのものは、かなりの部分もっともというか、そういう結論に至るのも間違いとは言えないなと感じましたが。
論理的には、ああなっても仕方がない or ああとしか言いようがない。

そうそう、人文的ではなくてトピックス的な感想としては、今まで「陪審員」=「裁判員」制度というアイデアには、特に日本の非論理的な国民性を前提にするとどうしてもいかがわしさの方を多く感じていたんですが、官僚制度のしがらみから距離を取れるという点で、一定の可能性はあるのかなと今回改めて感じました。
少なくとも努力次第で説得出来る可能性、説得出来る相手が増えるのはいいことかも。よほど特別に法律的にデリケートな案件でない限り、「信用できない」という意味では”素人”も”玄人”も大して変わりないと、それこそこの映画などは見せてくれているわけだし。


で、人文的な話に戻りますと(笑)、なぜ「裁判の不可能」という洞察に至るかというと、それはつまり『論理』の限界、『決め事』『制度』の限界、『人間のやること』の限界というのがどうしようもなく根底にあるからで。
だから法は要らないということでは勿論無くて、要するに「カエサルのものはカエサルに」(神のものは神に)という悟り、割り切りですが。主人公が得たのもそういう悟り。

裁判制度や”日本の”刑事裁判制度や、はたまたあらゆる「制度」の改良に努力する、または当事者としてアピールするのは勿論それはそれで大事なんだけど、どこまで行ってもそうしたものが個人的真実や”魂”の要求を完全に満たしてくれることはあり得ないので、ひっきょう最初から線を引いておくのが戦略としては安全性が高い。自分の魂を守れるのは自分だけ。

また格言的なものを引くと(笑)、ソクラテスが「悪法もまた法なり」と毒杯をあおったのも、”順法精神”とかいうのもまああるんでしょうが、そもそもは誇り高き哲学者として、法律如きに過大な期待をする気が最初から無い、法は法、真実は真実だと、そういうことではないですかね。そんなところで必死になるつもりはない、”サルどもにくれてやる言い訳は無いわい”・・・・あ、いかん、つい個人的感情が。(笑)
ま、一応ソクラテスも一通りの『弁明』はしたようですけど。(笑)

言っておきますがこれらはあくまで”人文的”な問題で、つまりは社会や制度がどうだろうと、最終的にいかに個人が精神的にサバイバルするかという戦略の問題ですね。危機管理というか。(”格言”の解釈も至って我流です・笑)
ただまあ、実際にみんなが(法制度に代表される)「社会」に、こんなような割り切りを最初から持つことが出来たら、社会にあれこれ押し付けたり何でもかんでも依拠したり、社会を舞台にやたらパフォーマンスしたがる傾向も収まって、結果的に静かないい世界になるかなと、そんな風に思わなくはないですが。

”世捨て人”どうしが作る”世”って、案外暮らしやすいいい”世”かもしれない。(笑)


(追記)

以上のように法制度の「真実」確定機能に一定の限界があるのは仕方がないことなわけですが、だからこそ有罪が確定していない人への扱いはもうちょっと何とかならないものかと、留置・拘置所のシーン見て思いました。てめえ敬語使えこの野郎
”尋問”のテクニックとしての圧迫はギリギリ許すとしてもね。そこらへんは改善可能な事柄でしょうに。ま、単なる習慣・驕り・油断なんでしょうけど。

僕も尋問ならば相当耐える自信はあるんですけどね。のべつとなるとどうかな。・・・・ああ、だからやるのか。


ハリポタ>>(越えられない壁)>>ロードの理由
2007年04月01日 (日) | 編集 |
azkaban

ハーマイオニーかわいいよハーマイオニー。今更ですが。

別にシャクレが好きとかそういうことは全然ないんですけどね(笑)、そこらへんに関してはエマ・ワトソンの将来が気の毒なものになったりしたら嫌だなと心配しているところですが。

とにかく性格が好きですねハーマイオニーは。前にどこかで書いた気もしますが。
頭はいいけどその分優等生で少し固いところもある、昨日やってた『アズカバン』
ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 ハリー・ポッターとアズカバンの囚人
ダニエル・ラドクリフ (2006/12/08)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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では占いオバサンに「おばあさんみたいに萎びてる」とか言われてキレてましたが(笑)、そういう自分を自覚して、ハリーなどのそうでない人の美点を認めて、でも恥じず媚びず、常に”優等生”としてのベストを尽くす。
エラいですね、いじらしいですね。

結局のところ、自分がどういう人か、どういう「性格」かなんてのはどうでもいいんで、極端に言うと。自分のそういう「性格」を、そういう性格である自分をどのように扱うか、どのように乗りこなすかが問題なので。
”よい”性格と”悪い”性格なんてものはない。よく扱えば”よい”人になるし、悪く扱えば”悪い”人になる。またはなり得る。どんな性格も。

そういう意味でハーマイオニーは、『優等生』である自分を実に”よく”生きていると思います。おばあさんみたいだっていいじゃないか(笑)。そういう”おばあさん”みたいなキミがかわいいと思うよ僕は。・・・・え?嬉しくない?(笑)。やっぱり?


で、表題のハリポタ>>>ロードの理由ですが。
とりあえず「ファンタジー」としての徹底性の差だと今までは定義しておいたんですが、もう少し精密化。手がかりとしては1つは
1.昨日の『ダイノトピア』法典のユートピア性の話。もう1つは
2.BS2の新作アニメ『精霊の守り人』前夜祭対談(3/26)で原作者上橋菜穂子さんが言っていた、「『ロード』はファンタジーとは言っても別世界ではなく、中世ヨーロッパ社会のカリカチュアだ」という話。

つまり特に自覚していなかったですが、僕がファンタジーに求めているのはあくまで別世界/ユートピア性、それを構築する中で見せることの出来る何らか理想的なもの、それでもって一種のロールモデル(手本)を観客or読者に示すことなわけですね。
どんな化け物やおどろおどろしい要素が出て来てもそれは構いませんが(ていうかそういうものですが)、最終的に何らか”きれい”なものを見せてくれなくては意味がない。現実逃避すら出来ないとそういうわけです。

これだけだとちょっとアホみたいですが(笑)、例えば”ユートピア”と関連するもう1つの小説ジャンル「SF」においても、『思考実験』という形で現実のオルタナティヴを示すという目的は本質的に存在しているわけです。

で、”カリカチュア”としての『ロード』は、少なくとも映画だけ見てる範囲では要するに「人間は汚い、社会は厳しい、頑張って生きろ」というそれだけの話に見えるんですね。そんなことは言われんでも分かってるんで、そこにあえてフィクションが作られる理由・目的、あるいは機能のようなものが特に見えなくて、単に「暗くて重い話だなあ」としか感じられないんですね。
たまたま道具立てがそれ(ファンタジー)っぽいだけの、出来の悪い社会派ナンタラくらいにしか見えないという。原作は違うのかもしれませんが。


要はハーマイオニーがかわいいということを書く大義名分欲しさに、また面倒なこと書いてしまいましたが。(笑)
いやあ、しかしあのヒポグリフが助かったのはほんとに嬉しかった。あれ殺しちゃうと世界観壊れますよね。カリカチュアへの道を踏み出してしまうというか。


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”ダイノトピア法典”
2007年03月31日 (土) | 編集 |
  その1  一滴の雨粒から海が出来る

  その2  滅びる時は全てが滅ぶ

  その3  武器は持つ者にも敵である

  その4  多くを与え少なくもらえ

  その5  他人を先に自分は後に

  その6  見よ聞け学べ

  その7  一度に(全てを求めるな?)

  その8  毎日歌を歌え

  その9  想像力を働かせよ

  その10  生きる為に食べよその逆をするな


  その11(特別編)  光を見つけよ


・・・・絶滅を逃れ進化した恐竜とヒトとが共存する、外界と隔絶したユートピア”ダイノトピア”

ダイノトピア DVD-BOX ダイノトピア DVD-BOX
タイロン・ウェイツォ (2003/09/26)
ビクターエンタテインメント

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に伝わる『十(十一)戒』ですが。なかなかいいと思いません?(笑)
道徳というより基本精神ですね。これをやるな、ではなく、こうすると良いという方に重点。
”その7”は映画では途中で切れてたんですが、英語と日本語の語順の差から推測。
個人的には”その6”がお気に入り。

内容も内容として、これがいいと思うのはあくまで「”ダイノトピア”の」という相対性、輪郭がちゃんとあることですね。客観的真理や絶対の正義ではなく、一つの国、一つの文化の内部の話として、しかしそれ自体としては熱心に、自信を持って、学校に入ったばかりの子供たちに真っ先に教えられる。
これが正しい、ではなく、これがこの国の精神だ。我々はこれが素晴らしいと思う、という体裁。

全ての国はしょせん”ダイノトピア”だということでもあります。(笑)


なかなか楽しいファンタジー映画でした。特に『第1章』かなやっぱり。これ(↑)が出て来る。

ダイノトピア 第一章 地図にない島 ノーカット完全版 ダイノトピア 第一章 地図にない島 ノーカット完全版
タイロン・ウェイツォ (2003/09/26)
ビクターエンタテインメント

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ウェントワース・ミラーってやっぱり独特の魅力のある俳優ですね。『24』では熱血なだけでよく分からなかったですが、むしろここでの少しオタクな感じが本来なんでしょうね。で、この2つの中間が『プリズンブレイク』。

名前がかっこいいんですよね(笑)なんといっても。”ウェントワース・ミラー”。なんか意味深げでしょ?(笑)


ダイノトピア 第二章 太陽の石 ノーカット完全版 ダイノトピア 第二章 太陽の石 ノーカット完全版
タイロン・ウェイツォ (2003/09/26)
ビクターエンタテインメント

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ダイノトピア 第三章 地下世界への扉 ノーカット完全版 ダイノトピア 第三章 地下世界への扉 ノーカット完全版
タイロン・ウェイツォ (2003/09/26)
ビクターエンタテインメント

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『スターゲイト』リターンズ
2007年02月20日 (火) | 編集 |
スターゲイト SG-1 シーズン1 DVD The Complete Box スターゲイト SG-1 シーズン1 DVD The Complete Box
リチャード・ディーン・アンダーソン (2006/05/31)
カプコン

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第9シーズン第2回放送の感想。
いや、ずっと続けはしないと思いますけど。

なんというか、むしろ『アトランティス』は新企画ではなくて、場繋ぎの時間稼ぎの為に作ったんじゃないかと思うくらい、本格的な再スタート感。
”つづき”ではないんですね。「第9シーズン」というより「第2ステージ1stシーズン」という感じ。

”つづき”というのはつまるところ『敵の交代』、ゴアウルドとの戦いに”新たな展開”があるとか、ゴアウルドやレプリケーターに代わる新たな強敵と出会うとかそういうことなわけですが、今回はそういう少年ジャンプ的無限展開(笑)にきっぱり終止符を打って、ストーリー構造そのものの刷新が図られている。
まあ、終了予定だった第8シーズンで慌ただしくもあからさまに色々と畳んでしまったので、こうするしかないというのはそうですが。

そういう不作為な部分も含みつつ、今回は『スターゲイト』シリーズのバックグラウンドでありアイデンティティであった、銀河神話体系的な「世界観」の方の再点検、掘り下げ、場合によっては書き換えまで視野に入れた探求に本格的に舵取りがなされて、非常にワクワクするというか、再生感が強力というか、これからどうなるのか久しぶりにさっぱり分からないというか。
それでも何かと”戦わ”なくてはいけないだろうと思うので(笑)、それどうすんのかな、そこでルーティンに帰って来ちゃうとマズいよなあとは思いますが。

いや、面白い。
世界観そのものを問うストーリーになると何が変わるかというと、例えば今回の話で言えば異世界(まだ分からない)の住人の体の中に意識だけ飛ばされたヴァーラが”試しの火”で焼き殺されそうになるシーンも、ただの「ピンチ」として救出や救援を望むのではなくて、その”試しの火”のバックにある宗教体系/神が本物である(ただの「敵」ではない)、つまりその”試しの火”が本当に”試しの火”であるという可能性を見越して、助けが来なくても一回死んじゃっても、ニヤニヤしながら見てられました。
あらゆる可能性を考える必要がある、期待出来る楽しさ。


今回も新キャラ登場。
非業の死を遂げた密かな人気者の前任者を承けて登場した若い女医さん、妙に偏屈で態度が大きいなと思ったら司令官の娘か。・・・・ただし彼女はどんな職場でもあの態度だと思いますけど(笑)。そういうタイプ。

遺伝を感じるなというのと、ライターの好みを感じるなというのと。
ついでに加藤夏希

Love Song―加藤夏希写真集 Love Song―加藤夏希写真集
川島 文行 (2002/09)
朝日出版社

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に似てると思います。(笑)


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『スターゲイト』にあって『アトランティス』にないもの
2007年02月13日 (火) | 編集 |
season9

『スターゲイト』第9シーズン、待望の放送開始。
スピンオフシリーズの『アトランティス』がほとんど罰ゲーム状態で、ストーリーの構造はほぼ同じなだけに「そもそも『スターゲイト』ってどういう風に面白かったんだっけ」という根源的な疑問にすらかられかねない心境になってただけに不安が大きかったですが、期待以上の出来で安心、落涙。
まだ始まったばかりですし、過去作と比べてどうとかは何とも言えませんが、ともかく一定の信頼感を持って見ることは出来そう。

良かったところを挙げてみると、

1.新主人公の”旅の仲間集め”趣向

新主人公ミッチェル中佐が、『アトランティス』のシェパード同様の無個性な二枚目の軍人さんであることが判明した時は、いきなり二の舞の不安(”二枚目”だけに?)がよぎりましたが。

話は黄金の日本Jr・・・・もとい栄光のSG−1の4人がそれぞれ新たな目標を見つけて去っていった後の抜け殻に着任してしまった新隊長ミッチェルが、VIPになってしまったオニール以外の3人を引き戻すべく説得行脚に出るところから始まります。
この設定の優れているところは、

3人のSG−1的”冒険”任務に対するモチベーション

の問題と、この超長寿シリーズの基本設定に対する

視聴者及び製作側の避け難い飽き

の問題とが、ちょうど重ね合わせた形になっているところです。
つまり3人が冒険のモチベーションを確認・回復する過程が、視聴者のそれとも上手く重なって来るわけですね。「やっぱり(SG−1的)冒険って楽しいよな」とみんなが思えたら成功、新シーズンスタートの準備完了。よく出来てます。

2.新キャラの質

ヴァーラについては既にシーズン8登場時に市場調査(笑)ずみでしょうし、カーターと恐ろしく違うタイプなので存在価値がありますね。それとある面陰鬱なところのあるキャラであるダニエルを妙に感情的にさせる存在ということでも貴重。

嬉しい誤算だったのはSG基地の新司令官ランドリー将軍で、オニールともまた違ったねじくれたユーモアセンスを持ちつつ軍人らしさも失わない、まだこんなヴァリエーションがあったかというそういうキャラで、”新司令官”という過去を見てもある意味一番難しいポジションで既に合格点かなと。やっぱ腕あるなあ、ここのライター。
多少大統領に似てる気もします。


で、本題の『スターゲイト』にあって『アトランティス』にないものですが。

割りとはっきりしていると思いますね。大きく2つ。
1.”冒険”と対比される現実性・日常性
2.「神話」的「伝奇」的背景

だと思います。

1.は端的には”地球”という現実的な母体があるかないかということになるんでしょうが、実は架空であるはずの”SG基地”(とそこの人間関係)自体、『スターゲイト』の中では既に強力な現実性を獲得しているわけで。あの「帰って来た」感は強力。
対して『アトランティス』は一から十まで作り事というか、芝居の書き割り的というか。同じことをやっても重みが違う。

2.は1.と逆のようですがそうでもなくて、『スターゲイト』が単なるSFとは違うファン層(僕のような?)を引きつけ、また同時に”宇宙冒険物語”に変な現実性・レトロ趣味をもたらしているものだと思います。宇宙空間で”禹”だの”雷神トール”だのといった古代神(しかも妙に人間臭い)に出会う違和感と喜び。
今回も魔術師マーリン、アヴァロン、エクスカリバー(ではないらしいですけど)といった語彙に、他愛なく萌えてしまいました。対して『アトランティス』は一から十まで(以下略)

要するに設定に工夫が無さ過ぎるということですね『アトランティス』は。決して質は悪くないのに。『スターゲイト』がなぜ面白かったのかという研究が足りない。
逆によくあれで企画通ったなと思いますが。


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『私の頭の中の消しゴム』/愛と人格と魂
2006年12月19日 (火) | 編集 |
”記憶と人格と魂”編から。


「(誰を愛しているかなんて)愛された本人が一番わかるだろう?」

自らもアルツハイマーで妻を亡くした経験を持つスジンのお爺ちゃん主治医が、自分と昔の男の区別がつかないように見えるスジンを見て動揺するチョルスに向かって言う、見かけによらない(?)名セリフですが。これはちょっと微妙、というか複雑。

結論的に言うとそれは人による、または愛の形による、ということになると思います。
つまり『人格』レベルの愛ならば人格と共に消えるだろうし、『魂』のレベルに達していれば、人格が消えても何らか残るだろうということ。


(愛と人格と魂) 〜並列的視点

よく「女はすぐ忘れるけれど男はいつまでも引きずる」というような言い方がされますが、それが事実なら、女は人格で愛するが男は魂で愛する・・・・ではなくて(笑)、男はその特有の支配欲の強さまたは特有の支配欲の形により(女には女なりの支配欲の強さがあるでしょう)、人格と魂or人格や魂全てを含み込んだ「自分」というシステム全体を統一的に把握しようとする、統一的なものと考えたがる傾向があるが、女はあまり頓着しないというそういうことがあるのではないかと思います。
起きている事態の捉え方の違い、または処理の仕方の違い。”恋愛”中の人格と一緒にポイするか、普遍化して「自分」システムの中枢部に残そうとするか。

例えば母子の結び付きや成人がペットや頑是ない子供に寄せる惻隠の情などに比べれば、男女間のいわゆる「恋愛」というものは生物的にも文化的にも、明らかに社会的で人工的で観念的な部分の大きい感情であり、そういう意味では『人格』レベルでの処理により相応しいものと言っていいのではないかと思います。
だからこそ生物としての「ヒト」が社会的な「人間」になるための訓練として有益だと、古来言われているわけで。恋愛は人格でするもの、人格は取り替えの利くもの、つまり畢竟女のポイ捨て処理法の方が正しい・・・・のかな。(笑)


(愛と人格と魂) 〜階層的視点

しかしでは愛は魂とは関係がないのかと言えば勿論そんなことはなくて、人格作りに悪擦れした多重人格者の泡沫人格ででもなければ、どんな人格もその人の魂から出て来る、その人の魂との結び付きを保ちつつ、その人の魂が世界や社会の中で生きて「自己」を「実現」するための必然的方便として形成されるものであるので、例え入り口は『人格』であってもいずれ、または同時的にその愛は互いの『魂』とも接触し、影響を残すわけです。

”影響”の幅は随分ありますけどね。皆さん骨身に染みている通り(笑)。片方にとっては魂でも片方にとっては人格でしかないという、ありがちな悲しいケースだとか。あるいはいわゆるリゾラバ(古い?)や、映画『スピード』で語られて有名になった「危機的状況で結び付いた男女は長続きしない」理論や、更に言えば現代風俗における60分1本勝負の擬似恋愛(?)など、あらかじめ状況によって限定性を刻印されているものなども含めて。

一般的に大きいのはやはり時間や時期という問題。つまり
・愛が人格を通して魂に浸透するには一定の時間がかかる。
・ある人の発達や人生において、魂の影響度や活躍度は時期によって様々であり、どの時期の恋愛かによって浸透度や定着度に差が出る。
というようなこと。

大まかに言えばやはり古い方が有利と言えるかも。定着・沈殿の為の時間の長さと、そしてより幼くより無防備で、その分『魂』が剥き出しに活動していた時期に行なわれる恋愛、形成される関係。
勿論ある人の”重要な時期”がいつ訪れるかは分かりませんし、逆に経験を積んで成熟したからこそ(魂を含めた)全人的精神活動が可能になって、それによって初めて出来る”深い”恋愛というものもあるでしょう。素材(相手)の当たり外れという身も蓋もない問題(笑)は言うまでもなく。
『私の頭の中の消しゴム』/記憶と人格と魂
2006年12月18日 (月) | 編集 |
私の頭の中の消しゴム 私の頭の中の消しゴム
チョン・ウソン (2006/03/10)
ジェネオン エンタテインメント

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フジで録画しておいたのを見ました。僕の”立場”からざっと結論だけを。


「記憶や人格が消えてしまったら、魂も消えてしまうの?」 (byスジン)

消えません。記憶とそれを基にした『人格』と、『魂』とは別のものです。
『人格』とは特定の人生経験(の記憶)によって形成された、偶々(たまたま)そうであったその人。
時間が物理的に戻せないという意味では必然的なものですが、それでも数多ある可能性の一つであり、理論的には偶然のたまものと言うべきものです。(その”偶然”性にあえて深い意味を被せようとする/したものが、「運命」という概念。)

それに対して『魂』とは、それら『人格』(の偶然的諸可能性)の背後or奥底or前提にあって、より必然的で永続的で、その人がその人である「本体」を担うものです。
それは何かと問いたくなるでしょうが、実際にはこれは定義そのものであって「中身」の特定にはあまりそぐわない概念です。ゼロはゼロ、イチはイチです。リンゴやミカンではありません。
あえて選り好みせず(笑)候補を探せば
 ・”輪廻”の究極的主体
 ・”前世”の経験・記憶・人格(の残滓)
 ・集合的無意識や人類的情報プールからその人用に型取られた素材
 ・DNA等受精卵の時点で持っている遺伝情報
 ・胎児期にホルモンや母体の経験/感情によって決定的に形成される何か
 ・乳・幼児期に刻み付けられる親や周囲の世界からの臨界的影響
 ・ともかくも”ものごころ”つく前のその人
 ・ともかくも”自我の目覚め”前のその人
 ・現在のその人(の『人格』)を形成したある決定的な経験or時期以前のその人
....etc。古い順(?)に思い付くものを並べてみるとこんな感じでしょうか。

それが何かというのは僕には聞かないで下さい(笑)。あえて言えば個人的に遺伝の影響は軽視しています。影響力自体は決定的ですが、そもそも決定している範囲が狭い/初歩的過ぎて今回のような関心との関係は薄いように思います。

ともかくも『人格』の偶然性の背後に感じられる、その人がその人である本体性一貫性のかたちが『魂』です。そしてそれはあると、認知症や多重人格(解離性同一性障害)などで(あるいは単なる”心変わり”で)その人の見かけの既知性が散逸しても、それを見出す・感じ取ることは可能だと僕は思っています。

科学的理論的に慎重に言えば、『人格』と『魂』と、永続性に差のある二つのアイデンティティがあると、そう言った方がいいのかもしれません。
ただ胎児期や乳幼児期など、発達早期の研究/重要性の認識が進むにつれて、”人格”や”人生経験”に重きを置いた人間の見方の有効性はある面減衰傾向にあると、そういう風に僕には見えます。(そして『オーラの泉』と。)

”愛と人格と魂”編につづく)

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”バイオグラフィー”ブルース・ウィリス(前)(後)
2006年11月03日 (金) | 編集 |
willis

大胆な宣伝戦略のつもりなのか逆に採算度外視の金持ち商売なのか、毎月第一日曜日の”開放デー”のみならず、最近はその前後1週間あまりも気前よく無料放送をやってくれるスカパーch370ヒストリーチャンネルにて。
必ずしもその内容がどうという話でもないんですが、ちなみに11/5開放デー当日の13:00〜15:00にもう1回無料放送があるので、見たい人はどうぞ。


熱狂的に名前を思い浮かべるのは、やっぱり『こちらブルームーン探偵社』や『ダイ・ハード』といった初期の作品だったりしますが、今回この前・後編を改めて見て、知っている作品が多いのでちょっとびっくり。
言われると思い出すんですけどどうも忘れるんですよね、この人って。『アルマゲドン』はさすがに憶えてましたが、『シックスセンス』も『パルプ・フィクション』も『永遠に美しく』も、今の今まで完全に忘れてました。映像が出て来ると「うーんあれはいい芝居だった」とか、そこまでちゃんと思い出せるのに、「『〜』の主演俳優は?」みたいな聞き方をされたらまず答えられなかっただろうというこの不思議。(ちなみに一覧

改まって言いますととても好きです。手放しといっていいくらい好きです。こういう番組で出演作品が次々に流れるのを見てると、自然顔がほころんで来るというかほっとするというか。

押しも押されぬ”スター”、それもアクションとコメディをレパートリーの双璧としながらも、あくまで”ほっとする””癒される”のであって、テンションが上がる方向にはどうも反応が行かないというそういう人。そこらへんがこの人の面白さであり持ち味であり、ひいては俳優としての凄さでもあるのだと思います。

つまりこの人は大小様々なタイプの映画で様々なタイプの役を、割りと意識して演じ分けている人ですが、知る限りそれらほぼ全てに共通して見出せる特徴があるように思います。それはなんというか・・・・独特の「現実感」、「平衡感」、あるいは「重り/アンカー感」のようなもの。そしてそれが彼に特有の埋没性や影法師性を与えて、上に書いたような「大好きなのに印象が曖昧」というような事態を引き起こしているのではないかと。どういうことか。
いいヤツはやりたい放題 嫌なヤツは言いたい放題
2006年09月19日 (火) | 編集 |
FOXチャンネルで放送中のメディカル・ドラマ、『HOUSE』の中のセリフ。
なるほど、至言だ。

”偽善者 v.s. 偽悪者”、とも置き換え可能かと。
僕はいいです、口だけの偽悪者で。(笑)
気が弱いので実際に他人のパイを削り取るのは耐えられない。
でも口に戸も立てられない。(笑)
なんであれこの俺様が黙っちゃいねえぜ。

それにしても久々の大傑作です、このドラマは。痺れまくり。


・・・・前使ってたのが余りに動作が不安定だったので、新たにライブドアブログで『過去の所長さん』を作り直しました。
まだ埋蔵画像の3分の1ちょいですが、すいすいアップ出来るので遠からず作業を完遂出来るでしょう。ライブドア万歳。どうか潰れないように。

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『こちらブルームーン探偵社』(つづき)
2006年07月14日 (金) | 編集 |
承前

こう説明するとなんかデイビッドが随分立派な奴みたいですが(笑)、基本的には口先三寸のぐうたら駄目男で、マディの突き付ける現代的な「正論」や「現実」に対して、ご説ごもっともだけどそれだけじゃあまりにも寂しいじゃないか辛いじゃないかと、自己弁護半分詭弁メイン、でも時々ハッとさせる深い洞察や温かな包容力で氷の女マディの心も溶かし・・・・かけるんだけどしょせんは駄目男だからまたマディを怒らせて元の木阿弥トムとジェリーみたいな、そんな感じでドラマは推移します。まあ一つのアメリカ的な男女関係の理想像でもあるんでしょうね。

そんな二人のやり取りで僕が特に印象に残ってるのは、パイロット版(1・2話)だったかな、一種の現代的なモードの一環として当たり前のように「無信仰」を公言するマディに対して、ろくでなしデイビッドが意外なほどの真剣さでその不心得をなじります。
勿論デイビッドは殊更信心深くも明確な内容の信仰を持っているわけでもないんですが、もっと素朴な情緒のレベルで、むしろ小さな子供がサンタさんや”神様”を信じ慕うようなそういうタイプの感情・衝動をもって、マディの理性の無慈悲に異議を申し立てます。はねつけられてもはねつけられても食い下がって、何とかしてマディに前言を撤回させようと、神様はいらっしゃると言わせようとします。

その姿の切ないこと。自分自身の日頃の信仰とは無関係に、誰もがマディの”理性”の頑なさ・貧しさを憎み、デイビッドと一緒になってお願いだから神様はいるといってくれ、じゃなきゃあまりに寂し過ぎるじやないかと詰め寄りたくなることでしょう。
・・・・まあ『アリーmyラブ』を見ていた人にはある意味お馴染みのテーマでしょうけどね。でも夢見がちなアリーではなく、俗っ気の塊の薄汚れた中年男のデイビッドがそれをやると変な迫力がある。

つまりこのエピソードに見られるような対立が、このツンデレストーリー(笑)の中心的な枠組であるわけですね。現代や理性という巨大な”ツン”を、いかに”デレ”させるか。
ただし復古は所詮復古でしかなくて、”デレ”の先に何かがあるのかどうかは誰にも分からないので、いったん成功した”デレ”もむしろ”ツン”にループすることによってカウンターとしての有効性をキープし続ける、そんな構造でお話は落ち着くわけですが。


まあ見てない人は機会があったら見てみて下さいな。特に男性諸氏にはデイビッド・アディソン兄貴の口説きの粘り強さを見るだけでも十分に価値があります(笑)。いやあとても真似出来ませんけど、尊敬しちゃいますねあれは。男はこうありたい。

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