2006年04月02日 (日) | 編集 |
![]() | ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還 イライジャ・ウッド (2006/07/19) ポニーキャニオン この商品の詳細を見る |
基本的に好きな世界で、かつ作り手の熱意も十分に感じるのに、前2作はさっぱりノレなくて寂しい思いをして(?)ましたが、ようやく楽しめました。
つかようやく監督の意図が分かりました。要するに・・・・”映像化”したかったんですね?
当たり前過ぎますか。でもそういうことなんです。
つまり何かを”表現している”と思って見てしまうと、ダークな割りに深みはないし、独自の解釈がなされている感じでもないし、さりとてハリポタのようにお楽しみ会に徹しているようにも見えないし。
でも分かりました。好きな作品を絵にしてみたかった、動かしてみたかった、そういうことでしょ?それだけのことでしょ?それなら分かります。このオタクめ。アマチュアめ。(笑)
いやあ凄げえ『絵』ですよ。それで十分。特にミナス・ティリスやそこからの狼煙が伝わって行く高地/高山系の映像の美しさ、及びゲーム的に言うとLサイズ系(笑)のモンスターの力感は見惚れました。
ただ・・・・疲れますけどね、個人的には。
ファンタジー(&SF)は日本的なアニメ、セル+αの方がすんなり入って行けてその分内容に集中できると思います。逆にリアリティもあるように思いますし。どのみち作り物でしょ?絵空事でしょ?現実を擬装すればするほど寒々しい気がするんですが。ご苦労様というか。
ま、”とにかく映像化してみたかった”ロードはそれでいいわけですけど、僕の解釈では。(笑)
ナルニアも見てえなあ。(好きなんじゃん)
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2006年03月25日 (土) | 編集 |
![]() | 下妻物語 スタンダード・エディション 深田恭子 (2004/11/26) 東宝 この商品の詳細を見る |
今回はアタシらの勝ちってことで!! by イチゴ(土屋アンナ)
クァッコイイーーー。
しかしあんたどっから声出してんねん土屋アンナ。この決めゼリフに限らず、なんかいわゆる「腹の底」を更に割ったような、腹の底の底の裂け目みたいなもう表現不能なところから出て来る感じの声。
多分何か、プロフェッショナル的見地からは間違った発声なんじゃないかと思いますが(笑)。削らんでいい命まで削って出して、こんなんいつもやってたら到底続かないという。
いずれにしろ、喘息持ちで深い呼吸自体が苦しい僕には夢のまた夢、ある意味憧れる。ただの天然ハスキーババギャルじゃなかったんだ。舐めててすまんかった。
舐めてたと言えばこのタイトルに流行りものということで、てっきりどうせまたクドカンだろうと一応録画はしといたものの見る気にならなくてしばらく放置してたんですが、無関係でした。封切り時、見ないでいいと僕を信用している友達に言ってしまいましたすいません。(笑)
あえて「流行りもの」ということで言えば原作は嶽本野ばらですが、こちらは前に映画化された『世界の終わりという名の雑貨店』
![]() | 世界の終わりという名の雑貨店 西島秀俊 (2002/05/25) 松竹 この商品の詳細を見る |
が割りと気に入ってたのでむしろ知ってたらプラス材料でした。なんか知らんがほんとに才能のある人らしい、いつか読んでみよう。
2006年03月15日 (水) | 編集 |

シーズン5で終了。
初回放送に乗り遅れてしまって、ネタバレを恐れて2chの感想戦に参加できなかったのが悲しかったですが、自分なりに書き残しておきます。
正直よく分からない終わり方でしたが、とっくに一貫したストーリーとしては破綻してたのでまあこんなもんかと。その破綻をその場凌ぎのアイデアでここまで持たした脚本家(ジョス・ウィードン)はやはり大したもの、特に期待のなかったラストシーズンも十分に楽しめました。
特にツボだったのが主人公側パーティーの紅一点”フレッド”の肉体を乗っ取る形で復活した古代神”イリリア”の存在。(写真)
そのゴシックかつ優美なヴィジュアルの魅力及び裏腹の超絶パワーもさることながら、「宿主」とすらも呼べない完全に制圧・消滅させられた状態であることを知りながら、それでもその外見が想起させる元々の”フレッド”の面影に心をかき乱される元恋人ウェスとの不思議な心の交流には、それが作り手の露骨な狙いであることを重々承知しながらしばしば涙腺がヤバい状態に追いやられました。
僕の関心に引きつけて一言で言うと、これはずばり『多重人格』の”物語”につきものの葛藤なんですよね。勿論多重人格は「古代神の復活」や「憑依」ではないわけですが、原因はどうあろうと外形・面影や思い出と、現実の目の前の人格とのギャップに周囲の人が苦しむ・振り回されるという意味では構造は同じ。作者が特にそれを意図したとは思いませんが。
更に言うと、これはいずれ多重人格ノートの方で書くことがあると思いますが、こういった”古代神”ならぬ超絶的な人格、通常の人間の理性や感情のパターンと隔絶した印象を与える人格というのは割りと頻繁に多重人格の中に見られるもので、そしてそれは独特の抗い難い魅力を持っている。・・・・それはつまり、「元の人格」の存在価値を危険に晒すほどに。
と同時によほど低俗な人格でない限りどんな一見かけ離れた人格でも否応なく元の人格の面影と重なるものを持っていて、その気になれば同定することも可能なので、「エンジェル」の”ウェス”も知らず知らず「フレッドを内包したイリリア」「イリリアであるフレッド」を愛し、大事に思っている自分にとまどいを覚えていきます。
その葛藤は最後まで続き、最終的には明らかに”イリリア”自体をウェスは愛情・庇護の対象とみなしているわけですが、自らの臨終の際にはその変身能力で”フレッド”になることをイリリアに求めます。
ここはね、難しいんですよね。
「ウェスのフレッドへの愛」を強調したい、あるいは逆に「イリリアのウェスへの慈悲」を表現したい、その両方とも意図としては分かるんですが、僕としてはむしろそのままのイリリアを肯定する形で終わって欲しかった。それはフレッドへの裏切りではないと思う。・・・・いや、(乗っ取り・制圧という)経緯を考えれば明らかに裏切りではあるんですが、うーむどう言ったらいいかなあ。
つまり愛は現実肯定の無限のエネルギーであるということかな、ちょっと一般的過ぎますが。
イリリアへの肯定のエネルギーはフレッドを否定するものではない、そもそも選別の必要のあるような有限のものではないから。
と同時に「現実」、つまり目の前の存在をともかくも肯定してあげるのが愛の本分であって、残酷なようだけど過去の存在になってしまったフレッドへの義理立てなどは瑣末な問題であるということ。それは別種の配慮であって、ある意味矮小な「人為」でしかないというか。
・・・・えらい深刻な話になっちゃいましたね。もっと深刻な切り方も考えてたんですが、やめときます。多分多重人格ノートのどこかで。
ま、普通にイリリア好きです(笑)。スピン・オフとかしない? (スピンオフ)
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2006年02月17日 (金) | 編集 |

ルーツ 1 【日本語吹替版】 / リバー・バートン、タルムズ・ラスララ 他
わざわざ「1」をつけるのも妙な感じですが、何せスパチャンが「2」の方を先に放送したものだから。ちなみに「1」の終わり方からすると当初続編の予定は無かったようですね、ほぼあらすじ言っちゃってる。
1を見終わって改めて2を思い返すと、この名作(「1」)の良いところや味わいを何一つ損なわずに、純粋にパワーアップというか時代が下った分華やかになったという感じの2の出来映えに思い出し驚き(?)します。スタッフの力量と哲学のブレの無さに拍手。
さて1ですが、やはり子供の時見たものなのでかなり記憶におぼろげなところがあって新作同様に楽しめました。
いきなりびっくりしたのは、アメリカに拉致られる前の初代主人公クンタ・キンテが生まれ育った西アフリカの僻地に暮らすキンテ一族が、既にコミュニティごと敬虔なムスリムだったこと。奴隷船での苛酷な船旅で助けを求める相手はアラーの神なんですね。
昔ラップ/ヒップホップカルチャーがらみで”ブラック・ムスリム”の存在を知った時は随分違和感を覚えて、アメリカの各種キリスト教勢力の囲い込みをたまたま逃れた特殊な集団に、異教たるイスラム教が戦略的先鋭的に食い込んだのかなとそんなピンポイントのイメージを持っていたんですが、こうして見ると元々素地が無かったわけではないんですね。
そのくせ代が経るにつれて割りとあっさりというか淡々とした感じで、今度は一族ごと敬虔なクリスチャンになってしまうので何だかなあという感じもしたんですが。支配者の宗教なんて真っ先に拒否すべきだろう。何がイエス様だよ。
まあ多分「敬虔」というのはそれ自体で存在する精神傾向で、それは常に捧げる対象を求めていてある意味どれを選択するかは根本的な問題ではないとそういうことなのかなと思いますが。特に虐げられている階層は必ず何かを必要とする、布教初期の日本のキリシタンなんかも割りとダボハゼ的な面がありますしね。神仏の顔が変わっただけ。
全体として見ると、アメリカ定番のノスタルジックな開拓時代ものみたいな印象が強いです、実は。『大草原の小さな家』とか『大西部の女医ドクター・クイン』とかああいうやつ。必ずしも奴隷たちの苦闘の歴史を描いた社会派ドラマという感じではない。
それは1つには勿論単純に時代背景がそうだというのもあります。「1」の終わりは南北戦争(南軍の敗北)ですから、「開拓時代」というには少し時代が下り過ぎてますが、舞台のほとんどが南部の農村地帯なので風景的には結局そんな感じ。
そしてそれ以上に上の印象をもたらす理由として挙げられるのが、「2」の感想でも書いた通り、作り手が単に禁欲的な社会派ドラマとしてまとめようとしていないことですね。
奴隷制という巨大な矛盾・悲惨が背景にあろうとも、やはり田園風景や田舎の素朴な人情はノスタルジックに楽しいものだし、奴隷解放の為に戦ったりはしなくてもやはりいい白人は白人だし、”アンクル・トム”だろうが何だろうがそうした白人と黒人の心の通い合いというのは必ずしも否定的なものではない。
勿論労働場面を離れれば、黒人奴隷たちにもそれなりの家族生活やコミュニティがあり、そこには間違いなく幸福な瞬間もある、そういうことを堂々と描くことを作り手は恐れていない。
勿論原作自体は当事者の子孫である黒人のアレックス・ヘイリーのものなので、その分描きやすいというのはあるでしょう。でも結構見ようによっては怖い作り方に思います。原理主義的な運動家の目には、迎合的で正に”アンクル・トム”として映ってもおかしくない。
実際見てて微妙な瞬間というのはあるんですよね。「楽しいけど、これ楽しんでいいものなのかな」という。当時特にそういう攻撃を受けた話は聞きませんでしたが、時期的にギリギリセーフという感じでしょうか。今は必ずどこかしらが騒ぎますから。
ともかくそうした膨らみ、ニュートラルさが、この作品を「時代」や「問題」ではなく、「人間」を描いたものとして、今の目で見ても毛ほども古く感じさせない名作たることを可能にしているとそういうことです。
・・・・何か僕にしては素直ですね(笑)。でもほんとケチつけようがない。未見の人は機会があったら是非見ることをお奨めします。
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2006年02月07日 (火) | 編集 |

初出。
本家アメリカでは第9シーズン、AXNでは第8、僕的には昨日からベルトで始まった再放送の第4シーズンがそれぞれ快調に続行中。
素晴らしい。これほど見かけの陳腐さと内容の豊穣とのギャップが大きい作品も珍しい。危うく一生見逃すところでした。
だってさあ・・・・見ないでしょ?普通”SFアクションドラマ”なんて。ドラマ好きを自認してれば逆に。むしろ「特攻野郎Aチーム」みたいに「さあお馬鹿さんの時間ですよ?!」とあからさまにやってくれれば、ネタ的切り口で入っても行きやすいんですが。
前回ごちゃごちゃ言っていたことに加えるとすれば、SF云々とは一応別に、もっと一般的な意味での”ミステリー”の要素が骨組としてきっちりあるということですかね。つまり「冒頭の謎とその論理的な解決」というようなミステリーの基本的な物語構造、その「謎」と「解決」の趣向の掘り下げがかなり気合が入っていて毎度見応えがあるということ。
こういった要素はミステリーやSFといった細かい区分を越えて、娯楽もののストーリー全般に普遍的な黄金律ではあるわけですが、このシリーズを書いている人にははっきりと狭義のミステリーとしての完成度への意識、こだわりがあると思います。ヲタク臭含めて(笑)その真剣味が心地良い。
キャラの話に移ると4人パーティの中の”パワー系宇宙人”ティルクにコメディリリーフ的要素が強くなったのはまあ定番として、正直あの時点では気にも留めてなかった、むしろパッとしねえなあ何とかならなかったのか、唯一の難点かなくらいに思っていた”理系スペシャルの女性キャラ”サマンサ・カーター(写真)の魅力がじわじわ光を増して来たのが嬉しい誤算。
地味な印象は変わらないし、別にお色気シーンが加味されたりはしてないんですが(笑)、何というか・・・・かわいいよね?真面目なコって!
どこまで計算/期待してたのかは分からないですけどね。多分企画時にスポンサーとかからは「もっとお色気を」的な注文は来たと思うんですよね。何せアクションものではあるわけだし。僕も思ったし。(笑)
今はもう夢中ですね。「何かの時に見せる女性的な一面」とかではなくて、彼女の科学者、理系ヲタとしての活動ぶりそのものにセックスアピールを感じてます。
後は主演の元マクガイバー(?)リチャード・ディーン・アンダーソン扮するオニール大佐。
マクガイバーの時と比べてかなりマッチョというか石頭な職業軍人的な基本設定で、当然色々な経験を経て軟化はするんですが、シリーズものの通例と比べても結構しつこく要所要所で「でも本質は変わらない」「軍人としての責務が第一」という面が活躍します。
それははっきり言ってそれまで営々と築き上げてきたキャラへの感情移入を台無しにしかねないレベルの挑発的なもので、たまにそれを含めて一種の作劇上のトリックだったりもするんですが、いずれにせよ定番を力一杯踏まえつつでも容易に安心はさせないぞという製作側のこだわりというか志の高さを感じます。
ちなみにシーズンの途中から、「製作総指揮」的なポジションにリチャード・ディーン・アンダーソン自身の名前がクレジットされてされていて、これは一種の自己プロデュースなのかなあだとしたらかなり頭のいい人なんだなあ、でもたまたまかもなあとまたぞろ考え中。
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2005年12月17日 (土) | 編集 |

次にいやいやどうしてどうして、これは女性たちの進化・成長のあらわれかもよというそういう立場から。(退行説)
例えば「オーラの泉」に出演したさとう珠緒が、『あなたは男性に何を求めますか』という事前質問に答えて曰く、「”顔”です。昔はそうでもなかったけど段々そうなってきました」。
「えー?普通逆じゃないですかあ?」と素朴に突っ込む国分太一を、「そうじゃないのよ」となだめる美輪明宏。ジャンヌ・モローの過去の同様の発言を引いて言うには「自分が自分としてちゃんと出来上がってくれば、相手なんてきれいかわいいで十分なのよ」。
例えば「アリー my Love」シーズンVで登場した、”アリー2世”ことジェニーのジャクリーン・ビセット演じる母親。
突然ふた回り下、娘のジェニーより年下の美青年を連れて現れて「フィアンセよ」と紹介。「若さと顔だけの坊やじゃない。不潔よ」と抗議するジェニーに対して、「私もあなたくらいの年頃にはパートナーに全てを求めたわ。でもそれは若い女は自分に自信がないからなの。それをパートナーに埋めてもらおうとする。自分で自分を満たすことが出来るようになれば、相手に全てを求める必要はなくなるのよ」。
最初の方の例はさとう珠緒の”中身”がピンと来ない人には分かり難い説明かもしれません。でも番組中でも言われていた通り、”ぶりっ子”という形で現れている彼女の受動性は、デフォルトで自分が強固なあまり、ついついそっちは後回しに周囲の要求を優先し過ぎてしまうことから来るものなのです。
それはともかく、相手/他人に多くを求めないというのが人格の成長・成熟を測る主要な目安であるというのは、僕も多いに同意するところです。いやあバレたかって感じです。僕の面食い、アイドル好きの正体がとうとう明らかになってしまいましたね、わっはっは。
・・・・つまり現代日本女性の成熟・自立のひとつのあらわれが、とみに屈託無くなって来た”イケメン”への嗜好の大々的な表明である。これが『進化説』です。
まあ買い被りorどさくさで玉石混交というきらいは少なからずあるような気もしますが、何らか一種の「割り切り」が背景にあるというのは確かに強く感じますね。その割り切りの別の側面が『退行説』で説明されたような要素であると、そういうまとめ方も出来るかもしれません。
ご静聴ありがとうございました。
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2005年12月14日 (水) | 編集 |

事情(1)、事情(2)。
まとめに入りますがまずは一種の退行的な現象であるという立場から。
かなり詳細がいい加減なんですが(調査不発)、確かにあるにはあった話です。
15〜20年前ですかね、アメリカで最初の大きなダイエット/シェイプアップブームが起きた頃。ジェーン・フォンダの「ワークアウト」が1981年、オリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」(イメージだけですが)も同じく’81年ですから、その数年後というあたりでしょう。
あるアメリカの社会学者だか人類学者だかがそれについて出した研究書・・・・についての書評(笑)を読んだ記憶があります。
それによるとこのブーム、自分や他人の容姿や肉体に対して厳しく倫理的に基準を高めていくこの動きは、その前後の”ヤッピー”やら”ミーイズム”やらに代表されるエゴイスティックな社会風潮の中で素朴な理想主義を失ったアメリカ人が、それでも行き場を求めて渦巻く道徳的倫理的な衝動の表現の場を社会ではなく自分たちの肉体に求めたその結果であるというのです。
この説がどこまで本当かは分かりません。「道徳的な衝動」という概念自体理解しにくい人もいるでしょう。別に”性善説”とまで考える必要はないのです。”ええかっこしい”くらいで十分。それくらいなら普遍的な実在も受け入れられると思います。
とにかくこの例に見られるような無意識の退行、対象転換のような心の動きが、”当世イケメン事情”(笑)にも存在するんじゃないかというそういうこと。
2005年12月10日 (土) | 編集 |

牙狼もいいけど牙狼も。
一応グラビアっぽい出方はしてるんですが、グラドルとしての露出が増える前にどうやら女優として芽が出そうな感じなので、残念ながら所長さん起用の見込みは薄そう。一応トライしてみたけど画像が無え。女優としての大規模ブレイクを待たないとという遠大な感じ。
演技力、とまで言えるかどうかは微妙ですが、かなり頭のいい、センスのいいコですね。
牙狼でのバカっぽい役も見事で、最初はパラキスの山田優的な地を当てはめた配役なのかと騙されちゃいました。バカっぽくて話の分からない、でもがむしゃらな女の子のかわいさを演じ切ってます。突き抜けたーーーー!という感じ。ほとんど”ペーソス”と言うべきレベルに達しています。おかしくてやがて哀しき。苦手なハスキーヴォイスもかわいく思えてきました。
容姿的にもそそられます。すんなりくにゃっ。抱き心地が良さそうです。黄金の二の腕です。
一応水着も見たいけどなあ、見せてくれているなら。
上の演技の話と関連するところでは、とてもコスプレ映えしそうなコですね。あれは自分を客観視出来ないとハマらないですから。作中でも”バイト遍歴”としてポツリポツリとそれらしいシーンもありますが。
で、いいっすよ牙狼。趣味のいい悪趣味です。映像美はますます絶好調、単に「特撮」というよりは”人形劇”的な芸術性さえ感じさせて。ハイテクがそのままインダストリアルには流れない、アメリカ人には出来ないタイプの仕事です。多分例によって、アチラにも少なからぬファンを獲得したりそういうことになると思いますが。剣劇カッコ良過ぎ。金の騎士と銀の騎士の並び絵になり過ぎ。
そういえば「アストロ球団」は油断してたら終わってしまった。どうも本格的な試合シーンになると重く熱いばかりで面白くなくって、最後の方は適当に見てました。
それにしてもあれだけ大仰な背景や必殺技を携えて集まって来る”超人”たちの目標が、たかだか『大リーグ打倒』だというのが実に時代を感じさせます。遠い国だったんですねえ。
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2005年11月29日 (火) | 編集 |
![]() | スターゲイト SG-1 シーズン1 DVD The Complete Box リチャード・ディーン・アンダーソン (2006/05/31) カプコン この商品の詳細を見る |
続きに続いて最近では第8(!)シーズンの宣伝が流れている人気ドラマに今更ですが、ch.725AXNで放送中の第1シーズンからの再放送(今日第2シーズン開始)に遅れ馳せに感心したのでご報告。同名映画の後日談として企画された米製のSFテレビドラマです。僕の知識自体が貧困なのでネタバレの心配はほとんどありません(笑)。
その貧困な知識をもとに簡単に世界観を説明すると、物語の中心である「スターゲイト」とは全貌は明らかでない多数の惑星間の瞬間転送ネットワークの1つ1つの窓口、門のことです。そこを通って地球人とその敵や友人・隣人など様々の人間や物体が通行しているんですが、このシステムを誰が作ったのかは僕が見ている時点では分かっていません。この分からなさがストーリーの奥行き間に繋がっているので、恐らく相当後まで分からないままだろうと予想します(笑)。
分かっているのはこれは地球上においても超古代から存在し、各文明の神話伝説に記されている様々な出来事の多くがこれが関わる事実に基づいていたということ。
つまり神々=宇宙人というよくあると言えばよくある設定ですが、あるエピソードでの断片的な会話から推測するにこのネットワークを通して多くの宇宙文明が共通の起源を持っているらしい構図が透けて見えて、SFのみならず伝奇好き歴史好きの血が騒ぎます。
直接の舞台はスペースシャトルくらいは飛ばすほぼ現代の発達レベルの地球文明(のアメリカ)ですが、スターゲイトを通して微妙に技術レベルのギャップが問題になったり混じったり、まあ色々です。ちなみにゲイトの密かな発見は第二次大戦中とかそこらへんらしく、つまり宇宙技術の開発以前に実は何人かのアメリカ人は宇宙旅行というか異星文明とのファーストコンタクトを遂げていたというそういうこと。
大きなストーリーとしては”ゴアウルド”というちょっとかの『エイリアン』に似た爬虫類っぽい知的生命体で、宿主に寄生して操ってそれで勢力を拡張するグロい宇宙人との100年戦争だか1000年戦争だかがメインとしてあります。
ただそれを単に連続ものとして延々やるのではなく、基本的には1話完結で毎回はっきりしたSF的トピックス(パラレルワールドやら意識の転移やら)を丁寧に掘り下げまた意表を突く趣向を凝らして、まあ言ってみれば「X-ファイル」的な構成も併せ持つというそういうドラマ。
その趣向がなかなか見事で、こんな手のかかるパターンで8シーズンも続けてるのかよ、気が遠くなるなと一つにはそれに非常に感心しました。
で、なので直接戦争の趨勢と関係が無いような文明論・文化論、歴史ロマンや宇宙規模の文化人類学とも言うべき人間性についての考察など、趣味的だったり学術的だったりというそういうエピソードもしばしばあり、ある意味こっちがメインに思えるようなそういう面も。
ただし同じような性格を持ち「宇宙は舞台にしているけど別にSFではない」とか言われることもある『スタートレック』シリーズに比べると、こちらの方が遥かにSF度は高いと思います。
主演は『冒険野郎マクガイバー』のリチャード・ディーン・アンダーソンで、そこから想像がつくとおり内容は結構知的でも基本的なトーンは超王道のヒーローものエンターテイメント作品です。彼に文系スペシャルのオタク青年と理系スペシャルの女性キャラ、それに”ゴアウルド”から寝返ったパワー系の宇宙人を加えた4人によるパーティー・バトル。
まとめて言うと超優良総合エンターテイメント作品ですね。
特に大きなストーリーと同じ比重で小さなストーリーが充実しているのがポイント高くて、おかげで第1シーズンの途中からの数話という半端な見方しかしていない僕でもストレスなく楽しめて、かつもう第2シーズンに入っちゃってるのに未見の人に奨められるとそういうわけです。だいたい見てりゃ分かると思いますが、心配な人はこちらのサイトなどで補強を。
第2シーズンの第1話の再放送は明日(30日)の朝9:00から。本放送はウイークデイの夕方6:00からのベルトです。視聴環境がある人は是非。
いやあ、これから第8シーズンまで楽しめるのか、嬉しいなあ。
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2005年11月02日 (水) | 編集 |

こうしたイケメン界(?)内部の変化とは別に僕が最近強く感じるのは、この苛酷な現代社会(ワラ)におけるイケメンの価値、きれいであることの価値ということです。それは単に顔かたちがきれいであるということのみならず、”きれい”と定義付けられる存在であること、ベビーフェイス役であること、ヒーロー/二枚目というより高いモラルを義務付けられる一種の「虚構」を引き受け切ること、看板を背負い切ることの価値を含めてです。
(1)では悪い/古い例として挙げたキムタクですが、こういう意味では、つまり二枚目という看板を揺らがずに背負い切るという意味では現代のぶっちぎりの第一人者であるのは言うまでもありません。
わざとらしいとかクドいとか、よく見りゃ短足だとか(笑)結局頭が足りないとか、様々見出し得る傷を乗り越えて彼がこれだけ長く未だにスペシャルな存在として広く厚い支持をキープし続けているのは、具体的な目鼻立ちがどうとかいう次元を遥かに越えて、「二枚目」という大きな物語の主人公として完成した喚起力を獲得しているからでしょう。
これはより小規模には他のジャニーズ系の雄たち、例えばヒガシであるとかヒロミゴーであるとか、あるいは一時の迷いを脱して”王子様”としての類稀な天分に従う覚悟を固め切ったらしい、最近のタッキーにも言えることだと思います。
またいわゆる”韓流”の俄かに男には理解しがたい、ベタベタな物語形式とそこに登場する恥ずかしげも無い「二枚目」たちにかくも女性たちが無防備に陶酔するのにも、同様の構造が関わっているように思います。
”韓流”一本だと割りと「男らしさ」という明らかに思想的政治的に偏頗なタームの評価をめぐる話になりがちですが、そうではなくて「男らしさ」もそのプリミティヴな一例とする、これら二枚目たちが引き受けているある種の高い倫理性、女性たちの支持・愛のかなりの部分はそこに向けられたものであるように思うのです。
「本音」や「等身大」、あるいは露悪的な「現実性」という類の言ってみれば敗北主義とは一線を画した、虚構ではあるが美しき痩せ我慢・かっこ付けが生む何か。
「伊達」と言ってしまうとちょっと開き直りっぽくて違うと思うんですが。あくまできれいごと前提であり、ノーエクスキューズの理想主義、”イデア”のようなもの。実体なんて無くてもいい、あえて言えば匂いや雰囲気そのものが実体。
そういう役割を引き受けていると、次第にそういうものとしてそれなりに強固な内実が備わって来ることもありますが、一方では人格が空洞化して来る、より芸能界的に言えば役柄が狭くなるというような危険も大きいわけで、たいていはどこかで変化技を使ったりぶっちゃけたりして「降りて」しまい、引き受け切ることの出来る人は特に現代ではほとんどいない。だからキムタクは特別なわけですが。タッキーは意外と楽そうですけどね。
・・・・ちょっと予定外の方向に伸びてしまった。次で締めます。
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