2007年08月25日 (土) | 編集 |
アジア杯の我慢大会の後での午後のおやつのような、いかにも優雅で淡白な試合で、二日経つとだいぶ印象が怪しくなったりはしていますが。
フル代表親善試合 日本 ○2−0● カメルーン(九州石油ドーム)
でもやっぱ楽しいなあ、アジア以外のチームとやるのは。サッカー(または国際試合)やってる感じがするなあ。
僕が代表ウォッチのモチベーションをなくすとすれば、時の日本代表がどうというより、『アジア』という主戦場への忍耐が切れた時でしょうね。(この話題しつこい?)
勝っても別に嬉しくないし、逆に負けてもあまり納得が行かない。やりがいがなくてプレッシャーだけがある。地獄じゃ。(それに比べればJ2は楽しい?)
この試合の”目玉”であろう前田、田中達也、大久保の3トップですが、アテネチームに心残りのあるムキ(かくいう僕も)からすると、この3人が元気に並んで、適材適所で一応の機能を見せているのを見るだけで感涙モノというか、軽くオシムを拝みたくなるんじゃないでしょうか。(笑)
当時もこの3人は山本五輪チームの常連ではありましたが、ついぞまともに噛み合うことはなく、特に前田遼一は僕の目には当時から既に「異能のポストプレイヤー」であることが最大の特徴であるように見えましたが、一度として機能したのを見たことがない「トップ下」で終始使われ続け、最後には戦力外的存在になってしまいました。
まあ体格的に頑強とは言い難い前田を第一義的に「ポストプレーヤー」として使うのは確かに難しいことで、どちらかというとこのタイミングであっさりとやってしまうオシムの方がさすがという感じはしますが。
でもせめて”FW”として考えてくれてればなあ。大久保を1トップで使うなんて無茶してる暇があるなら。
オシムの頭の中なんて僕には分かりませんが、ここにはオシムと山本のサッカー観の幅の差、特に”ポストプレー”というものに関する把握の差、イメージの差があるんだろうなと推測します。
僕自身のことを言うと当時、アテネ五輪前の’03〜’04年というのは、お膝元ヴェルディにはエムボマがいて、またその少し前にはバルセロナのクライフェルトをまだ放映権を持っていた(涙)スカパーで通年でまじまじと見て、この2人によってちょうど”ポストプレー”というものの概念を大きく広げられたところでした。
広げられた、というのも甘いかも知れませんね。なんか別モノでしたこの2人のは。
来たボールを”落として”とりあえず陣地を確保するにとどまらず、いわゆる「ゲームメーカー」がするごとく、彼らのポストを経由することによって予想外の新たな展開が、新たなメッセージ性が、新たな命がボールに与えられる感覚。単なる敵中で身体を張る汚れ仕事と思われたポストプレーそのものがファンタジーになり得るという驚き。
一言で言えば、”ポストプレー”も立派な「パス」の一種で、それに相応しくヴァリエーションやニュアンスがあり、その為にはテクニックも必要だと言うことです。
こんなことはある種常識なのかもしれませんが、「オフトの高木琢也」以来、ろくなモデルを与えられて来なかった僕ら素人系ファンには結構なカルチャーショックに近いものがあったわけですよ。
現役J選手たちの大部分の、いかにも武骨なとりあえず”落とす”だけのポストプレーを見ていると、案外選手たちも良いモデルが欠落したままやってるんじゃないのかなという感じもします。
ともかく恐らくは世界的にもエムボマやクライフェルトというのは特別に近いレベルの選手でしょうから、すぐにあんなイメージを求めるのは夢物語だよな・・・・と思ったところにひょっこりいたのが前田遼一で。
さすがに前二人のような強さとかは求められませんが、”パス感覚のポストプレー”という意味では、多少の贔屓目も交えれば基本的に同次元のプレーを当時から彼はやっていたと思います。どこでそんなスタイルを身につけたのかは知りませんが。王様タイプにしてはたまたま体格に恵まれていた(180/80)選手がFWとして、ジュビロの筋金入りのパスサッカーの中でプレーする中で自然にそうなったのか。
・・・・書くことがあまりないとついつい思い出話が多くなります。(笑)
ちなみに基本的には「オフトの高木」的なイメージの範疇で、山本監督が軸不在のチームで頼ったはずの平山相太ですが、実際には非常に”パサー”的な繊細さも兼ね備えていた選手で、それが恐らく監督の意図をも越えて劇的に攻撃の連動性を改善して、何とかあのチームを持たしたと、そういう風に僕は認識しています。
次の大熊ユースチームの時には、なせが「オフトの高木」そのものに成り果てていましたけど。(笑)
とにかく山本のサッカー観・ポストプレー観の中では居場所が無かった前田のそれも、より広いオシムの見識の中なら当たり前のものとして存在出来ると、現実的選択肢の少なくとも一つとしてと、そういうことのように思います。
まあ当時の出たての前田と今のジュビロの押しも押されぬ前田とでは違いもあるかもしれませんが、でもアジア杯以降のどちらかというと疑いの目の多いような状況下で、”強豪”カメルーンを相手にいきなりこんなオールスター的な(笑)3トップを当たり前のようにぶつけて来るというのは、大胆というか基本イメージが高いというか、基準にしている現実が何か普通の日本人(監督)とは違うんだろうなという感じはやはりします。(言い換えると特に”大胆”だとは思っていない。リスクの査定も含めて経験に基づいたそれなりの成算がある)
というわけで「当たり前」の部分をあまりいじっても仕方がないんでしょうが・・・・。あ、待てよ。こういう考え方もあるか。
つまりこの試合、カメルーンという「アジアにはいないような(参考にならない)相手」(オシム)に対して、「守備ブロックの耐久力を試す」ことを大きなテーマにオシムは臨んだわけですよね。だから攻撃については実は”おまけ”的な部分もあって、アジア杯でのいわゆる”限界”という世論をむしろ追い風に、ついでだから新しい選手を多少軽薄な(笑)やり方で当たるも八卦でまとめて試してしまおうとした。そしたらカメルーンが元気が無かったこともあって、期待以上に上手く行ってしまってラッキーという、案外そういう試合かもなという。(笑)
フル代表親善試合 日本 ○2−0● カメルーン(九州石油ドーム)
でもやっぱ楽しいなあ、アジア以外のチームとやるのは。サッカー(または国際試合)やってる感じがするなあ。
僕が代表ウォッチのモチベーションをなくすとすれば、時の日本代表がどうというより、『アジア』という主戦場への忍耐が切れた時でしょうね。(この話題しつこい?)
勝っても別に嬉しくないし、逆に負けてもあまり納得が行かない。やりがいがなくてプレッシャーだけがある。地獄じゃ。(それに比べればJ2は楽しい?)
この試合の”目玉”であろう前田、田中達也、大久保の3トップですが、アテネチームに心残りのあるムキ(かくいう僕も)からすると、この3人が元気に並んで、適材適所で一応の機能を見せているのを見るだけで感涙モノというか、軽くオシムを拝みたくなるんじゃないでしょうか。(笑)
当時もこの3人は山本五輪チームの常連ではありましたが、ついぞまともに噛み合うことはなく、特に前田遼一は僕の目には当時から既に「異能のポストプレイヤー」であることが最大の特徴であるように見えましたが、一度として機能したのを見たことがない「トップ下」で終始使われ続け、最後には戦力外的存在になってしまいました。
まあ体格的に頑強とは言い難い前田を第一義的に「ポストプレーヤー」として使うのは確かに難しいことで、どちらかというとこのタイミングであっさりとやってしまうオシムの方がさすがという感じはしますが。
でもせめて”FW”として考えてくれてればなあ。大久保を1トップで使うなんて無茶してる暇があるなら。
オシムの頭の中なんて僕には分かりませんが、ここにはオシムと山本のサッカー観の幅の差、特に”ポストプレー”というものに関する把握の差、イメージの差があるんだろうなと推測します。
僕自身のことを言うと当時、アテネ五輪前の’03〜’04年というのは、お膝元ヴェルディにはエムボマがいて、またその少し前にはバルセロナのクライフェルトをまだ放映権を持っていた(涙)スカパーで通年でまじまじと見て、この2人によってちょうど”ポストプレー”というものの概念を大きく広げられたところでした。
広げられた、というのも甘いかも知れませんね。なんか別モノでしたこの2人のは。
来たボールを”落として”とりあえず陣地を確保するにとどまらず、いわゆる「ゲームメーカー」がするごとく、彼らのポストを経由することによって予想外の新たな展開が、新たなメッセージ性が、新たな命がボールに与えられる感覚。単なる敵中で身体を張る汚れ仕事と思われたポストプレーそのものがファンタジーになり得るという驚き。
一言で言えば、”ポストプレー”も立派な「パス」の一種で、それに相応しくヴァリエーションやニュアンスがあり、その為にはテクニックも必要だと言うことです。
こんなことはある種常識なのかもしれませんが、「オフトの高木琢也」以来、ろくなモデルを与えられて来なかった僕ら素人系ファンには結構なカルチャーショックに近いものがあったわけですよ。
現役J選手たちの大部分の、いかにも武骨なとりあえず”落とす”だけのポストプレーを見ていると、案外選手たちも良いモデルが欠落したままやってるんじゃないのかなという感じもします。
ともかく恐らくは世界的にもエムボマやクライフェルトというのは特別に近いレベルの選手でしょうから、すぐにあんなイメージを求めるのは夢物語だよな・・・・と思ったところにひょっこりいたのが前田遼一で。
さすがに前二人のような強さとかは求められませんが、”パス感覚のポストプレー”という意味では、多少の贔屓目も交えれば基本的に同次元のプレーを当時から彼はやっていたと思います。どこでそんなスタイルを身につけたのかは知りませんが。王様タイプにしてはたまたま体格に恵まれていた(180/80)選手がFWとして、ジュビロの筋金入りのパスサッカーの中でプレーする中で自然にそうなったのか。
・・・・書くことがあまりないとついつい思い出話が多くなります。(笑)
ちなみに基本的には「オフトの高木」的なイメージの範疇で、山本監督が軸不在のチームで頼ったはずの平山相太ですが、実際には非常に”パサー”的な繊細さも兼ね備えていた選手で、それが恐らく監督の意図をも越えて劇的に攻撃の連動性を改善して、何とかあのチームを持たしたと、そういう風に僕は認識しています。
次の大熊ユースチームの時には、なせが「オフトの高木」そのものに成り果てていましたけど。(笑)
とにかく山本のサッカー観・ポストプレー観の中では居場所が無かった前田のそれも、より広いオシムの見識の中なら当たり前のものとして存在出来ると、現実的選択肢の少なくとも一つとしてと、そういうことのように思います。
まあ当時の出たての前田と今のジュビロの押しも押されぬ前田とでは違いもあるかもしれませんが、でもアジア杯以降のどちらかというと疑いの目の多いような状況下で、”強豪”カメルーンを相手にいきなりこんなオールスター的な(笑)3トップを当たり前のようにぶつけて来るというのは、大胆というか基本イメージが高いというか、基準にしている現実が何か普通の日本人(監督)とは違うんだろうなという感じはやはりします。(言い換えると特に”大胆”だとは思っていない。リスクの査定も含めて経験に基づいたそれなりの成算がある)
というわけで「当たり前」の部分をあまりいじっても仕方がないんでしょうが・・・・。あ、待てよ。こういう考え方もあるか。
つまりこの試合、カメルーンという「アジアにはいないような(参考にならない)相手」(オシム)に対して、「守備ブロックの耐久力を試す」ことを大きなテーマにオシムは臨んだわけですよね。だから攻撃については実は”おまけ”的な部分もあって、アジア杯でのいわゆる”限界”という世論をむしろ追い風に、ついでだから新しい選手を多少軽薄な(笑)やり方で当たるも八卦でまとめて試してしまおうとした。そしたらカメルーンが元気が無かったこともあって、期待以上に上手く行ってしまってラッキーという、案外そういう試合かもなという。(笑)
2007年08月19日 (日) | 編集 |
例の「オシムとメディアリテラシー」の話その後。
題材は一応僕のTBを承けて書かれた形の、酩酊さんの『代表なんて見なけりゃいいじゃん』。
そもそも僕のあれは酩酊さんに向けて書いたものではない(コメント欄のやりとりがありそうでない、サンプルとして面白いものだったので紹介したかっただけ)ですし、酩酊さんのも言及部分について以外は僕に向けて書かれたものではない、もっと不特定多数に向けて元々書く予定だったのを僕がつついて(笑)早めたという性格のものだと思うので、スルーでもいいようなものなんですが。
それでもいくつか行きがかり上コメントしておきたい、その方が色々と視界が良くなるだろうと思われる点があるので、やっておきます。
(大きな問題)
>それ(メディア対応の拙さ)が何か問題なの?監督業と関係あるの?
監督業一般は置くとしても、(代表監督)”オシムの監督業”には関係があると思います。
なぜならオシム自身が、そういう日本のメディアやサッカー世論や民度の向上をライフワーク的に位置付けている、今回の自分の代表監督業の重要な一部として打ち出そうと意図的にやっているように見えるからです。
勿論これは全ての(代表)監督に多かれ少なかれ関わることで、例えばオフトは「個別の選手についてコメントしない」というポリシーを有言実行して、ともかく一つの見識を示しました(加茂も形としては同じ)。あるいはトルシエはもっと積極的にメディアを通した発言を利用して、特に協会との駆け引きや選手・ファンの教育・啓蒙をやろうとしたところがあったと思います。
ブラジル人2人は・・・・基本的に顔が本国の方しか向いてないのでよく分かりません。
オシムのやっていることも内容的にはトルシエとさして変わらないと思いますが、トルシエのそれがあくまで自分の代表運営を円滑にする為の方便というニュアンスの範囲に留まっている(大部分の監督はそうでしょう)のに対して、オシムにはそれ以上のもの、”使命感”とでも言うべき意気込みを僕は感じます。年齢的に最後の大仕事だと位置付けているのかなとか思いますが。
その意気込みに対してその効果や是非を自分なりに判断・反応するのは、むしろオシムに対する礼儀というか敬意の表し方だと思うのですがいかがでしょう。
・・・・まあ最初の(段落の)段階で「見えない」と言われてしまったら、この話はそれで終わりですが。
>私には理解不能なのだが、日本代表は「我々の代表」らしい。
うーん、難しく考え過ぎ、あるいは僕の知らない(笑)特定のタイプの”敵”との戦いに疲れ過ぎなんじゃないでしょうか。
各国の代表チームがそれぞれの国の(関心ある人々の)、「我々の代表」であるのは単なる定義でしょう。その内実は国情や時代状況によって様々だとしても。実際には代表チームが勝とうが負けようが、それによって直接の利害が生じるのはごく一部だとしても、これはそういう”態”のゲームです。ゲームのルールです。いかにそのルール下で有意義に遊ぶか、あるいは生きるか。
まあクラブチームでもそれは基本的に同じですね。
そういう緩い定義からすれば、代表が「我々の代表」であったとしても、そこから即ち、
>>代表を率いる監督も「我々」の代表でなくてはならない。
>>彼は「我々」のことをよく知り、その心が分かる人でなくてはならない。
ということにはなりませんね。これはより細目の、あるいはルールを元とした”ゲーム”の解釈・プレイスタイルの問題です。その一つです。
「代表への感情移入」という一事でもって、余りにも色んな人を一括りにし過ぎてるんじゃないでしょうか。
>>しかし「我々」っていったい誰だ?
>>そこにおいて「我々」は成立していない。
>>人々の多様性を考えると、否定的にならざるをえない。
だから「我々」は「我々」です。特に”成立”の要件はありません。むしろ”多様性”を緩く一括りにした(ここは括っていい。定義だから)ものが「我々」であって、否定の理由にはならないと思います。
(中くらいの問題)
>ただ単にオシムの物言いや立ち振る舞いが気に入らないというだけで、
>感情的にサッカーの内容にまで文句をつける輩が後を絶たない。
そうなんですか。幸いにして僕の生活圏には見当たりません。(笑)
2ちゃんですか?mixiですか?まあいいですけど。(笑)
ここらへんはターゲッティングというか、モチベーションの方向付けの問題ですが、後で書くようにそのレベルにいちいち反応するのは非生産的だと思うというのと、そこに怒っている最中だからこそ、逆にオシムの方の問題には目が行かないんじゃないかなという感じもします。言わば対立構造のステージの問題ですね。
>では、なぜ代表を見るのか
>>それは単純にオシムのサッカーが好きだから。
>>面白いからそれをより深く理解したいと思っているだけだ。
これは。個人のスタイルの問題として言っているなら構わないですが、上の「我々」性への極端な否定を念頭に置いて読むと、「こういう見方こそが正しい」と言っているようにも読めます。そうなんですか?
仮に酩酊さん個人の問題だと限定したとしても、ならば逆にそこまで言うならば、いっさいの「代表論」という切り口は封印する方がいいのではないかということになるかと思います。”たまたまオシムが監督に就任した1チーム”として、技術・戦術論のみを語る。『嫌なら見るな』という酩酊さん自身の煽り(笑)をそのまま援用すれば、『「代表」チームとしての関心が無いなら「代表」チームとしては語るな』という話。
ま、売り言葉に買い言葉というだけですが。
ただそれぞれのチームの存在意義に、一応の定義というか枠があるのは当たり前で、例えそれが『幻想に基づいた協会のドル箱・広告塔』であったとしても(笑)、ないよりはマシなわけです。定義を持つ気が無い人が持っている人に定義について議論を吹っかけるのは、最初から成立しない話のような気がしますが。
題材は一応僕のTBを承けて書かれた形の、酩酊さんの『代表なんて見なけりゃいいじゃん』。
そもそも僕のあれは酩酊さんに向けて書いたものではない(コメント欄のやりとりがありそうでない、サンプルとして面白いものだったので紹介したかっただけ)ですし、酩酊さんのも言及部分について以外は僕に向けて書かれたものではない、もっと不特定多数に向けて元々書く予定だったのを僕がつついて(笑)早めたという性格のものだと思うので、スルーでもいいようなものなんですが。
それでもいくつか行きがかり上コメントしておきたい、その方が色々と視界が良くなるだろうと思われる点があるので、やっておきます。
(大きな問題)
>それ(メディア対応の拙さ)が何か問題なの?監督業と関係あるの?
監督業一般は置くとしても、(代表監督)”オシムの監督業”には関係があると思います。
なぜならオシム自身が、そういう日本のメディアやサッカー世論や民度の向上をライフワーク的に位置付けている、今回の自分の代表監督業の重要な一部として打ち出そうと意図的にやっているように見えるからです。
勿論これは全ての(代表)監督に多かれ少なかれ関わることで、例えばオフトは「個別の選手についてコメントしない」というポリシーを有言実行して、ともかく一つの見識を示しました(加茂も形としては同じ)。あるいはトルシエはもっと積極的にメディアを通した発言を利用して、特に協会との駆け引きや選手・ファンの教育・啓蒙をやろうとしたところがあったと思います。
ブラジル人2人は・・・・基本的に顔が本国の方しか向いてないのでよく分かりません。
オシムのやっていることも内容的にはトルシエとさして変わらないと思いますが、トルシエのそれがあくまで自分の代表運営を円滑にする為の方便というニュアンスの範囲に留まっている(大部分の監督はそうでしょう)のに対して、オシムにはそれ以上のもの、”使命感”とでも言うべき意気込みを僕は感じます。年齢的に最後の大仕事だと位置付けているのかなとか思いますが。
その意気込みに対してその効果や是非を自分なりに判断・反応するのは、むしろオシムに対する礼儀というか敬意の表し方だと思うのですがいかがでしょう。
・・・・まあ最初の(段落の)段階で「見えない」と言われてしまったら、この話はそれで終わりですが。
>私には理解不能なのだが、日本代表は「我々の代表」らしい。
うーん、難しく考え過ぎ、あるいは僕の知らない(笑)特定のタイプの”敵”との戦いに疲れ過ぎなんじゃないでしょうか。
各国の代表チームがそれぞれの国の(関心ある人々の)、「我々の代表」であるのは単なる定義でしょう。その内実は国情や時代状況によって様々だとしても。実際には代表チームが勝とうが負けようが、それによって直接の利害が生じるのはごく一部だとしても、これはそういう”態”のゲームです。ゲームのルールです。いかにそのルール下で有意義に遊ぶか、あるいは生きるか。
まあクラブチームでもそれは基本的に同じですね。
そういう緩い定義からすれば、代表が「我々の代表」であったとしても、そこから即ち、
>>代表を率いる監督も「我々」の代表でなくてはならない。
>>彼は「我々」のことをよく知り、その心が分かる人でなくてはならない。
ということにはなりませんね。これはより細目の、あるいはルールを元とした”ゲーム”の解釈・プレイスタイルの問題です。その一つです。
「代表への感情移入」という一事でもって、余りにも色んな人を一括りにし過ぎてるんじゃないでしょうか。
>>しかし「我々」っていったい誰だ?
>>そこにおいて「我々」は成立していない。
>>人々の多様性を考えると、否定的にならざるをえない。
だから「我々」は「我々」です。特に”成立”の要件はありません。むしろ”多様性”を緩く一括りにした(ここは括っていい。定義だから)ものが「我々」であって、否定の理由にはならないと思います。
(中くらいの問題)
>ただ単にオシムの物言いや立ち振る舞いが気に入らないというだけで、
>感情的にサッカーの内容にまで文句をつける輩が後を絶たない。
そうなんですか。幸いにして僕の生活圏には見当たりません。(笑)
2ちゃんですか?mixiですか?まあいいですけど。(笑)
ここらへんはターゲッティングというか、モチベーションの方向付けの問題ですが、後で書くようにそのレベルにいちいち反応するのは非生産的だと思うというのと、そこに怒っている最中だからこそ、逆にオシムの方の問題には目が行かないんじゃないかなという感じもします。言わば対立構造のステージの問題ですね。
>では、なぜ代表を見るのか
>>それは単純にオシムのサッカーが好きだから。
>>面白いからそれをより深く理解したいと思っているだけだ。
これは。個人のスタイルの問題として言っているなら構わないですが、上の「我々」性への極端な否定を念頭に置いて読むと、「こういう見方こそが正しい」と言っているようにも読めます。そうなんですか?
仮に酩酊さん個人の問題だと限定したとしても、ならば逆にそこまで言うならば、いっさいの「代表論」という切り口は封印する方がいいのではないかということになるかと思います。”たまたまオシムが監督に就任した1チーム”として、技術・戦術論のみを語る。『嫌なら見るな』という酩酊さん自身の煽り(笑)をそのまま援用すれば、『「代表」チームとしての関心が無いなら「代表」チームとしては語るな』という話。
ま、売り言葉に買い言葉というだけですが。
ただそれぞれのチームの存在意義に、一応の定義というか枠があるのは当たり前で、例えそれが『幻想に基づいた協会のドル箱・広告塔』であったとしても(笑)、ないよりはマシなわけです。定義を持つ気が無い人が持っている人に定義について議論を吹っかけるのは、最初から成立しない話のような気がしますが。
2007年08月15日 (水) | 編集 |
(前編)より。
『無知』というのはかなり挑発的な言い方かも知れませんが、ついでに例えばオシムの『無知』の背景・理由としては、こんなものが考えられると思います。
・高齢または大量の経験の蓄積による、偏屈・自信過剰。
・一方での日本の実情に関する知識・経験不足。(にも関わらずの「日本化」などという大仰な公約)
・同様に、「ネット時代」の実情に関する不可避的な無知。
・ジーコ同様、”大物”ゆえの潜在的な日本サッカーに対する侮り、本当の意味での興味不足。
などなど。
これらはオフト、トルシエといった言わば”小物”系の代表監督(笑)には感じられなかった特徴で、その比較もあって僕は苛ついているわけでしょうけど。
例えばオフトは日本リーグというドブ板時代から日本サッカーに関わり、また当時の日本のサッカーシーンの余りの未整備や民度の未発達から、外国人ながらも「最もよく日本サッカーを理解している」と言っていい、期待していい存在で、一つ一つの施策や言動を、染みこませるように僕は注視していました。
またトルシエはかなりの部分個人的な資質として、非常に柔軟というか興味本位(笑)というか、意図的なコワモテとは裏腹にオープンに日本サッカーに接していて、ジーコやオシムのような天から託宣が降りて来るような距離感をほとんど感じませんでした。フランス人らしくというか、どことなく「文化人類学者」的なセンスの持ち主だったような気がします。むしろ蛮地で生き生きとする、”白い呪術師”。(笑)
だから実際にどれほどのリサーチをしていたのかは知りませんが、トルシエの観察や指摘は国籍を越えて常に痒いところに手が届くというか、少なくとも同一の地平に立っている感触がありました。
・・・・ただ「今後」ということまで考えると、むしろこれらの外国人代表監督は、結果的に例外的な存在になって行くんじゃないかなということも最近は感じています。
彼らは黎明期ならではの言わば「当たるも八卦」な監督で、一応の国際的地位を得た日本が今後わざわざ招く代表監督としては、どうしてもそれなりの名前や実績を携えたタイプにならざるを得ないでしょう。当然そういう人は基本的に上から物を言うでしょうし、なんだかんだと確立されたやり方にはめ込むことが中心になるでしょうし、オフトやトルシエのようにのんびり日本に馴染む暇も柔軟性も期待出来ないでしょう。
だからむしろジーコやオシム(ファルカンも一応そうか)のようなのが、そういう意味では標準で、現在感じているような違和感・距離感に、僕は慣れなくてはいけないのかなと思います。
今思うと幸せでしたねえ。オフトやトルシエのような、「友人」や「同志」と共に戦えた時代は。経験出来なかった人はご愁傷様。(笑)
話戻して「ネット」とそれによる全体的な民度の上昇に関しては、”不可避”と書きましたがさすがにオシムがそれを汲むことを期待するのは無理な注文です。これに関してはオフトもトルシエも、時代的な差で比較的問題化を逃れたという、そういう面の方が大きいと思います。
それは今後来るどのような外国人監督も基本的には同様で、彼らに「2ちゃんを読め」とはなかなか言えない(笑)。いや、見ないよりは見た方がいいだろうと真面目に思いますが。
日本人ならそろそろねらー監督が出て来てもおかしくはないですし、外国人でも世代的にはいずれそうした”空気”を背景にした人は出て来るかもしれません。
いずれにしても最近のJの日本人監督のとんちんかん度はかなり低く感じて(ウチのとかは除く)、”納得感のある運営”を期待するなら代表監督は日本人という考え方は当然あるでしょうね。必ずしもその為に代表はあるわけではないのでナンですが。でも何らか空気も読めないで「日本化」などと口にするのは、正直ちゃんちゃらおかしいと思います。まともに聞いてられません。
これらは要するにオシムが殊更「批評的」を売りにする監督だから出て来る問題で、彼のコーチングの腕やそれが日本代表にもたらすものとかとは、一応別です。でも尊敬されるのは監督の重要な資質ですからね。自ら口でミソつけてるようではなんだかなという感じです。
・・・・どうなんですかね?例えばカワブチが「新聞」の見出しを指差して、ほらこんなこと言われてるぞ、どうするんだ、何とかしろ。さもないと・・・・みたいなそういう戯画的直接的なアレとかが、ここまで露骨じゃなくてもあったりするんでしょうか。カワブチみたいな人が見ている「現実」や「メディア」というのがこういうレベルのものであろうというのには、それは特に異存ありませんから。
最後に残るのはこういう問題。それならまあ、オシムの空回りも理解は出来る。有効だとは思わないにしても。
『無知』というのはかなり挑発的な言い方かも知れませんが、ついでに例えばオシムの『無知』の背景・理由としては、こんなものが考えられると思います。
・高齢または大量の経験の蓄積による、偏屈・自信過剰。
・一方での日本の実情に関する知識・経験不足。(にも関わらずの「日本化」などという大仰な公約)
・同様に、「ネット時代」の実情に関する不可避的な無知。
・ジーコ同様、”大物”ゆえの潜在的な日本サッカーに対する侮り、本当の意味での興味不足。
などなど。
これらはオフト、トルシエといった言わば”小物”系の代表監督(笑)には感じられなかった特徴で、その比較もあって僕は苛ついているわけでしょうけど。
例えばオフトは日本リーグというドブ板時代から日本サッカーに関わり、また当時の日本のサッカーシーンの余りの未整備や民度の未発達から、外国人ながらも「最もよく日本サッカーを理解している」と言っていい、期待していい存在で、一つ一つの施策や言動を、染みこませるように僕は注視していました。
またトルシエはかなりの部分個人的な資質として、非常に柔軟というか興味本位(笑)というか、意図的なコワモテとは裏腹にオープンに日本サッカーに接していて、ジーコやオシムのような天から託宣が降りて来るような距離感をほとんど感じませんでした。フランス人らしくというか、どことなく「文化人類学者」的なセンスの持ち主だったような気がします。むしろ蛮地で生き生きとする、”白い呪術師”。(笑)
だから実際にどれほどのリサーチをしていたのかは知りませんが、トルシエの観察や指摘は国籍を越えて常に痒いところに手が届くというか、少なくとも同一の地平に立っている感触がありました。
・・・・ただ「今後」ということまで考えると、むしろこれらの外国人代表監督は、結果的に例外的な存在になって行くんじゃないかなということも最近は感じています。
彼らは黎明期ならではの言わば「当たるも八卦」な監督で、一応の国際的地位を得た日本が今後わざわざ招く代表監督としては、どうしてもそれなりの名前や実績を携えたタイプにならざるを得ないでしょう。当然そういう人は基本的に上から物を言うでしょうし、なんだかんだと確立されたやり方にはめ込むことが中心になるでしょうし、オフトやトルシエのようにのんびり日本に馴染む暇も柔軟性も期待出来ないでしょう。
だからむしろジーコやオシム(ファルカンも一応そうか)のようなのが、そういう意味では標準で、現在感じているような違和感・距離感に、僕は慣れなくてはいけないのかなと思います。
今思うと幸せでしたねえ。オフトやトルシエのような、「友人」や「同志」と共に戦えた時代は。経験出来なかった人はご愁傷様。(笑)
話戻して「ネット」とそれによる全体的な民度の上昇に関しては、”不可避”と書きましたがさすがにオシムがそれを汲むことを期待するのは無理な注文です。これに関してはオフトもトルシエも、時代的な差で比較的問題化を逃れたという、そういう面の方が大きいと思います。
それは今後来るどのような外国人監督も基本的には同様で、彼らに「2ちゃんを読め」とはなかなか言えない(笑)。いや、見ないよりは見た方がいいだろうと真面目に思いますが。
日本人ならそろそろねらー監督が出て来てもおかしくはないですし、外国人でも世代的にはいずれそうした”空気”を背景にした人は出て来るかもしれません。
いずれにしても最近のJの日本人監督のとんちんかん度はかなり低く感じて(ウチのとかは除く)、”納得感のある運営”を期待するなら代表監督は日本人という考え方は当然あるでしょうね。必ずしもその為に代表はあるわけではないのでナンですが。でも何らか空気も読めないで「日本化」などと口にするのは、正直ちゃんちゃらおかしいと思います。まともに聞いてられません。
これらは要するにオシムが殊更「批評的」を売りにする監督だから出て来る問題で、彼のコーチングの腕やそれが日本代表にもたらすものとかとは、一応別です。でも尊敬されるのは監督の重要な資質ですからね。自ら口でミソつけてるようではなんだかなという感じです。
・・・・どうなんですかね?例えばカワブチが「新聞」の見出しを指差して、ほらこんなこと言われてるぞ、どうするんだ、何とかしろ。さもないと・・・・みたいなそういう戯画的直接的なアレとかが、ここまで露骨じゃなくてもあったりするんでしょうか。カワブチみたいな人が見ている「現実」や「メディア」というのがこういうレベルのものであろうというのには、それは特に異存ありませんから。
最後に残るのはこういう問題。それならまあ、オシムの空回りも理解は出来る。有効だとは思わないにしても。
2007年08月15日 (水) | 編集 |
連休でもないのに試合は木曜とはね。というわけで取り置き(?)しておいた代表ネタ。
前に「取り巻きや通訳の質が悪いのか」と書いたのは、基本的には冗談というか、特に根拠のない憶測ではあるんですが、とにかくオシムの”メディア”関係の発言のあれこれに僕が非常に違和感・・・・もっと言えば不快感を感じているのは、繰り返し仄めかしてきた通りです。
それについてのある程度公平な立場での説明の試み。
そもそもオシムが具体的にどんな”メディア”報道に対してワアワア言ってるのかという問題があって、それに対して例えば有力なオシム擁護者の1人(笑)酩酊さんのところでもこんな風に話題になったりしていますが(コメント欄、”サッキ好き?”さんとのやりとり)、正直そんなに酩酊さんの例示に説得力があるようには僕には感じられません。
ただ事実事実は真実の敵でござる(”ラ・マンチャの男”)というか、個人ブログなんてレベルであんまり文字通りの実証性なんて追求してもおおむねつまらない話にしかならないので、そこらへんはまあ、それくらいで勘弁してやれよという感じですが。(笑)
ただ「新聞」なのか、「テレビ」なのかというのはある程度確認可能な問題だと思うので、一度誰かちゃんと聞いてみて欲しい気はしますね。まあんまりオシムが日本のテレビをマメにチェックしている様子は想像しにくいので(笑)、基本的には新聞なんだろうと思いますが。
例えばそう思って気にして読んだナンバーの最新号なんかでは、はっきり(彼が気にする)『新聞の論調』となっていますね。それについても日本語の読めないはずのオシムがどの程度のチェックの仕方をしているのか、いちいち翻訳させて読んでいるのか、それこそ”取り巻き”が折りに触れてかいつまんでご注進しているというレベルなのか。
実際にはユーゴ時代からの言わば「一般論」としての長年の経験、日本で耳に入って来る折々の情報、それらを元にした印象論というか世界観みたいなものを元に、時に教育的意図を持って、時に単なる苛立ちや問答の癖に任せてオシムが発した言葉の断片が、更に各メディアのバイアスを経て僕らに届いているというわけでしょうが。
でまあそれらの正確な事実関係とかオシムの見解の内容とかは、ある意味どうでもいいんですけどね。僕の違和感や不快感の本体は多分そこにはない。
では何かというと、新聞であれテレビであれ、更に具体的に言えばスポーツ新聞の記事であれ情報番組のコメンテーターのコメントであれ、そういうものも確かに”メディア”の小さくない一部であるし、日本の”論調”をある面代表していないことはないんでしょうが、ぶっちゃけどうなのよ?という。現代の日本のサッカーファンのマジョリティが、そういうレベルの”メディア”をどれほどまともに受け取っているのか、どれほど自分たちの代表と認めているのか。そこんとこをオシムはどう考えているのか、そもそも考えているのか。
結論としてはさして説明の必要がないように思います。ちょっとでもまともにサッカーに興味のある人なら、スポーツ新聞の売らんかなのヘッドライン系の”論”なんて話半分/4分の1(笑)、あるいは話のタネくらいにしか最初から受け取っていないし、現存する解説者やらコメンテーターやらの言うことも、まあよくも懲りずに通り一遍のつまらないことを、愛読してるプロガーの誰それの爪の垢でも煎じて飲めよと、それくらいの勢いで舞台装置の一部程度にしか見ていないことが多いんじゃないでしょうか。(勿論優れた人もいます)
これがむしろ、日本のサッカーファンの平均的なメディア・リテラシー。特にネット時代になってからは決定的にそうなっていると思います。
だからオシムが仮に”メディア批判”をするにしても、そうしたサイレント・マジョリティと「共犯」するような形でやるべきだろうと思いますが、実際には特に何の考えもなしに(そうとしか見えない)勝手に新聞などに日本人を「代表」させて、結果的にそれらの背後にいる僕らを、僕らのメディア・リテラシーをも虚仮にしている。その乱暴さが不愉快。
”挑戦”なら受けて立ちようがありますが、”無知”や”無意識”が相手ではね。横向くしかない。
つまりそもそもの”メディアの問題”を否定するわけではないですが、オシムにそれを的確に扱う資格が、能力があるのかはある意味それ以上に疑問だということです。やるならちゃんとやらなきゃ意味がない、「問題」に更に問題を付け加えるだけです。
問題自体は別に昨日今日発見されたことではないわけですからね。・・・・ああ、でもひょっとしたらオシムは自分が”発見者”だと思っているのかも知れないですね。それくらい無知なのかも。
(後編)につづく
前に「取り巻きや通訳の質が悪いのか」と書いたのは、基本的には冗談というか、特に根拠のない憶測ではあるんですが、とにかくオシムの”メディア”関係の発言のあれこれに僕が非常に違和感・・・・もっと言えば不快感を感じているのは、繰り返し仄めかしてきた通りです。
それについてのある程度公平な立場での説明の試み。
そもそもオシムが具体的にどんな”メディア”報道に対してワアワア言ってるのかという問題があって、それに対して例えば有力なオシム擁護者の1人(笑)酩酊さんのところでもこんな風に話題になったりしていますが(コメント欄、”サッキ好き?”さんとのやりとり)、正直そんなに酩酊さんの例示に説得力があるようには僕には感じられません。
ただ事実事実は真実の敵でござる(”ラ・マンチャの男”)というか、個人ブログなんてレベルであんまり文字通りの実証性なんて追求してもおおむねつまらない話にしかならないので、そこらへんはまあ、それくらいで勘弁してやれよという感じですが。(笑)
ただ「新聞」なのか、「テレビ」なのかというのはある程度確認可能な問題だと思うので、一度誰かちゃんと聞いてみて欲しい気はしますね。まあんまりオシムが日本のテレビをマメにチェックしている様子は想像しにくいので(笑)、基本的には新聞なんだろうと思いますが。
例えばそう思って気にして読んだナンバーの最新号なんかでは、はっきり(彼が気にする)『新聞の論調』となっていますね。それについても日本語の読めないはずのオシムがどの程度のチェックの仕方をしているのか、いちいち翻訳させて読んでいるのか、それこそ”取り巻き”が折りに触れてかいつまんでご注進しているというレベルなのか。
実際にはユーゴ時代からの言わば「一般論」としての長年の経験、日本で耳に入って来る折々の情報、それらを元にした印象論というか世界観みたいなものを元に、時に教育的意図を持って、時に単なる苛立ちや問答の癖に任せてオシムが発した言葉の断片が、更に各メディアのバイアスを経て僕らに届いているというわけでしょうが。
でまあそれらの正確な事実関係とかオシムの見解の内容とかは、ある意味どうでもいいんですけどね。僕の違和感や不快感の本体は多分そこにはない。
では何かというと、新聞であれテレビであれ、更に具体的に言えばスポーツ新聞の記事であれ情報番組のコメンテーターのコメントであれ、そういうものも確かに”メディア”の小さくない一部であるし、日本の”論調”をある面代表していないことはないんでしょうが、ぶっちゃけどうなのよ?という。現代の日本のサッカーファンのマジョリティが、そういうレベルの”メディア”をどれほどまともに受け取っているのか、どれほど自分たちの代表と認めているのか。そこんとこをオシムはどう考えているのか、そもそも考えているのか。
結論としてはさして説明の必要がないように思います。ちょっとでもまともにサッカーに興味のある人なら、スポーツ新聞の売らんかなのヘッドライン系の”論”なんて話半分/4分の1(笑)、あるいは話のタネくらいにしか最初から受け取っていないし、現存する解説者やらコメンテーターやらの言うことも、まあよくも懲りずに通り一遍のつまらないことを、愛読してるプロガーの誰それの爪の垢でも煎じて飲めよと、それくらいの勢いで舞台装置の一部程度にしか見ていないことが多いんじゃないでしょうか。(勿論優れた人もいます)
これがむしろ、日本のサッカーファンの平均的なメディア・リテラシー。特にネット時代になってからは決定的にそうなっていると思います。
だからオシムが仮に”メディア批判”をするにしても、そうしたサイレント・マジョリティと「共犯」するような形でやるべきだろうと思いますが、実際には特に何の考えもなしに(そうとしか見えない)勝手に新聞などに日本人を「代表」させて、結果的にそれらの背後にいる僕らを、僕らのメディア・リテラシーをも虚仮にしている。その乱暴さが不愉快。
”挑戦”なら受けて立ちようがありますが、”無知”や”無意識”が相手ではね。横向くしかない。
つまりそもそもの”メディアの問題”を否定するわけではないですが、オシムにそれを的確に扱う資格が、能力があるのかはある意味それ以上に疑問だということです。やるならちゃんとやらなきゃ意味がない、「問題」に更に問題を付け加えるだけです。
問題自体は別に昨日今日発見されたことではないわけですからね。・・・・ああ、でもひょっとしたらオシムは自分が”発見者”だと思っているのかも知れないですね。それくらい無知なのかも。
(後編)につづく
2007年07月27日 (金) | 編集 |
一日経つと結構印象薄れますねえ。
アジア杯準決勝 日本代表 ●2−3○ サウジアラビア代表(ベトナム・ハノイ)
まあそんなにこの一試合でどうという、重要な試合ではなかったと思います。状況的にはともかく内容的には。アジアカップ自体そうと言えばそうですけど。
ある時期までは間違いなく、うっかり目を見たら石にされそうなアジアの魔王として日本代表の前に立ちはだかっていた「アジアのブラジル」ことサウジアラビア代表ですが、’95加茂ジャパンのこの試合あたりを境にして、日本代表の組織力の前に無力化されてすっかり”昔の名前”になりつつあったような気がします。
世界では通用しない弱い者苛めの実態を、日本の前でも曝すようになったというか。
今回対戦したサウジ代表は噂によると近年にない傑作チームということですが、それゆえ、というよりも現代表の擬ジーコぶり、デフォルト志向ぶりにより、久しぶりにまともに向き合ったらやっぱりやられちゃったみたいな、そんな試合に僕は感じました。
それをいいとも悪いともとりあえずは思わないですけどね。”ジーコ”とは言え”擬”であって、選手が普通に持っている力自体は発揮できる準備をオシムはしているわけで、恨むようなことでは。コンディションとかはまた別にして、純サッカー的には。
気になると言えば例の回れど進まない、シュートを打たないというあれですが、それは「ポゼッション」全般の問題というのも確かにあるし、オシムの言う「疲労でアイデアが出ない」という問題もこれも確かにあるだろうと思いますが、更に根底にはこのチーム特有の問題、「効率」や「確実性」や「必然性」を極端に重視する体質、「静」的状態を基準に「動」的状態を考えているという特徴が大きく関わっているように思います。(参考)
前者は例えばキリンカップでの憲剛のシュートに対する叱責に象徴される、オシムの神経質さ・完全主義、それに真面目に応えようとする日本人選手たちがいつしか落ち込む萎縮や考え過ぎみたいなもの。綺麗に完璧にやろうとして、詰まり出すと考え出すと止まらないわけですよ。
所謂「思い切りのいいプレー」のかなりの部分が、単なる「雑な」「勝手な」プレーとされてしまう可能性が高い。オシムに言わせると”インスピレーション”を持ち込むポイントが違うんだよ、低次元なんだよ、その前にクリアしておくべきことがこれだけあるんだよということなんでしょうが。
とにかく先を考え過ぎて立ち往生している部分が大きいので、よくある「勘と手癖で何となく回している」状態とは違うと思うんですよね。溺れてるわけではない。単に好きにやれと言われたら、多分あの状態でもとりあえずはもっと出来た。
ここらへんが保守的(つうか原始的)なタイプのサッカー人たちの癇に触るところでしょうけどね。もっと簡単に自然にやれよと。李国秀が讀賣OB連に受けたバッシングと少し似てますが。
僕は必ずしもオシム/李的なサッカーに内容的に賛同するものではありませんが、狙いがあるのは分かると、とりあえず志や良しと。だからそれを一通り理解・想像した上での指摘でなければ、あまり意味はないと思います。ヴィジョンとヴィジョンの対立ならともかく、ただの点じゃあね。
後者は広げようと思えばかなり広がる話なんですが・・・・まあ今日はやめておきましょう(笑)。いずれ”マスコミ”論みたいなものの一環として書く予定もあるので。
とにかくこの前言ったように、オシムのサッカーはどちらかというと止まった、安定した、整然とした状態をまず基準に考えて、そこから動きをつけていくサッカーなので、まあ止まるわけですよ。
そこから動きがうまくつけられないと止まっている印象が容赦なく剥き出されるというのと、それに影響されてプレイヤーの気持ちも頭も更に止まる。そこに上の”完全主義”のプレッシャーまでのしかかる。もう大変。
結果確かに平均的なチームでも出来る・するようなプレー(例えばシュート)すら行なわれないような状態が出現するわけですが、うーんどうなんでしょうね。オシムのチームの課題はオシムのチームの課題として解決されるしかないんじゃないですかね。個別の指摘にどれくらい意味があるのか。繰り返しになりますが。
なんて言いますか。
そう、オシム(のチーム)の”キーワード”みたいなものを考えてみるとすると、パーフェクト、コントロール、ナーバス(笑)てな感じになると思うんですけど。なるんですよ。今決めました。
で、だからオシムのチームがちゃんと機能するためには、状況がコントロールされていること、オシムのゲームになっていることが必要だと思います。
それは完全に制圧しているようなゲームでも勿論いいですし、そうでなくても相手が文体を何がしか共有してくれて、良いマッチアップが行なわれるということでもいい。コロンビア戦のように。
だからオシムのチームのサッカーに対する評価というのは、基本的に上手く行った状態を元に行なうべきだと思います。上手く行ったとしてそれでどうなるのか、どういうセールスポイントがあってどこらへんに欠点があるのか。それ以外はほとんど成り行き、偶然。
随分甘えているようですが、チームの評価といっても”トップ”に対するものと”ボトム”に対するもの、それから”アベレージ”に対するものとそれぞれにあり得ますから。逆にそのチームはどこらへんに強味があるのかという違いも。
勿論永久にそれとか明日決戦とかいうならそうも言ってられませんが、当面はね。これは一般論としての「長い目で見ろ」論ではありません。それこそ”ボトム”の堅固さが売りのチームなら、そんなものは2,3試合で見えてくれないと困りますから。あくまでオシム用の尺度です。
・・・・どちらかというと僕は長い目で見ない方だと思いますしね(笑)。直観的で見切りが早い。
とにかく見えている現象の全てに同じように意味があるわけではないので。僕の「パワーアップ版ジーコジャパン論」なんかも、そういう取捨選択の試みの一つですが。オシムが違うと言ってもいや違わないと僕は言い返します。(笑)
話戻してつまりサウジ戦で起きたことは、データとしてそんなに価値がないと感じているわけですね。想定内の結果というか。一番の「データ」は、やはり冒頭の今更思い知らされたサウジの個力というポイントかと。
あんまりまとまりませんが、とりあえずこんなとこで。
ちなみにオシム・サッカーの淵源としてよく語られる’74年”トータル”オランダチームなんてのは、むしろ暴力的にどんな相手も自分のペースに巻き込むような殺伐とした(笑)チームでしたけどね。監督の個性とかとは別に、理論的にここに何が加わってこんな繊細なチームになっているのか。
うーん、やっぱりせめてジェフ時代くらいはDVDででも見返しとくべきですかね。やっぱりちょっと、落ち着かない。なんかあるでしょ。
アジア杯準決勝 日本代表 ●2−3○ サウジアラビア代表(ベトナム・ハノイ)
まあそんなにこの一試合でどうという、重要な試合ではなかったと思います。状況的にはともかく内容的には。アジアカップ自体そうと言えばそうですけど。
ある時期までは間違いなく、うっかり目を見たら石にされそうなアジアの魔王として日本代表の前に立ちはだかっていた「アジアのブラジル」ことサウジアラビア代表ですが、’95加茂ジャパンのこの試合あたりを境にして、日本代表の組織力の前に無力化されてすっかり”昔の名前”になりつつあったような気がします。
世界では通用しない弱い者苛めの実態を、日本の前でも曝すようになったというか。
今回対戦したサウジ代表は噂によると近年にない傑作チームということですが、それゆえ、というよりも現代表の擬ジーコぶり、デフォルト志向ぶりにより、久しぶりにまともに向き合ったらやっぱりやられちゃったみたいな、そんな試合に僕は感じました。
それをいいとも悪いともとりあえずは思わないですけどね。”ジーコ”とは言え”擬”であって、選手が普通に持っている力自体は発揮できる準備をオシムはしているわけで、恨むようなことでは。コンディションとかはまた別にして、純サッカー的には。
気になると言えば例の回れど進まない、シュートを打たないというあれですが、それは「ポゼッション」全般の問題というのも確かにあるし、オシムの言う「疲労でアイデアが出ない」という問題もこれも確かにあるだろうと思いますが、更に根底にはこのチーム特有の問題、「効率」や「確実性」や「必然性」を極端に重視する体質、「静」的状態を基準に「動」的状態を考えているという特徴が大きく関わっているように思います。(参考)
前者は例えばキリンカップでの憲剛のシュートに対する叱責に象徴される、オシムの神経質さ・完全主義、それに真面目に応えようとする日本人選手たちがいつしか落ち込む萎縮や考え過ぎみたいなもの。綺麗に完璧にやろうとして、詰まり出すと考え出すと止まらないわけですよ。
所謂「思い切りのいいプレー」のかなりの部分が、単なる「雑な」「勝手な」プレーとされてしまう可能性が高い。オシムに言わせると”インスピレーション”を持ち込むポイントが違うんだよ、低次元なんだよ、その前にクリアしておくべきことがこれだけあるんだよということなんでしょうが。
とにかく先を考え過ぎて立ち往生している部分が大きいので、よくある「勘と手癖で何となく回している」状態とは違うと思うんですよね。溺れてるわけではない。単に好きにやれと言われたら、多分あの状態でもとりあえずはもっと出来た。
ここらへんが保守的(つうか原始的)なタイプのサッカー人たちの癇に触るところでしょうけどね。もっと簡単に自然にやれよと。李国秀が讀賣OB連に受けたバッシングと少し似てますが。
僕は必ずしもオシム/李的なサッカーに内容的に賛同するものではありませんが、狙いがあるのは分かると、とりあえず志や良しと。だからそれを一通り理解・想像した上での指摘でなければ、あまり意味はないと思います。ヴィジョンとヴィジョンの対立ならともかく、ただの点じゃあね。
後者は広げようと思えばかなり広がる話なんですが・・・・まあ今日はやめておきましょう(笑)。いずれ”マスコミ”論みたいなものの一環として書く予定もあるので。
とにかくこの前言ったように、オシムのサッカーはどちらかというと止まった、安定した、整然とした状態をまず基準に考えて、そこから動きをつけていくサッカーなので、まあ止まるわけですよ。
そこから動きがうまくつけられないと止まっている印象が容赦なく剥き出されるというのと、それに影響されてプレイヤーの気持ちも頭も更に止まる。そこに上の”完全主義”のプレッシャーまでのしかかる。もう大変。
結果確かに平均的なチームでも出来る・するようなプレー(例えばシュート)すら行なわれないような状態が出現するわけですが、うーんどうなんでしょうね。オシムのチームの課題はオシムのチームの課題として解決されるしかないんじゃないですかね。個別の指摘にどれくらい意味があるのか。繰り返しになりますが。
なんて言いますか。
そう、オシム(のチーム)の”キーワード”みたいなものを考えてみるとすると、パーフェクト、コントロール、ナーバス(笑)てな感じになると思うんですけど。なるんですよ。今決めました。
で、だからオシムのチームがちゃんと機能するためには、状況がコントロールされていること、オシムのゲームになっていることが必要だと思います。
それは完全に制圧しているようなゲームでも勿論いいですし、そうでなくても相手が文体を何がしか共有してくれて、良いマッチアップが行なわれるということでもいい。コロンビア戦のように。
だからオシムのチームのサッカーに対する評価というのは、基本的に上手く行った状態を元に行なうべきだと思います。上手く行ったとしてそれでどうなるのか、どういうセールスポイントがあってどこらへんに欠点があるのか。それ以外はほとんど成り行き、偶然。
随分甘えているようですが、チームの評価といっても”トップ”に対するものと”ボトム”に対するもの、それから”アベレージ”に対するものとそれぞれにあり得ますから。逆にそのチームはどこらへんに強味があるのかという違いも。
勿論永久にそれとか明日決戦とかいうならそうも言ってられませんが、当面はね。これは一般論としての「長い目で見ろ」論ではありません。それこそ”ボトム”の堅固さが売りのチームなら、そんなものは2,3試合で見えてくれないと困りますから。あくまでオシム用の尺度です。
・・・・どちらかというと僕は長い目で見ない方だと思いますしね(笑)。直観的で見切りが早い。
とにかく見えている現象の全てに同じように意味があるわけではないので。僕の「パワーアップ版ジーコジャパン論」なんかも、そういう取捨選択の試みの一つですが。オシムが違うと言ってもいや違わないと僕は言い返します。(笑)
話戻してつまりサウジ戦で起きたことは、データとしてそんなに価値がないと感じているわけですね。想定内の結果というか。一番の「データ」は、やはり冒頭の今更思い知らされたサウジの個力というポイントかと。
あんまりまとまりませんが、とりあえずこんなとこで。
ちなみにオシム・サッカーの淵源としてよく語られる’74年”トータル”オランダチームなんてのは、むしろ暴力的にどんな相手も自分のペースに巻き込むような殺伐とした(笑)チームでしたけどね。監督の個性とかとは別に、理論的にここに何が加わってこんな繊細なチームになっているのか。
うーん、やっぱりせめてジェフ時代くらいはDVDででも見返しとくべきですかね。やっぱりちょっと、落ち着かない。なんかあるでしょ。
2007年07月22日 (日) | 編集 |
暑い・・・・。風邪ひいたかな。
アジア杯準々決勝 日本代表 ○1−1●(PK4−3) オーストラリア代表(ベトナム・ハノイ)
PK戦で大きく先行したゆえに、その後を苦しく感じたのは初めてですかね。
単に僕が粗忽者で、勝ち急ぐタチなだけかも知れませんが。(笑)
と、いうわけで、「スーパー・ジーコジャパン」の試合。
”300%”だから”3”くらいつけても罰は当たらないかも知れませんが、これが最終形態とか言われても困りますしね。
改めてそういう目で見てみると、4人の最終ライン、4人のボックス型の中盤、そして2人のFWの並びのスッキリと安定して見えること。なるほどこれは落ち着くというのと、個々の能力がじっくりと発揮・鑑賞出来て、ジーコもこういう風にしたかったんだろうなと、僕の文脈の中での納得感があります。
と同時にあまりにも自然な秩序感があるので、出来上がりだけを見てるとてっきりチーム作り自体も”自然に”出来るような気になって、それでジーコみたいな人は選手をただ並べて後は時間が解決してくれると、そういう勘違いをしてしまうのかなと。
でも案外難しいんですよねこのシステム。とりあえずの中継役になってくれるトップ下はいないし、段差があってかつ均等に人がいないのでプレスはかかりにくいし、サイドハーフが外に張り出していかにもサイド攻撃をうまく導き出せそうなものなのに、張り方が見え見え過ぎるせいかなぜか逆に詰まっちゃうか、SBの超人的な働きに期待するような羽目になることが多い。
経験的に言っているだけで、メカニズム的なことはしかと言えないんですが。
ともかく安定感があるので「取りあえず」使われることは多いですが、はっきり機能することは少ない。・・・・というか、相当なレベルの組織力を持ったチームが使って初めて、良さの分かるシステム。Jで言えば端緒は何と言っても’94年のバクスターの広島、最近なら勿論西野ガンバ、他には伝統芸としての鹿島や、ハマった時には”究極”という感じだった李国秀のヴェルディとか。
ブラジル・セレソンの場合はどうかというと、一つは「取りあえず」の無作為性に各ポジションの「超人」性を乗っけてあるというのと、もう一つはやはり(正に)鹿島的な伝統芸性、この2つの条件であたかも”機能して当たり前”なシステムに見せている。これもまた勘違いの元。
オシム・ジャパンの場合は、具体的には外からはよく分からないですが、オシムのさぞかし肌目の細かい指導の甲斐あって、短期間にしては随分熟成感のあるものになってますよね。
おかげで”システム”としては「空気」のようなものになって後は個々の頑張り次第という感じが鮮明で、言いたかないですがどうせなら最初からこれを、4年前から始めたかったな、ジーコ飛ばしてトルシエの後にいきなりオシム(か誰か)だったらな。(”個人”志向の)『実験』として効率が良かったな&ナイジェリア/シドニー組の総決算が悔いの無いものになったのになと、恐ろしく意味のないことをどうしても考えてしまいます。
・・・・と、言うのが基本的なヴィジョンではあるわけですが、この試合そのものを礼賛モードで語るのはさすがに難しい。実にこう、破綻は無いけどパッとしない試合で。話の流れとしては、言っておかなくてはならないことなわけですけど。
ただこのチームの「出来不出来」を語る時に、あんまりやいのやいの活力や動きや積極性を言っても仕方がないんだとは言っておくべきかと。あくまで基本は落ち着きで、”動き”や”走り”は起きる時以外は起きないと、そういう感じで見るべきかと。労苦は厭わないけれど無駄は厭うわけですよ。目標としては全てのプレーを成功させる、そういうサッカー。”走る”けれど”走り回る”わけではない。可愛げで売る(日本的な?)サッカーではない。
なんで特に好きでもないチームについて擁護モードに入ってるのかよく分かりませんが(笑)、まあ言うべきと思うことは言っておかないと。
ジェフ的なオシムとの比較や連続性についてもうっすらと考え始めてはいるんですが、また今度ということで。次の試合は何かもっと、新鮮なインスピレーションを与えてくれるものであることを祈ります。(笑)
この試合についてはとにかく、アングロサクソン系の身体能力の厄介さは格別だなと。武骨で硬い感じが逆に嫌だなと。デカくて上手くても柔らか味のあるスラブ系(&それに準ずるものとしてのアラブ系)の方が、まだ日本人には対処しやすいのかなというそういう感じでした。
アフリカ系も勿論嫌だけど結構慣れましたからね。やられ方に心の準備が出来ているというか。
アジア杯準々決勝 日本代表 ○1−1●(PK4−3) オーストラリア代表(ベトナム・ハノイ)
PK戦で大きく先行したゆえに、その後を苦しく感じたのは初めてですかね。
単に僕が粗忽者で、勝ち急ぐタチなだけかも知れませんが。(笑)
と、いうわけで、「スーパー・ジーコジャパン」の試合。
”300%”だから”3”くらいつけても罰は当たらないかも知れませんが、これが最終形態とか言われても困りますしね。
改めてそういう目で見てみると、4人の最終ライン、4人のボックス型の中盤、そして2人のFWの並びのスッキリと安定して見えること。なるほどこれは落ち着くというのと、個々の能力がじっくりと発揮・鑑賞出来て、ジーコもこういう風にしたかったんだろうなと、僕の文脈の中での納得感があります。
と同時にあまりにも自然な秩序感があるので、出来上がりだけを見てるとてっきりチーム作り自体も”自然に”出来るような気になって、それでジーコみたいな人は選手をただ並べて後は時間が解決してくれると、そういう勘違いをしてしまうのかなと。
でも案外難しいんですよねこのシステム。とりあえずの中継役になってくれるトップ下はいないし、段差があってかつ均等に人がいないのでプレスはかかりにくいし、サイドハーフが外に張り出していかにもサイド攻撃をうまく導き出せそうなものなのに、張り方が見え見え過ぎるせいかなぜか逆に詰まっちゃうか、SBの超人的な働きに期待するような羽目になることが多い。
経験的に言っているだけで、メカニズム的なことはしかと言えないんですが。
ともかく安定感があるので「取りあえず」使われることは多いですが、はっきり機能することは少ない。・・・・というか、相当なレベルの組織力を持ったチームが使って初めて、良さの分かるシステム。Jで言えば端緒は何と言っても’94年のバクスターの広島、最近なら勿論西野ガンバ、他には伝統芸としての鹿島や、ハマった時には”究極”という感じだった李国秀のヴェルディとか。
ブラジル・セレソンの場合はどうかというと、一つは「取りあえず」の無作為性に各ポジションの「超人」性を乗っけてあるというのと、もう一つはやはり(正に)鹿島的な伝統芸性、この2つの条件であたかも”機能して当たり前”なシステムに見せている。これもまた勘違いの元。
オシム・ジャパンの場合は、具体的には外からはよく分からないですが、オシムのさぞかし肌目の細かい指導の甲斐あって、短期間にしては随分熟成感のあるものになってますよね。
おかげで”システム”としては「空気」のようなものになって後は個々の頑張り次第という感じが鮮明で、言いたかないですがどうせなら最初からこれを、4年前から始めたかったな、ジーコ飛ばしてトルシエの後にいきなりオシム(か誰か)だったらな。(”個人”志向の)『実験』として効率が良かったな&ナイジェリア/シドニー組の総決算が悔いの無いものになったのになと、恐ろしく意味のないことをどうしても考えてしまいます。
・・・・と、言うのが基本的なヴィジョンではあるわけですが、この試合そのものを礼賛モードで語るのはさすがに難しい。実にこう、破綻は無いけどパッとしない試合で。話の流れとしては、言っておかなくてはならないことなわけですけど。
ただこのチームの「出来不出来」を語る時に、あんまりやいのやいの活力や動きや積極性を言っても仕方がないんだとは言っておくべきかと。あくまで基本は落ち着きで、”動き”や”走り”は起きる時以外は起きないと、そういう感じで見るべきかと。労苦は厭わないけれど無駄は厭うわけですよ。目標としては全てのプレーを成功させる、そういうサッカー。”走る”けれど”走り回る”わけではない。可愛げで売る(日本的な?)サッカーではない。
なんで特に好きでもないチームについて擁護モードに入ってるのかよく分かりませんが(笑)、まあ言うべきと思うことは言っておかないと。
ジェフ的なオシムとの比較や連続性についてもうっすらと考え始めてはいるんですが、また今度ということで。次の試合は何かもっと、新鮮なインスピレーションを与えてくれるものであることを祈ります。(笑)
この試合についてはとにかく、アングロサクソン系の身体能力の厄介さは格別だなと。武骨で硬い感じが逆に嫌だなと。デカくて上手くても柔らか味のあるスラブ系(&それに準ずるものとしてのアラブ系)の方が、まだ日本人には対処しやすいのかなというそういう感じでした。
アフリカ系も勿論嫌だけど結構慣れましたからね。やられ方に心の準備が出来ているというか。
2007年07月20日 (金) | 編集 |
(前)編から。
次に2.「パスサッカー」なり「攻撃的スタイル」には、大きく分けて2種類の流れがある。ですが、これは簡単に言うと
(1)ブラジル−ポルトガル(−オランダ)のライン
(2)アルゼンチン−スペインのライン
の2つですね。
数年前、何かのインタビューでジーコが「(ブラジル以外で)評価する代表チームは?」みたいな質問を聞かれて、挙げた名前がまずポルトガル、オランダ。なるほど。次にフランス。いかにも。それからドイツにイングランド。イングランド?随分リップサービスしますね、それじゃ主要国全部になっちゃうじゃん。で?次は?・・・・終わり?!
何とイングランドまで挙げておいてスペインもアルゼンチンも黙殺。アルゼンチンへのライバル心があるとは言え、口調としては淡々とシリアスなものだったので、徹底してるなと。サッカー観出てるなと逆に感心したんですが。
大雑把に言えば足元志向vsスペース&ランニング志向ということでしょうけどね。
協会きっての理論家である小野剛さんは、実際にオランダなど国名を挙げて前者を”プレイスメント”志向と呼び、「日本はその方向を取らない」と以前はっきり言っていました。(力関係はその都度色々でしょうが)
さてこの場合問題となるのがオシムの『走る』サッカーという通り名でしょうが。
走る、んです、確かに。でもそれは”止まった”状態、ステーションパス的な状態を基準にして、それへコントラストをつけるような形で行なわれる。特に「追い越す」というプレーはそうですね。
だから走らないオシムのチームは確かに「足りない」状態ではあるわけですが、基本形は確保されている、崩れてはいない。
それに対して後者の方向性は走ること、というより止まらないことを前提としているので、走らなければ始まらない、止まってる状態は純然たる失敗なわけです。
かなり単純化してありますが、そういうことです。
まとめて言うと、オシムはジーコの「思考単位として独立した個人」を基準とした「足元パスサッカー」というスタイルを、それをより効率的に行なえる(ジーコにはなかった)関係性作りでサポートしつつ、そこに『走る』『追い越す』『飛び出す』という発展的かつ補完的なオプションを恒常的なものとして付け加えている。・・・・現象としてはそういうことかと。どういう文脈でやってるのかは知りませんが。
そしてそれは「集団思考」に「個人」が嬉々として組み込まれる、また本質的にスペース志向である近年の日本スタイルとは必ずしも一致はしないが、一方でめきめきと攻撃知性・個人戦術を向上させつつある日本人選手たちの腕の(脚の)振るいどころでもある、そういう幸福な部分もあるということです。
ちょっとね、オシム・ジェフとユーゴ代表に詳しくないのでそこが不安なんですが、場合によってはそれはまとめて無かったことにしてもいいかなと。(笑)
日本代表は日本代表であるし、今のオシムは今のオシムであるし、最初に言った通りこれは基本的に「日本の代表サッカー史」目線での現象学であるので、その”窓”から見えたものは見えたものであると、居直るつもりでいます。
就任後オシムがなぜか”美しい”サッカーに重心を移した、こっそり心変わりしたという疑惑も一つあるんですが・・・・。色々含めて、「あったかも知れないジーコジャパン」を楽しんでみようかなと。
全然違ったらごめんなさい。(笑)
次に2.「パスサッカー」なり「攻撃的スタイル」には、大きく分けて2種類の流れがある。ですが、これは簡単に言うと
(1)ブラジル−ポルトガル(−オランダ)のライン
(2)アルゼンチン−スペインのライン
の2つですね。
数年前、何かのインタビューでジーコが「(ブラジル以外で)評価する代表チームは?」みたいな質問を聞かれて、挙げた名前がまずポルトガル、オランダ。なるほど。次にフランス。いかにも。それからドイツにイングランド。イングランド?随分リップサービスしますね、それじゃ主要国全部になっちゃうじゃん。で?次は?・・・・終わり?!
何とイングランドまで挙げておいてスペインもアルゼンチンも黙殺。アルゼンチンへのライバル心があるとは言え、口調としては淡々とシリアスなものだったので、徹底してるなと。サッカー観出てるなと逆に感心したんですが。
大雑把に言えば足元志向vsスペース&ランニング志向ということでしょうけどね。
協会きっての理論家である小野剛さんは、実際にオランダなど国名を挙げて前者を”プレイスメント”志向と呼び、「日本はその方向を取らない」と以前はっきり言っていました。(力関係はその都度色々でしょうが)
さてこの場合問題となるのがオシムの『走る』サッカーという通り名でしょうが。
走る、んです、確かに。でもそれは”止まった”状態、ステーションパス的な状態を基準にして、それへコントラストをつけるような形で行なわれる。特に「追い越す」というプレーはそうですね。
だから走らないオシムのチームは確かに「足りない」状態ではあるわけですが、基本形は確保されている、崩れてはいない。
それに対して後者の方向性は走ること、というより止まらないことを前提としているので、走らなければ始まらない、止まってる状態は純然たる失敗なわけです。
かなり単純化してありますが、そういうことです。
まとめて言うと、オシムはジーコの「思考単位として独立した個人」を基準とした「足元パスサッカー」というスタイルを、それをより効率的に行なえる(ジーコにはなかった)関係性作りでサポートしつつ、そこに『走る』『追い越す』『飛び出す』という発展的かつ補完的なオプションを恒常的なものとして付け加えている。・・・・現象としてはそういうことかと。どういう文脈でやってるのかは知りませんが。
そしてそれは「集団思考」に「個人」が嬉々として組み込まれる、また本質的にスペース志向である近年の日本スタイルとは必ずしも一致はしないが、一方でめきめきと攻撃知性・個人戦術を向上させつつある日本人選手たちの腕の(脚の)振るいどころでもある、そういう幸福な部分もあるということです。
ちょっとね、オシム・ジェフとユーゴ代表に詳しくないのでそこが不安なんですが、場合によってはそれはまとめて無かったことにしてもいいかなと。(笑)
日本代表は日本代表であるし、今のオシムは今のオシムであるし、最初に言った通りこれは基本的に「日本の代表サッカー史」目線での現象学であるので、その”窓”から見えたものは見えたものであると、居直るつもりでいます。
就任後オシムがなぜか”美しい”サッカーに重心を移した、こっそり心変わりしたという疑惑も一つあるんですが・・・・。色々含めて、「あったかも知れないジーコジャパン」を楽しんでみようかなと。
全然違ったらごめんなさい。(笑)
2007年07月20日 (金) | 編集 |
Gリーグ総括というか、それにちなんで書いて来た文章の総括というか。
アジア杯Gリーグからインスピレーションを得た、ここまでのオシム・サッカーの総括。
あらかじめ言っておきますと、ほとんど論証にも実証にもなってません。(笑)
ああ書きたくない。でも書かないと落ち着かない。つまりは書きたいのか?
・・・・なんかね、オシムについて言われてることって、批判派も擁護派も引っくるめて、ゴチャゴチャゴニョゴニョしてるだけで、さっぱりピンと来ないんですよ。批判派は現象だけだし、擁護派は論理だけ、つまり”批判派”への反論をしてるだけで、それが現に展開されているこれとどういう関係があるのか。俺分かんないから誰かちゃんと教えてくれよという。
でもくれないようなので(笑)、ここは僕が無知と野蛮を利して、一回えいっとまとめてしまおうという。
どうせ根拠が薄いのでいきなり結論から言ってしまいます。オシム・サッカーとは要するに何か。
それは
ジーコがやろうとしていたことを300%くらい合理的にしたもの
である。どう?分かる?分からないか。そりゃそうですね。
まず言っておくと、これはオシムがそういうつもりだというのとは少し違います。ひょっとしたらそうだったりするかも知れませんが、それは僕は知りません。
そうではなくて、どういう”つもり”かでオシムがやっている/やろうとしていることが、「日本の代表サッカー史」という視点から見ると、結果的にジーコのそれと思いの他かぶってくる、かなり遠いけど同一線上にあるということです。だからオシムには振らないで下さい(笑)。多分また怒られます。
勿論こういう定義が、俊輔合流後の、クラッキ率の高い、かつアジア杯の高温多湿下での省エネスタイルの印象に多くを負っているのは言うまでもありません。素直でしょ?(笑)
ただそうして現れたものが、必ずしもオシム・サッカーの(日本サッカーにとっての)本質と大きくずれたものではない、また単にオシムが「経験豊富」で「対応力がある」ことを表わすものでもないと僕には感じられるのです。
補助線として2つのテーゼを挙げておきたいと思います。
1.「組織」と「個人」という言い方は相対的なものである。また「組織」と言っても、実にいろいろなタイプのものがある。
2.「パスサッカー」なり「攻撃的スタイル」には、大きく分けて2種類の流れがある。
1.は実はU−20W杯の時に言おうと思っていたことなんですが。
「組織的」なサッカーと言っても、イタリアのように正に(犯罪?)”組織”が”個人”をすりつぶすような抑圧的なタイプのものもあれば、ドイツのように”一致団結”して”衆”として盛り上がるようなもの、あるいは共産圏的な”軍隊”っぽいものなど。日本の「組織」サッカーは喜びのサッカー、組織であることによって「個人」の力が倍加するもの、嬉々として組織的なサッカー。ジーコを筆頭とするある種のブラジル人監督たちには、それが分かっていない。
以上は”民族性”みたいな割りと曖昧な話ですが、今回特に提示したいのは、
(1)思考する「個人」が寄り集まって作る「組織」「集団」
(2)組織的「集団的思考」が個人の思考を代用・包摂するタイプの組織
という2つの理念型です。
結論から言うと、オシムもそしてジーコも(1)のタイプを基本に考えているが、ナショナルトレセン制度以来(?)日本の協会が主導して来た、そして日本の民族性とも合致すると(僕に)思われるのは主に(2)であると思います。
しばしば協会との折り合いの悪さを伝えられたトルシエですが(笑)、方向性としてはむしろとても融和的な人だったのではないかと。
・・・・(後)編へつづく。
アジア杯Gリーグからインスピレーションを得た、ここまでのオシム・サッカーの総括。
あらかじめ言っておきますと、ほとんど論証にも実証にもなってません。(笑)
ああ書きたくない。でも書かないと落ち着かない。つまりは書きたいのか?
・・・・なんかね、オシムについて言われてることって、批判派も擁護派も引っくるめて、ゴチャゴチャゴニョゴニョしてるだけで、さっぱりピンと来ないんですよ。批判派は現象だけだし、擁護派は論理だけ、つまり”批判派”への反論をしてるだけで、それが現に展開されているこれとどういう関係があるのか。俺分かんないから誰かちゃんと教えてくれよという。
でもくれないようなので(笑)、ここは僕が無知と野蛮を利して、一回えいっとまとめてしまおうという。
どうせ根拠が薄いのでいきなり結論から言ってしまいます。オシム・サッカーとは要するに何か。
それは
ジーコがやろうとしていたことを300%くらい合理的にしたもの
である。どう?分かる?分からないか。そりゃそうですね。
まず言っておくと、これはオシムがそういうつもりだというのとは少し違います。ひょっとしたらそうだったりするかも知れませんが、それは僕は知りません。
そうではなくて、どういう”つもり”かでオシムがやっている/やろうとしていることが、「日本の代表サッカー史」という視点から見ると、結果的にジーコのそれと思いの他かぶってくる、かなり遠いけど同一線上にあるということです。だからオシムには振らないで下さい(笑)。多分また怒られます。
勿論こういう定義が、俊輔合流後の、クラッキ率の高い、かつアジア杯の高温多湿下での省エネスタイルの印象に多くを負っているのは言うまでもありません。素直でしょ?(笑)
ただそうして現れたものが、必ずしもオシム・サッカーの(日本サッカーにとっての)本質と大きくずれたものではない、また単にオシムが「経験豊富」で「対応力がある」ことを表わすものでもないと僕には感じられるのです。
補助線として2つのテーゼを挙げておきたいと思います。
1.「組織」と「個人」という言い方は相対的なものである。また「組織」と言っても、実にいろいろなタイプのものがある。
2.「パスサッカー」なり「攻撃的スタイル」には、大きく分けて2種類の流れがある。
1.は実はU−20W杯の時に言おうと思っていたことなんですが。
「組織的」なサッカーと言っても、イタリアのように正に(犯罪?)”組織”が”個人”をすりつぶすような抑圧的なタイプのものもあれば、ドイツのように”一致団結”して”衆”として盛り上がるようなもの、あるいは共産圏的な”軍隊”っぽいものなど。日本の「組織」サッカーは喜びのサッカー、組織であることによって「個人」の力が倍加するもの、嬉々として組織的なサッカー。ジーコを筆頭とするある種のブラジル人監督たちには、それが分かっていない。
以上は”民族性”みたいな割りと曖昧な話ですが、今回特に提示したいのは、
(1)思考する「個人」が寄り集まって作る「組織」「集団」
(2)組織的「集団的思考」が個人の思考を代用・包摂するタイプの組織
という2つの理念型です。
結論から言うと、オシムもそしてジーコも(1)のタイプを基本に考えているが、ナショナルトレセン制度以来(?)日本の協会が主導して来た、そして日本の民族性とも合致すると(僕に)思われるのは主に(2)であると思います。
しばしば協会との折り合いの悪さを伝えられたトルシエですが(笑)、方向性としてはむしろとても融和的な人だったのではないかと。
・・・・(後)編へつづく。
2007年07月18日 (水) | 編集 |
と、言うべき内容だよな。昨日の続き。
つまり日本人は十分に上手くなっている、成長しているという話でしたが。
ではその日本人選手たちがどういうサッカーをすべきか、して欲しいかということですが、はっきり言ってそれはどうでもいいです(笑)。何でも。どんなサッカーでも。ジーコみたいな極端なアレでさえなければ。
元々そんなにスタイル自体にこだわりのある人ではないですからね。それなりにちゃんとやってくれれば、ベストを尽くしてくれれば。真剣に受け止められて、(だからこそ)楽しめるポイントが見つけられれば。WhatよりもHowというか。
そしてその前提として、”日本人の成長”という話もあるわけですね。つまりこうでなければ、ズバリハマらなければ、スーパーでなければ駄目ということはない、どんなのでも一応は出来るだけの底力はついていると思うという。
勿論まだまだ足りないところだらけではあるわけでしょうが、それだってつまりは実験段階で、どのやり方だろうとまずはやってみるしかないので、だからこそ意味のあるデータをとるために”ちゃんと”やってくれること、”How”が大事だというそういう話。
だから当然別にオシムでもいいわけです。オシムのやり方でも。疑問や弱点がいくつか見出せたとしても。増して日本の場合、属している「アジア」の日常と目指している「世界」の非日常との間に、少なからぬギャップが存在するわけで。結論はどうしても先になる。
だからとりあえずやってちょうだいと。ただし”ちゃんと”ね。
で、その場合に問題になるのはオシム自身がオタついて、”実験”の手際が悪くなってデータの価値が下がることで。そういう意味でオシムに関する一番の懸念は、技術的・戦術的なことではなくてオシムの自意識過剰、マスコミ/世論対応の過敏さの方ですね。
この前の会見でもこんなのが。サポティスタでも取り上げられてましたが。
はて。
何せ『個人的に気になる』ことなわけですから要は感じ方ではあるんでしょうが、全く僕の実感とは合わないですね。今回も。ずれてるというか。恐らくそう感じる人は多いと思います。
少なくとも日本のジャーナリズムがここらへんについて特に厳しい、あるいはオシムに対して特になんてことは全然ないように思います。何甘ったれてるんだろうという。
どうもここらへんに関しては本当にオシムの”個人的”な事情、取り巻きの質が悪いか通訳がCIAの手先か何かか、ともかくそういうコミュニケーション上の不機能を疑ってしまうんですが。
あるいはもっともっと個人的な事情か。つまりオシム自身の精神的・心理的なもの。息子を見ても、批判に対して被害者意識が旺盛というか、過剰防衛的な傾向のある家系or民族性なのは何となく分かりますしね。どうにも感情過多で。ボケてるとまでは言いませんけど。たまに言いたくなります。
ともかくちょっと前まではある程度戦略的なもの、いわゆる「語録」の延長としての教訓的なメッセージを受け取る努力もしてみてたんですが、最近は全然信用出来なくなってしまいました。
『プロサッカーニュース』での一部で悪名高い(笑)、夕刊フジの久保武司記者(番組ではいたってまともな人に見えます)の口ぶりなどからも、恐らく日本人記者の間にも実際にそういう雰囲気はあって、それがオシムに伝わっているということはあるかもしれません。でも日本のジャーナリズムが今の段階でそんな能動的な動きをするとはとても思えないので、いずれにしても元はオシム側の問題なんじゃないのという。
結論としてはサッカー的に今の段階で特別な文句はないけれど、ガタガタ言って仕事に集中出来ないならいつでも他の研究者さんに代わってもらって構わないよと。何せ”実験”なんだから。
・・・・あれ、おかしいな。また本題に入れなかった。(笑)
特にアジア杯に燃えているわけでもないんですが、行きがかりで長く書いてます。
まあいいですね、次の試合(土曜日)までまだあるし。続きます。
つまり日本人は十分に上手くなっている、成長しているという話でしたが。
ではその日本人選手たちがどういうサッカーをすべきか、して欲しいかということですが、はっきり言ってそれはどうでもいいです(笑)。何でも。どんなサッカーでも。ジーコみたいな極端なアレでさえなければ。
元々そんなにスタイル自体にこだわりのある人ではないですからね。それなりにちゃんとやってくれれば、ベストを尽くしてくれれば。真剣に受け止められて、(だからこそ)楽しめるポイントが見つけられれば。WhatよりもHowというか。
そしてその前提として、”日本人の成長”という話もあるわけですね。つまりこうでなければ、ズバリハマらなければ、スーパーでなければ駄目ということはない、どんなのでも一応は出来るだけの底力はついていると思うという。
勿論まだまだ足りないところだらけではあるわけでしょうが、それだってつまりは実験段階で、どのやり方だろうとまずはやってみるしかないので、だからこそ意味のあるデータをとるために”ちゃんと”やってくれること、”How”が大事だというそういう話。
だから当然別にオシムでもいいわけです。オシムのやり方でも。疑問や弱点がいくつか見出せたとしても。増して日本の場合、属している「アジア」の日常と目指している「世界」の非日常との間に、少なからぬギャップが存在するわけで。結論はどうしても先になる。
だからとりあえずやってちょうだいと。ただし”ちゃんと”ね。
で、その場合に問題になるのはオシム自身がオタついて、”実験”の手際が悪くなってデータの価値が下がることで。そういう意味でオシムに関する一番の懸念は、技術的・戦術的なことではなくてオシムの自意識過剰、マスコミ/世論対応の過敏さの方ですね。
この前の会見でもこんなのが。サポティスタでも取り上げられてましたが。
例えば私が新聞記事を読んでいて、そこで出てくる意見というのは、日本はアジアカップの前回王者だから、優勝できて当たり前。グループリーグ敗退など、とんでもない。そういうプレッシャーを、われわれは克服しなければならない。これは大変なことだ。ミスをすることが許されないと、過度に緊張するものだ。
個人的に気になるのが、ミスや取りこぼしといったものが、日本のジャーナリストにとっては許されないということだ。私の知る限り、日本は日本であって、ブラジルではない。ところが、いかなる相手にも勝たねばならないという雰囲気がある。あなたたちも誤報することがあるだろう。私たちだけがミスをしてはならないのだろうか。
はて。
何せ『個人的に気になる』ことなわけですから要は感じ方ではあるんでしょうが、全く僕の実感とは合わないですね。今回も。ずれてるというか。恐らくそう感じる人は多いと思います。
少なくとも日本のジャーナリズムがここらへんについて特に厳しい、あるいはオシムに対して特になんてことは全然ないように思います。何甘ったれてるんだろうという。
どうもここらへんに関しては本当にオシムの”個人的”な事情、取り巻きの質が悪いか通訳がCIAの手先か何かか、ともかくそういうコミュニケーション上の不機能を疑ってしまうんですが。
あるいはもっともっと個人的な事情か。つまりオシム自身の精神的・心理的なもの。息子を見ても、批判に対して被害者意識が旺盛というか、過剰防衛的な傾向のある家系or民族性なのは何となく分かりますしね。どうにも感情過多で。ボケてるとまでは言いませんけど。たまに言いたくなります。
ともかくちょっと前まではある程度戦略的なもの、いわゆる「語録」の延長としての教訓的なメッセージを受け取る努力もしてみてたんですが、最近は全然信用出来なくなってしまいました。
『プロサッカーニュース』での一部で悪名高い(笑)、夕刊フジの久保武司記者(番組ではいたってまともな人に見えます)の口ぶりなどからも、恐らく日本人記者の間にも実際にそういう雰囲気はあって、それがオシムに伝わっているということはあるかもしれません。でも日本のジャーナリズムが今の段階でそんな能動的な動きをするとはとても思えないので、いずれにしても元はオシム側の問題なんじゃないのという。
結論としてはサッカー的に今の段階で特別な文句はないけれど、ガタガタ言って仕事に集中出来ないならいつでも他の研究者さんに代わってもらって構わないよと。何せ”実験”なんだから。
・・・・あれ、おかしいな。また本題に入れなかった。(笑)
特にアジア杯に燃えているわけでもないんですが、行きがかりで長く書いてます。
まあいいですね、次の試合(土曜日)までまだあるし。続きます。
2007年07月17日 (火) | 編集 |
アジア杯Gリーグ(2) 日本代表 ○3−1● UAE代表(ハノイ)
アジア杯Gリーグ(3) 日本代表 ○4−1● ベトナム代表(ハノイ)
まとめて。
勝ち試合の後なのに(?)やけにハイペースで人が来ているんですが、そんなに関心が高いんだろうかと少し意外。
第1戦カタール戦における、今野の右アウトのクロス&高原の半回転ボレーに始まり、このアジア杯で何よりも感心するのは、各得点場面における日本人選手たちの気の利き方、一瞬の機知のようなもので。
日本代表の試合を見始めて約15年になりますが、その範囲で比較しても、ここらへんに関してはほんと、いわゆる『隔日の感』があります。昔から上手い選手はそれなりにいましたが、その技術を試合の中で、しかも正にその技術を発揮すべきチャンスの一瞬に適切に微妙にカスタマイズする能力ということでは、最近の選手たちは本当に進歩したと思います。
非常に説明しづらい部分なんですけどね。「パターン」や「形」そのものではなく、それらを有効に活用する為の、実際に成功させる為の細かい選択や技術的工夫やヴァリエーション。
例えば長らく(今でも)違う次元の存在として見上げるように戦って来た、欧州・南米の「本場」の「強豪」国の選手たち。彼らが駆使する、そして我々から得点をもぎ取って行く(笑)技術やパターンの一つ一つは、多くは日本人選手もレパートリーとしては持っているものなわけですよ。別にみんながみんな見たことがないようななんとかルーレットを使うわけでも、ギャラクティカ・マグナムを撃って来るわけでもない。(競技違)
たた、違うんですよね。何かが。全然。名前は同じでも。
勿論単純に精度やパワーが違ったりすることもありますが、多くはそういう分かり易いものではなく、例えば連なりのスムーズさやゴールへ向けての選択の適切さ、あるいはちょっとした間合いやタイミング、当てる箇所の違いとか。とにかくそういう表現し難い細かい気配りや工夫の差の総体が、巨大なものとして実際の成功率の差に出て来る。
逆に日本人の技術が上がれば上がるほど、この違いはなんなんだろう、いつか追い付ける日が来るんだろうかと途方に暮れたりもしていたんですが、なんか最近、いい線行ってるような。
同じ「格下相手の圧勝」でも違うんですよ、例えばオフト・ジャパンやアトランタ・チームの頃とは。腕力(の差)に任せて「型」にはめ込んで押し潰しているのではない。
大人が子供に勝つのは当たり前なんですが、見せつけてるのは力ではなく、知恵の差。ああ、何か僕の知らない頭の使い方が出来るらしい、凄いなと。さすが大人だなと。同じプレーでもそういうやり方があるのかと。
トレセン教育を受けてのシドニー世代あたりから上手い選手の絶対数が増えて、技術自体は特別なものではなくなって。監督の無能で分かり難かったですが、アテネ世代ではその技術の伝統的ポジション概念/役割分担からの解放・オールラウンド化が更に進んで。
チームの形式性の縛りがきつ過ぎたトルシエと、縛らな過ぎてチームにならなかったジーコの期間に潜在していたものが、その間&その後の古い選手の成熟と新しい選手の成長ともうまくタイミングがあって、この(両者の中間の)オシムのチームでは、今までにないヴァリエーションと柔軟性で全方向に個々の技術が組み合わさり、実効性のあるものとして発揮されているように思えます。
・・・・まあ、経緯はともかく。”いつから”とか言えるものでもないですし。(笑)
あくまで”気がつくと”という感じですけど。上手さのレベルがまた一つ上がった、という感じを受けています。なんというか、昔憧れて見ていた「強いチーム」「サッカーをよく知っているチーム」の点の取り方だなあと。
「パスを回しているだけ」みたいな批判・不満の声が相変わらず聞こえますが、例え有効な攻撃が単発でも、その「有効さ」の中身はちょっと違うと、そこは”相変わらず”ではないと。
チーム自体の評価とはまた違うんですけどね。
雑談長え。
まあ2試合分なので(笑)、2回に分けて書くことにしてと。踏まえての続きは明日。
アジア杯Gリーグ(3) 日本代表 ○4−1● ベトナム代表(ハノイ)
まとめて。
勝ち試合の後なのに(?)やけにハイペースで人が来ているんですが、そんなに関心が高いんだろうかと少し意外。
第1戦カタール戦における、今野の右アウトのクロス&高原の半回転ボレーに始まり、このアジア杯で何よりも感心するのは、各得点場面における日本人選手たちの気の利き方、一瞬の機知のようなもので。
日本代表の試合を見始めて約15年になりますが、その範囲で比較しても、ここらへんに関してはほんと、いわゆる『隔日の感』があります。昔から上手い選手はそれなりにいましたが、その技術を試合の中で、しかも正にその技術を発揮すべきチャンスの一瞬に適切に微妙にカスタマイズする能力ということでは、最近の選手たちは本当に進歩したと思います。
非常に説明しづらい部分なんですけどね。「パターン」や「形」そのものではなく、それらを有効に活用する為の、実際に成功させる為の細かい選択や技術的工夫やヴァリエーション。
例えば長らく(今でも)違う次元の存在として見上げるように戦って来た、欧州・南米の「本場」の「強豪」国の選手たち。彼らが駆使する、そして我々から得点をもぎ取って行く(笑)技術やパターンの一つ一つは、多くは日本人選手もレパートリーとしては持っているものなわけですよ。別にみんながみんな見たことがないようななんとかルーレットを使うわけでも、ギャラクティカ・マグナムを撃って来るわけでもない。(競技違)
たた、違うんですよね。何かが。全然。名前は同じでも。
勿論単純に精度やパワーが違ったりすることもありますが、多くはそういう分かり易いものではなく、例えば連なりのスムーズさやゴールへ向けての選択の適切さ、あるいはちょっとした間合いやタイミング、当てる箇所の違いとか。とにかくそういう表現し難い細かい気配りや工夫の差の総体が、巨大なものとして実際の成功率の差に出て来る。
逆に日本人の技術が上がれば上がるほど、この違いはなんなんだろう、いつか追い付ける日が来るんだろうかと途方に暮れたりもしていたんですが、なんか最近、いい線行ってるような。
同じ「格下相手の圧勝」でも違うんですよ、例えばオフト・ジャパンやアトランタ・チームの頃とは。腕力(の差)に任せて「型」にはめ込んで押し潰しているのではない。
大人が子供に勝つのは当たり前なんですが、見せつけてるのは力ではなく、知恵の差。ああ、何か僕の知らない頭の使い方が出来るらしい、凄いなと。さすが大人だなと。同じプレーでもそういうやり方があるのかと。
トレセン教育を受けてのシドニー世代あたりから上手い選手の絶対数が増えて、技術自体は特別なものではなくなって。監督の無能で分かり難かったですが、アテネ世代ではその技術の伝統的ポジション概念/役割分担からの解放・オールラウンド化が更に進んで。
チームの形式性の縛りがきつ過ぎたトルシエと、縛らな過ぎてチームにならなかったジーコの期間に潜在していたものが、その間&その後の古い選手の成熟と新しい選手の成長ともうまくタイミングがあって、この(両者の中間の)オシムのチームでは、今までにないヴァリエーションと柔軟性で全方向に個々の技術が組み合わさり、実効性のあるものとして発揮されているように思えます。
・・・・まあ、経緯はともかく。”いつから”とか言えるものでもないですし。(笑)
あくまで”気がつくと”という感じですけど。上手さのレベルがまた一つ上がった、という感じを受けています。なんというか、昔憧れて見ていた「強いチーム」「サッカーをよく知っているチーム」の点の取り方だなあと。
「パスを回しているだけ」みたいな批判・不満の声が相変わらず聞こえますが、例え有効な攻撃が単発でも、その「有効さ」の中身はちょっと違うと、そこは”相変わらず”ではないと。
チーム自体の評価とはまた違うんですけどね。
雑談長え。
まあ2試合分なので(笑)、2回に分けて書くことにしてと。踏まえての続きは明日。








