うーむ、香也のデカ顔は、軽く自画像であったか。(爆)
![]() | ZOOKEEPER 4 (4) (イブニングKC) (2007/10/23) 青木 幸子 商品詳細を見る |
細身のキャラが多い人だけに、作者の重いヴィジュアルに一瞬ショックを受けたことをここに告白しておきます(笑)。じきどういう人か納得しましたけど。
大きく言えば、同じくマンガノゲンバで見た『チェーザレ』の惣領さんなどとも似た、非常に知的でその分少し生き辛そうな、ただし腐女子的な繊細さよりも求道者的な武骨さが勝った感じの、割りと女性作家によくいるタイプかなというこの表現で何が伝わるかは謎。(笑)
ただそんなに緊張感の強いタイプではなく、一言で言えば虚飾の無い、ストンと何か落ちるべき所に落ちているような、僕としては結構付き合い易い(いや、そういう意味じゃなくって(笑))タイプかなという感じ。どうも頑張っちゃう人は苦手で。
で、それにしても多少作者のヴィジュアルとキャラのヴィジュアルにはギャップを感じざるを得ないわけですが(笑)、例えば惣領さんの場合は、「理想的なイメージ」あるいは「自分の中のある部分を理想化したイメージ」を、作品(の絵)として表現しているわけですよね。たまに溺れてる、ということは、これまでも『チェーザレ』評の中で指摘して来ましたけど。(笑)
前作『ES』の場合は、僕はそのきれいきれいしたイメージ
![]() | ES (1) (モーニングKC (801)) (2002/02/22) 惣領 冬実 商品詳細を見る |
の根拠の薄さか気に入らなかったんですけど。
で、青木さんの場合はどうかというと、いわゆる現実の自分(カメラに映るような?)ではないという意味では勿論ある程度理想化して、きれいには描いているんでしょうが、でもそれ以上に「本当の」「本来の」自分を描いているという感覚が強い。きれいではあるけれど等身大なんですね。
つまり香也はちゃんと青木さんの中にいるわけです、最初から。あの柔らかい線のおおむね華奢で優美な、しかしシャープでもある人物たちとそれが住んで/表現している世界は、青木さんのある面のリアルなんです。ウサギショーのあのかわい子ちゃんだって、結構青木さんなんだと思います。(笑)
・・・・こう言ったらいいかな。勿論あれは青木さんの虚構世界で、現実では果たせないものを実現しているのではあるわけですけど。漫画ですから。(笑)
ただそこでやっている青木さんの作業というものは、いちから細部まで渾身の理想世界を作っているわけではなくて、既にあるんだけど現実的物理的障壁で「中」から「外」に出し難いものを、フィクションの力で転送する、ワープさせる、つまりは(「中」から「外」に)空間移動させているだけなんだと思うんですね。壁を越える手助けをしているだけ。モノ自体は既にある。作るまでもなく。
言い方を変えると世界の「器」or「枠」だけを捏造している。最低限の。中身や細部は既にあってリアルで等身大(それが「本来の」という意味)。そういうラフな作り。
勿論そのまま実現しないことにストレスは感じながら生きては来たんでしょうが、それほどコンプレックスを原動力とはしていないというか、「世界への復讐」ではないというか。だから”溺れ”たりはしない。
・・・・んですけど、逆に漫画としては押しが弱いというか、分かり難いところにもなっているかなという。”単純化”や”デフォルメ”を最低限しかしていないので。
本質的にはそれは欠点ではなくて優れたところ、強さだと思うんですが、現象的にはどうかなと。スタートラインはある意味普通の人(惣領さん?)より高い。ただその分欲が無いというか、アピールが弱いというか。多くの場合、”才能”というのは欲or欠落の大きさそのものだったりしますから。”創造”は無からこそ生まれるというのもありますし。
まあ学者、というか、ドキュメンタリー作家に近い資質ではあるかもしれませんね。「世界」そのものの観賞力が優れている。そこに「自分」をするっと溶け込ませてしまうので、どうしても一つ一つの表現が地味というか淡白になる。落ち着いて見れば凄く豊かなんですけど、情感も。
動物の絵、リアルで生き生きとしていて、気持ち悪いですよね。(笑)
* * * *
さて今号の『ZOOKEEPER』。
もう付き合うしかないという感じ(ほめられた・・・・のか?あたり)の香也と小田っちですが(笑)、それはともかく。
予感した通り、ちょっとバタバタしてるというか説明的だったかなという感じがします、今回の”育児放棄”編は。まとめるとすれば「環境の変化というストレスが育児に与える影響」で、決めのワードとしては「幸せも(環境の変化であり)ストレス」「(親子が)互いを環境の一部にする」ということになるでしょうが、そんな立て続けに言われてもなという感じ。
特に後者は、駆け足で言われて分かるようなものではないと思います。
僕なりに解説すると、「愛(情)というのは環境に適応するためのツールである」、みたいなことになりますか。つまり付き合わざるを得ない(適応せざるを得ない)環境世界を前にした時、人/生物はそれを「好きに」なることによってその”環境”を自分にとってより快適にするよう工夫するわけですね。一種の自己暗示です。
極端な例で言うと、例えば『ストックホルム症候群』。人質が犯人に共感を抱いて行くあれですね。あるいは虐待された子供が(子供に限りませんが)、むしろ自分を責めてなるべく親は悪くない、悪意は無いと思おうとする、愛情的関係を崩すまいとする行動。
あるいは押しの強い/粘り強い/怖い交渉相手に説得されている時、全く不本意な内容なのにその場のストレスを回避・緩和する為に、ついつい相手に合わせて付け入る隙を作ってしまうあれ。(笑)
なんか酷い例ばっかりですが(笑)、真面目に特に子供にとっての親というのは圧倒的で強制的な”環境”で、嘘でもプラスの感情価を付与しないと精神的に持たないそういう存在ですよね。だからいったんその関係が崩れ始めると、初期状態での「強制」への恨みが必要以上に攻撃的な反応として噴出したりするわけです。(という精神分析)
素で「親の恩」とか言ってる人はおめでた過ぎます。最初からフェアな関係じゃないんですよ。
より俗な話で言うと(笑)、クドきたい相手とは何はともあれ時空間を共有すべきだという、古今自明の黄金律の理論的根拠でもあります。いい人とか悪い人とかじゃないんですよ。まずは相手にとって「適応すべき環境」になることですね。ストレス与えてなんぼです。ワッハッハ。
勿論上の「交渉相手」の例とかそのまんまですね。(笑)
僕のヴェルディに対する”愛”も・・・・て、やめましょうか寂しくなるから。(笑)
もう適応したみたいですし。体制変わるごとに少しずつ調整は必要ですが。
とにかく親子なんてのはお互いに逃げられない環境として、「受け入れる」「慣れる」ことが本質なわけですね。いいところがあるとかないとか、そういう次元の話ではない。
遺伝的にセットされた「愛情」の話は話として、その適応行動そのものに必然的に伴うものとしても「愛情」というものはある。生じたそれを”愛の”物語で華々しく飾り立てること自体は別に悪いことではないですが、それありきで考えてしまうと順番がおかしくなってしまう。
『ZOOKEEPER』本編の内容と合わせてまとめると、無理すんなor大げさに考えるなということになりますか。・・・・と、猫しか育てたことの無い僕が言っています。(笑)
いやあ、でもね、あいつらのシンプルさは恐ろしく雄弁ですよ。ほとんど脳に直接ダウンロードするような感覚で、色々な「本質」を教えてくれます。

久しぶりに書か”なくて”はならないことが無いというか、タイムリーな話題が無い(笑)というか、とにかくそんな感じなのでこれを。
名波・三原・重光では正直ちょっと内容不足ですしね。もう1人2人動きがあったらという感じ。
では復活BSマンガ夜話11/29『のだめカンタービレ』の回より、面白かったところを。
”楽器”と”CG”
ちょっと前に”「2次元」(CG)と「3次元」(CG)の組み合わせの妙”という切り口で、「アニメのだめの演奏シーンで楽器部分だけが3次元で浮き上がる演出が好きだ」ということを書きました。
ところがこの回でパネラーのいしかわじゅんが指摘したところによると、原作漫画でも(カバーの?)楽器の部分については、そこだけCGで描かれるという工夫/差別化が行われているとのこと。
つまりこの原作の(その他の部分の)「絵」と「CG」というコントラストを受け継いで、「2次元」と「3次元」というコントラストに置き換えたのが、アニメ版の演出なのかなあと。
ちなみにどちらもよーーーく見ないと気付かないような結構微妙な差異です。(笑)
それだけに気付くとおおと思うという。
基本的にはいしかわじゅんという人は、「漫画の絵」というよりは「絵そのもの」へのこだわりと、物の見方の全般的な古臭さで、個人的にはほとんど賛同出来ずに喋り出すと「早く黙んねえかな」と思うことの多い人なんですが(笑)、これはグッジョブでした。
「絵」と「記号」、及び「少女漫画」絵
上の「漫画の絵」と「絵そのもの」の話とも関連しますが。
確か夏目房之介さん(こっちは”さん”だ・笑)だったと思いますが、いしかわじゅんの(二ノ宮知子は)「絵の”上手い”人ではない」という発言を承けて、(確かにそうだが)「輪郭線メインの『記号』的表現、『記号』としての絵の表現に長けている」と注釈をつけていました。
僕が「漫画の絵」の条件、あるいは最低限必要な”上手さ”として考える/感じるのも要するにここなわけで、それ以上のものは過剰か場合によっては読み易さの障害と感じることが多いわけですが。袋小路だぞ、自己満足だぞと。勿論例外も沢山あるでしょうが。
別に”塗っ”ても”描き込”んでもいいんですが、あくまで輪郭線による記号的表現がメインで、そこに”色”や”味”や”質感”を「加える」という感覚が無いと、「漫画の絵」としては落ち着きが悪いというか一線を越えてしまうというか、画家にでもなれよという。
それはともかく更に付け加えられた説明として、「これは割合少女(女性)漫画によく見られる傾向である」と、そんなことも。
これ自体は近年のモーニングの”女”率の増大(笑)の過程で、僕も気付いてましたけどね。そしてそれがしっくり来るなと。逆に男/少年絵や旧劇画絵は、こけ脅しでみっともなく感じるなと。
実際にはこれは絵の好みの問題というよりは、そこにこめられた世界の捉え方みたいな問題なんだと思いますが。絵は体(たい)を表わす。
ある種の女性漫画家の世界への目線が好きだなと、優れているなと。出来ればみんなこんな感じで生きるべきかなと。そういう”教育効果”も考えての「好み」。・・・・こう駆け足で語ってしまっても、分からない人には全然分からないでしょうが。(笑)
ちなみに「女性小説家」については、こういうことは特に感じません。むしろもっと脂抜けよ、ルサンチマンと自己憐憫ドロドロじゃないかと感じることの方が多いです。
まあ青年誌に(も)描いてるような女性漫画家は、サンプルとしては少し偏ってるのかも知れませんけどね。
とにかく、日頃個人的に感じていたことが、ある程度公共的な場で位置付けられて語られていたのが興味深かったという、そういう話でした。
・・・・まだあった気もするんですが、すぐに思い出せない&Foot!の再放送が始まってしまうので(笑)、今日はここまで。
最近僕もよく触れている「漫画編集者」という職業が取り上げられていたので、見てみました。
浦沢直樹のパートナーとして有名な人で、僕はちょっとゾーン外れてるし顔も苦手なので(笑)どうかなと思いましたが、なかなか面白かったです。
ちなみにモーニング『ディアスポリス』の”脚本:リチャード・ウー”の中の人だということが、本編中でも大々的に。僕的には、なるほどどうりでディアスもゾーン外れてるわけだと、変な納得の仕方をしてしまいました(笑)。以下目に留まったポイントを。
アウトサイド・イン的手法
そんなゾーンを外れている(しつこい)長崎&浦沢コンビですが、だからこその興味深い、「創作の秘密」の描写場面が。
それは共同製作中の『PLUTO』のある登場人物の感情表現をめぐる2人のやり取りなんですが、面白い/なるほどなと思ったのは、完全に”外”から”内”へという順番で話(思考)が進められているんですね。
つまりまず第1に客観的な「シチュエーション」があって、次にそれによって必然的/一般的に導き出されるものとしての主観的な「感情」があるという。別な言い方をすると、いかにシチュエーションを論理的にきっちり固めて、それによって読者の感情・反応を引き出すか、もっと言えば操作するかという、完全にそういう発想で作っている。”共感”や直接的な”訴求”とかではなく。
その”作戦”を会議しているというか。
ある程度は当たり前と言えば当たり前な作業なんですが、ちょっと極端な印象を受けました。共感的なものや核をそのままぶつけたり、あるいは逆の方向の発想、「感情」や「人物」から展開や状況・ストーリーを生み出して行く(インサイド・アウト:注・僕命名)というようなニュアンスがかけらもなかった。
そしてこれは僕が過去に読んだor見た浦沢作品から実際に共通して受けていた印象とも合致していて、なるほどなと思ったということです。
・・・・思うんですがこうした手法というのは、あんなメガヒット作家(コンビ)に向かって言うのもなんですが、実はここ日本ではそれほど一般的ではないように思うんですね。それが特異性として地位を築く助けにもなっているのかもしれませんが。
つまりそれこそ昨今のキャラ萌え全盛的状況を見ても分かるように、むしろ人物やその感情・内面の方から、インサイド・アウトに状況やストーリーが動いて行くというのが、数的には「日本的」と言えるんじゃないかなと。感情移入の為の感情移入というか。その分グダグダの危険度も高いわけですが、ともかく現実として。
挿話的に言うと、例えばかの黒澤明は「日本を代表する」映画監督ではありますが、実は決して「日本的」な人ではない。ご本人も「お茶漬けサラサラばっかりだからビフテキどん!みたいなのを作ろうとした」みたいなことをおっしゃっていた記憶がありますが、ともかく日本人には珍しいくっきりはっきりした劇的構成で話を作る人(浦沢的)で、その部分でまず「国際的」であり、その中に自ずと出る「日本的」な部分をまた評価された。
よりマイナーではあっても、普通の意味で「日本的」なのはやはり小津安二郎の方、あの”人がいるだけで話がない”(笑)ようなあの感じ。ちょっと極端な対比ですが。
僕の好みとしては基本インサイド・アウトの方、もしくはインとアウトが渾然一体となって区別がつかないようなタイプ。あからさまにアウトが見えてしまうとたいてい引くというか、人物が空虚に見えて来るというか。
ただし本当に才能のある人はアウトサイド・インでも、あるいはその中でインの部分が光り輝くので、最終的には個別の問題。
漫画は絵
普段全然言いませんけどね、こんなこと(笑)。絵なんて記号だよ、判別がつきゃあいいんだよというそれくらいの勢い。エラい人にはそれが分からんのです。
ただ「絵以外は全てやる」”プロデューサー/原(共)作者”としての編集者・長崎尚志氏の仕事を実際に見てると、最終的に「漫画家」に残る、ならではの部分は絵だよな現状ではと、消去法的にも思わざるを得ないところはありましたね。
そして勿論、他の作業全てが済んでも、そこから実際に完成品としていく為の絵を描く作業の気が遠くなる大変さと。百里の道は九十九里をもって半ばとせよ的な。(微妙に意味が違う)
それは小説家などには存在しない部分でありますし、もう1つ他ジャンルの例で言うならば、映画監督の”演出”(とその支配下にある役者の”演技”)の部分とも言えるかもしれない。
・・・・つまり「漫画家と編集者」問題の1つの捉え方ということですが。出来ればなるべく映画的な「総合芸術」ではなく、「個人芸術」の部分を死守/大きくして欲しいと個人的には思っていますが、それだとなかなか現状安定した産業としては立ち行かないんでしょうね。休載休載でも困っちゃいますし。(笑)
とにかく、上手だろうが下手だろうが、僕が注意を留めようが留めまいが(笑)、結局のところ同じように苦労して漫画家は絵を描かなくてはいけないし、描いているわけですよね。当たり前ですが。それを実感したということで。
そういう意味では「話を作りたい人」よりも「絵を描きたい人」の方が、あえて言えば漫画家になるべきなのかもしれないなとも。クレジットつき完全分業とかはまた別の話として。
少し、絵を重視する派の人の気持ちが分かったような気もした45分間でした。(?)
![]() | 多情剣客無情剣〈上〉 古 龍 (2002/02) 角川書店 この商品の詳細を見る |
承前1,2。
警告:”小李飛刀に仕損じなし”
これはいち古龍ワールドのみならず、およそ”武侠”の世界に何らか名を連ねる者ならば、決してゆるがせにすることの出来ない確定事項である。
かの大陸側の大師匠金庸先生と言えども、これに関してだけはただただ拝して後輩に道を譲るのみであろう。
小李飛刀さえ健在ならば、いかに強盛を誇る人民共和国軍と言えど致命的な反撃の危険性抜きには容易に台湾海峡を侵すことはあたわず、かの国諜報部としても日々情報収集に奔走はしているようだが、いかんせん作者古龍が既に物故している(1937〜85)ので使い手たる”小李”こと李尋歓の消息及び生死も、今日まで杳として知れぬままである。
・・・・とか何とか。つまりそれだけ「小李飛刀」が「仕損じなし」であることの説得力は圧倒的だということで、近いものとして思いつくのは往年のサッカーのディエゴ・アルマンド・マラドーナのパスくらいのものか。あれも仕損じがなかったことは、既に確定事項として認知されている。
「小李飛刀」が「仕損じなし」である理由
それは一言で言えば、”小李”(探花)こと李尋歓が、李尋歓であるからです。それ以外の理由はありません。なぜ彼の飛刀が常に誤たず標的を射抜くか、なぜ彼のそれが常に相手を上回って速い/早いか。それはひとえに彼が彼のような人間であるからで、そこにそれ以上のどんな技術的説明の存在の余地も必要もありません。
逆に彼の相手が彼以上の人間であるか、あるいはこちらは実際に起きる可能性のあったことですが、何らかの理由で彼が彼である拠り所を失えば、その時初めて小李飛刀は仕損じる可能性が出て来るわけです。
極端なようですが要するにこれが『多情剣客無情剣』(直接李尋歓が登場するのはこの作品のみ)において古龍が”小李飛刀”に与えている説明であり、ひいては古龍世界のあらゆる「格闘描写」の”勝敗””強弱”の理由付けです。あえて指摘するのも気が引けるほどの、恐るべき精神主義。
ちなみに飛び道具である「飛刀」は、手持ちの剣に比べれば、相対的には例の”銃のように剣を使う無理性”からは逃れられているようですが、具体的にどのように、どんな軌道を描いてどんなタイミングでその飛刀が敵を刺し貫く結果に至ったのかほとんど分からないという点では、本質的な違いはありません。
戦闘の推移がそのようになった理由は結局のところ、彼が彼であるから。彼が勝つべき人間であったから。
そして読者はそれに納得するのですね、かく言う僕も含めて。あまつさえ彼を勝たせてくれた、そのことを納得させてくれた古龍に感謝するわけです。
彼を勝たせてくれてありがとう、もし彼が、彼のような人が負けるのなら、負けてしまったら、明日から僕らは何を希望に生きていったらいいんだろう。
実際”多情”と銘打たれている通り、基本ハードボイルドタッチながら見ようによってはかなり感情過多で独断的な語り口を持つ『多情剣客無情剣』(とその時間的な続きものである『辺城浪子』)、及びそこに登場する李尋歓を筆頭とするいかにも悲運の似合いそうな登場人物たちにそれぞれそれなりのハッピーエンドが与えられていること、救いが与えられていること。
言ってみれば「正義は勝つ」、または正義が勝つという流行らないおとぎ話をこの上ない緊張感で書き切っていること。そこにこ(れら)の作品の一つの偉大性があると思います。
そしてそれを可能にしているのは作中の格闘描写を貫いている、「人」が、人の「精神」が戦いを決するという構造の強固さ、それが無作為の伏線として読者の中に浸透することで。
以下また具体的に描写を引いて説明して行きたいと思います。
![]() | 辺城浪子〈1〉 古 龍 (1999/06) 小学館 この商品の詳細を見る |
承前。
西部劇の”(拳)銃”と古龍の”剣”
上の『辺城浪子』(1)の紹介文には、「チャイニーズ・ウエスタン!」などという文字が躍っていますが、確かに古龍の世界にはそういう表現が似合う要素があります。
吹き抜ける風の音が聞こえそうな荒涼とした風景。肩寄せあって生きている自存自衛の閉鎖的な人々。それぞれに過去を背負った口数少ない男たちが、半ば出会い頭に繰り広げる血なまぐさい決闘。(勿論勝負は一瞬)
ちなみに金庸の場合は、「中華ヤクザの出入り」とか言われちゃいます。(笑)
また古龍の”剣”(刀)一筋には別の特徴がありまして、それは「斬る」よりも「刺す」ことに重きが置かれていること。これは同じく”速い剣(刀)”であっても、日本流の『居合い』(斬り)などとは違う点でもあります。
勿論古龍でも普通に斬ることはよくありますが、それはどちらかというと日常的な次元の戦いの場合が多く、剣客どうしが改まって雌雄を決する場合はたいていはいかに速く相手を刺し貫くか、そこに両者の・・・・というか作品世界自体の焦点が暗黙の内に集中して行くというそういう強い傾向があるように思います。
古龍世界最大絶後のヒーロー”小李探花”(『多情剣客無情剣』)の得物が「飛刀」、つまり投擲用の短刀で、刀とはいうものの刺す以外の使い道が無いのが一つの象徴ですが。男の戦いは黙って刺す。
こうした武器観念は中国における刀剣自体の実際の技術体系に由来するというよりは(多少はそれもあると思いますが)、古龍個人の”戦い”に関する生理や美意識に根差しているように感じられます。
冒頭に挙げた「ウエスタン」風味と合わせると、要するに西部劇のガンマンたちが銃を使うように古龍の剣客たちは剣を使っている、銃弾を”撃ち込む”かわりに剣先を”刺し込む”、そういうことなのではないかと思うんですが。
銃と剣の違い 〜古龍の格闘描写の不可能性
しかし銃と剣には当たり前ですが、無視出来ない違いがあります。
銃ならば弾は常に真っ直ぐ(厳密には違いますが五感のレベルで言えば)に飛び、何メートル何10メートルの互いの距離をものともせずに一瞬の内に(これも厳密には違いますが)相手に到達し、狙いさえ正確ならば誰が撃っても確実に急所を射ち抜いて致命傷を与えます。通常の装備では基本的に防御も出来ません。シンプルなものです。
刀剣の場合はそうはいきません。距離が離れているならば自分の足で体を運んで腕を伸ばして武器を相手に届かせなければいけませんし、届いたとしても反らしたり抑えたり最悪急所以外を差し出してかばったり、いくらでも邪魔することは出来ます。
言い替えると「狙う」という意思と「急所を刺し貫く」という最終結果の間に、膨大な過程が挟まっているわけです。普通に刀剣本来の限界性を受け入れて使うならともかく、一撃必殺の便利な道具として銃の代わりに使うには、実際には相当な無理があります。闇討ちならまだしも特に決闘では。
そこを敢えて押して”銃的”に剣を使うことによって、古龍の格闘描写は単に「簡潔」というレベルを越えた極端な省略、無描写無説明という特徴を持つことになります。
例えばこんな感じ。以下全て『辺城浪子』から。
弧を描いた刀光が、傅(フ)紅雪の左頚部の大動脈へ斬りこむ。
傅紅雪は避けも受けもしなかった。
いきなり踏み込んだ。
左手の鞘が、がっきと湾刀を遮り、刀身も抜けた。
どすっ。なんぴとにも形容しがたい音。
公孫断自身にすら、何の音か分からなかった。
痛みはなかった。ただ、胃の腑が急に収縮したのを感じ、吐き気を覚えた。
公孫断はうつむいて、おのれの腹に刀の柄を見た。
漆黒の柄。
柄だけを残して、刀身は腹に丸ごと没していた。
”刀身”が”抜けた”後、具体的に要するに何が起きたのかは、公孫断は勿論、傅紅雪や古龍に聞いても分からないだろうと思います。
咆哮とともに突っ込んだセツ大漢の五十三斤の大斧が、一陣の狂風と化した。
花が薙ぎ払われ、刃風に乱れ飛ぶ。そして、ふいに風の唸りが止み、ひらひらと花びらが舞い落ちてきた・・・・・・。
斧を高々と振りかぶったまま、仁王立ちのセツ大漢は微動だにしない。
傅紅雪は斧の真下にいた。刀が漆黒の柄を残して、深々とセツ大漢の心臓を貫いている。
途中の互いの位置関係すらさっぱり分かりません。
次は集団戦闘。
稲妻のような刀光が、練り絹の尾を引いて乱れ舞う。
刃の噛み合う音はなかった。傅紅雪の刀を遮れるものはいない。
聞こえるのはただ、悲鳴、絶叫、刀が肉を割りつけ、骨の砕ける音・・・・・・
いずれも肝を潰し、吐き気をもよおす音ばかりだ。
ちょっと009が加速装置を使った時とかをイメージしてしまいましたが。(笑)
ちなみに刃を折る目的でもない限り、基本的に古龍の剣戟で刃と刃が「噛み合う」ことはまずありません。剣を振るう行為が具体性を帯びるのを、黴菌のように忌避している感じです。
無言で抜き放った剣が、虹の尾を虚空にたばしらせて、傅紅雪の喉を突く。(中略)
傅紅雪は避けも受けもしない。いや、身ごなしさえ目にとまらなかった。
馬芳鈴が見たのは、稲妻のような光だ。
刀光一閃!緋牡丹の花弁が開くように、鮮血が丁霊甲の肩からしぶいた。
相手(丁霊甲)も相当な達人なんですが、作者に抵抗を禁じられているのでいかんともし難いのです。(笑)
「速いから」と言えばそれまでですし、一つ一つは見事な象徴表現ではあるんですが、こうして並べると”作風”として正当化された、ある種の「手抜き」が常態化しているのが分かると思います。
これは余談ですが、よく古龍の(金庸に比べた)”モダン”さを表現する言葉として「映像的/映画的」というような言い方がされるんですが、実際には古龍の描写をそのまま映像化するのは不可能だと思います。
どんな凄い/大げさな技でも(金庸が描くような)、時系列に沿ってそれなりに描写されていれば、後は多少補完しながらワイヤーでもSFXでも何でも使って撮れなくはないわけですが、古龍のはなんかそれ以前。肝心な部分は異次元で行われている(笑)。少なくともワンカットでは絶対シーンが成り立たないと思います。
前回書いたようにこうした描写スタイルの背景には、古龍の言ってみれば武術オンチが存在しているのではないかと僕は疑っているわけですが(笑)、しかし一方ではそれは古龍一流の狙いであり、またそこから他に類を見ない「技」と「心」の独創的で感動的な融合が達成されていると、次にそのことを書きます。
![]() | 辺城浪子〈2〉 古龍 (1999/06) 小学館 この商品の詳細を見る |
![]() | 辺城浪子〈3〉 古龍 (1999/08) 小学館 この商品の詳細を見る |
![]() | 辺城浪子〈4〉 古龍 (1999/08) 小学館 この商品の詳細を見る |
![]() | 陸小鳳伝奇 古龍 (1999/02) 小学館 この商品の詳細を見る |
格闘描写の「技」と「心」の7。ラスト。
香港の金庸と並び称される、台湾武侠のエース古龍の格闘描写の特徴。
速さと技術
宮本武蔵との対照においての佐々木小次郎については、”技巧主義と速剣主義”という形で技術主義・物理主義の一側面として挙げられていた「速さ」ですが、一般にフィクション上では時にそれの度を越した強調が、ディテールの消滅、技術性の否定に繋がっている場合も少なくありません。
分かり易い例で言えばやはり『ドラゴンボール』、レベルの上昇はまず何をおいてもスピードの爆発的向上として表現され、そこに差があるととにかく当たらない、よけられない、そもそも見えない、話にならない。
別な言い方をすれば攻撃が当たるかどうかは徹頭徹尾スピード/速さにかかっていて、そこに打撃の「技術」だとか「間合い」だとか、そういう複雑微妙な要素は存在しない。それがドラゴンボールの格闘世界。
あるいは後でまた述べる西部劇の”早撃ち”なども、しばしばあるレベルを越えてほとんど神秘的な超人の世界に足を踏み入れ、通常の射撃技術のリアリティや駆け引きなどはどこかへ放り出され、「念ずれば勝つ」みたいなニュアンスのものになったりします。
古龍の”剣術”
多種多様な武器・武術や拳法などが活躍する金庸とは違って、古龍の武侠世界は圧倒的にほぼ剣(及び刀)のみで構成されています。(読めた物は限られてますが、多分)
そしてその剣の巧拙・優劣を測る/表現する基準として古龍が用いるのは、ただ一点「速さ」、「どちらの剣がより速いか」です。勝負も一瞬でつきます。お約束のように丁丁発止と渡りあったり、柔が剛を、遅が速を制したりする多彩で饒舌、遊び心豊かな金庸のそれとは全く違います。
真に潔い(笑)ですし、実際シンプルな分鮮烈ではあるんですが、それが古龍なりの格闘理論だ格闘描写に対する哲学だと言ってしまうと、少し違う気がします。
そうではなくてむしろ古龍は実質的には格闘描写をしていない、(上で述べたような)「速さ」の全面的強調によってディテールを無化して、通常の意味での”格闘描写”を回避してしまっている、それが本当のところだと僕は思います。
理由としては一つは本来は(日本で言うところの)純文学を志していた人で、行きがかりで武侠小説なんてヤクザな世界で成功してしまったものの(笑)、必ずしもこのジャンルに愛情を持っていない、ディテールに浸るモチベーションがない。簡単に言うと武術なんて興味がない。
ここらへん子供の頃から前身ジャンルを愛読していた金庸とは対照的なんじゃないかと想像しますが、そこから更に単純に知らない、細かいことを書くとボロが出る(笑)、間違っても金庸のようなもっともらしい素敵な大嘘は書けない、そういう事情があるのではないかと。
勿論もっと内的美意識的な理由とかもないことはないんでしょうが、ぶっちゃければこういうことなんじゃないかと、僕は読んでいて感じました。「剣」「速さ」、それに単純化することでガードを固め、他の部分で思う存分自分の表現を行なう。
・・・・”早撃ち”と”早刺し”編につづく。
![]() | 宮本武蔵〈8〉 吉川 英治 (1990/01) 講談社 この商品の詳細を見る |
(1)より。
七巻の解説で紹介された「技」派の面々の次は、八巻の解説より「総合」派の司馬遼太郎。
司馬遼太郎 『(真説)宮本武蔵』 (’67〜)
一度短編として書いた『真説』を、新たに中編『宮本武蔵』として書き直した作品。
「技術の小次郎」と「精神の武蔵」という吉川英治の構図を踏まえつつ、それを再解釈して別の枠組に組み替えて行く作業。
両極に立つ兵法の対決である。
武蔵から見れば、小次郎の兵法の「特質は技巧主義と速剣主義」で「普遍性にとぼしい」。
小次郎の「流儀の中核」たる燕返しは、速さだけの「けれん」「曲芸」で、「兵法を反射に尽きる」とする「技術至上主義」である。「ときに太刀はゆるやかでもよい、むしろゆるやかなほうがいい場合も多いであろう」と武蔵は考える。
ここ凄え突っ込みどころ満載なんですが、本題から外れるのでまたの機会に。
武蔵にとって「兵法修行の眼目」は「間合いの見切り」である。間合いとは「敵の太刀さきと自分との距離」で、これを「見切ってしまえば敵に負けることはない」。「間合いは一寸が理想」で、このぎりぎりの間合いを見切る「理法」を、武蔵は巌流島で「実証」する。
具体的には
三尺一寸二分の「物干竿」より一尺長い四尺一寸八分の木刀を「天秤棒でも肩にかつぐようなかっこう」で構え、小次郎には「木太刀の長さの見当がつかぬ」。しかも、かの「勝つつもりなら鞘を捨てまいに」の一言の「調略」に乗って「怒気」にかられた小次郎は、「(通常兵器による常識的な)間合いのみに気をとられ、武蔵の持っている兵器(うちもの)に注意を払わなかった」。要するに相手の「間合いの感覚を崩す」のに成功した武蔵が勝利する。
以上の絵解きは、たしかに吉川のように「技や力の剣」にたいする「精神の剣」の勝利とするよりは理解しやすい。
・・・・まずは大司馬が、こんなに剣術の細々としたことに興味があったというのが軽く驚きですが。先生も男の子なのねというか。(笑)
更に言うなら見たところこれは結構粋な”趣向”で、確かに吉川の古典を現代化してはいるんですが、さりとて実証研究そのものではなく、吉川も典拠した『五輪書』などの史料には目を通しつつしかし事実というより吉川が描いた小説上の「宮本武蔵」「巌流島」を、想像や虚構が含まれているのは承知であたかも事実であるという”態”で、しかし論理/説明としては吉川のとは違ったより厳しい合理性で書き換えて見せたという、そういう仕事なんだろうと思います。
ある意味ではそれこそこういう『ドラゴンボール考察サイト』とか、ネット上に数多あるそのテの書き物と共通するところの多い仕事かと。オタクーっ。(笑)
それはそれとして上の司馬遼太郎の「絵解き」ですが、(「技」と「心」という視点から)要するにどういうことかと僕なりに解説してみるとこうです。
(1)まず小次郎の技術至上主義の中身を、「速さ」と「反射」という形で確定/限定する。
(2)次に武蔵の剣法の真髄として「間合い(の見切り)」を挙げるが、これは小次郎のそれとは違うものの、”距離”という物理概念に根差した武蔵なりの”技術”論(「理法」)である。
(3)一方で「間合い」は距離そのものではなく、それをどう捉えるかという使い手の内面やコンディションに左右される認識作用、”心理”でもある。
(4)巌流島における両者の対決では、小次郎の”心理”を撹乱することによって「間合い」という”技術”で優位に立った武蔵が、かつ武器の長さという絶対単純な物理の裏打ちをも得て勝利を収めた。
・・・・という筋書きかと。
「技」に「心」が勝った、わけではないが、「心」という要素をも加味・包含した、より包括的な武蔵の「技」が小次郎の狭い浅薄な「技」に勝ったと、そういうこと。
要は2種類の異なる技術体系の対決だとも、見方によっては心と技の対決だともそうも言える折衷的・総合的なまとめ方。
(まとめ)
気がつくと吉川武蔵そのものについて直接的には全然語っていないわけですが、なんていうか語ることがあまりないんですよね。
ここまで紹介したような吉川武蔵への様々なカウンターも、吉川英治の「見方」に反対だというよりも、むしろ吉川英治の「見方」の不在、はっきり言えば描写や説明の態をなしていないことに対する苛立ちというそういうニュアンスを強く感じます。
読んでいると部分的には、本題に関係ないところではポツポツと具体的だったり面白かったりする描写もなくはないんですが、結局は何も言っていないというか、書くと見せかけて書いていないというか、いつの間にか精神論や社会論の方になし崩しに滑って行って終わっているというそういう感じ。
それはそれで内容的にはありだと思うんですが、いくら何でも別の話じゃないの?という。
まあ根本的なことを言えば「剣豪小説」ではないのでね、「剣豪について書いた小説」ではあっても。力点が最初から違うと言えば違う。五味や柴錬と比べてはという面も。
ただ描いてるからには逃げられない、ところもあるわけで。(ここらへんはこれを”原作”とした井上雄彦『バガボンド』にも微妙なところがあると思いますが、これもまた別の機会に。)
・・・・とりあえず老人いじめ、欠席裁判はこれくらいにして(笑)、ついにラストの古龍編。
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かなり反則気味ですが、「心」派の宗匠吉川武蔵編については、文庫版(七)(八)の解説における、樋口謹一氏による国民的金字塔吉川武蔵(’35〜)とその後のカウンター作品とのコントラストについての評論を、そのまま抜粋して代用することにします。
それは一つには再読してみた吉川武蔵(初読は中学生かなあ)が、今更論ずる意欲の湧かない、いかんせん古臭い、時代と寝た作品に感じられたこと。
そしてもう一つは、こっちの方が重要ですが、その独特の精神主義的スタイルをめぐってその後の作家がそれぞれに意欲的に自分なりの武蔵像を描こうと努力していて、それについての樋口評論がかなり読み応えがあり、はっきり言うと今回の企画で僕がやろうとしてやり損ねた(笑)ようなことをお手本的に成功させている、そういう評論のように見えるからです。
ぶっちゃけ吉川武蔵以外の引用作品は僕は一つも読んでいないので、樋口評論の解釈が正しいのかどうかとか全く責任持てません。ただテーマを扱う手腕と、僕が取り上げたようなテーマが実際に創作に当たる作家たちの中でどのように表現されているか、そこらへんの活写を見る/想像するのが面白いなというそういうことなので、話半分でどうぞ。
まずは「技」派、または「技と心の分離」派の面々。
(つまりそれに対する吉川英治は「心」派、または「技と心の同一視」派なわけですね。代表的には”剣禅一如”という、作中武蔵に語らせている言葉。)
村上元三 『佐々木小次郎』 (’49〜)
「剣を通して自分を完成させるなどということは、小次郎には、あまり意欲の起きないことであった」
これだけ見ると精神主義の否定のようですがむしろ逆。
「自分が徹し切れるのは、この剣だけだろうか。それより前に人間としてよく生きる、というほうが大事ではないか」
問題とされているのは剣と精神、技と心の乖離の方。
吉川・武蔵にとって剣と人生は相即するのに対して、村上・小次郎にとって剣と人生は背反する。
五味康祐 『二人の武蔵』 (’56〜)
作州の平田(新免)武蔵と播州の岡本武蔵(たけぞう)。二人それぞれの師匠はいずれも「邪剣」「殺人剣」「覇道」の剣の持ち主(以下略)
作品自体はこの二人の”武蔵”が後代伝わる”宮本武蔵”として事跡を合成されて行く過程を追います。
この二人に佐々木小次郎がからむ。(中略)
彼(小次郎)は、「武芸は兎角殺伐なもの」、さればこそ心して、「花やぎ」を求め、「色の剣」を旨とし、(以下略)
これに接して岡本(たけぞう)は、「武芸の巧者よりは人間の味の深さに心惹かれてならぬ」
「心」派の小次郎と「技」派の武蔵。吉川版とは逆。
その後様々な行きがかりから、小次郎と岡本の方の”武蔵”は巌流島の決闘に導かれます。
岡本の立場に同情を禁じえない小次郎に対して、自己の原点である殺人剣を無意識裏にふるった岡本は勝った(以下略)
巌流島の勝負に「道」はかかわりをもたない、決め手は「技」のみ。
柴田錬三郎 『決闘者 宮本武蔵』 (’70〜)
”決闘者”は勝つための「業の工夫」に生死をかけるが、これを支えるのは天性の「業力」(ごうりき)である。
(武蔵だけでなく)小次郎も業力盛んな(中略)美青年、女は犯すものと花を散らしつづけ(略)
その小次郎も、巌流島直前ある女性を愛して業力を「減らし」ている。
樋口氏はさらっと流していますが、これだけの記述からもどうも僕には柴錬の言う「業力」は、僕がこのシリーズで取り上げてきた「気」や「念」に通じる「心」の代替概念、物質的比喩の一種という性格を包含しているもののように見えます。ただの「業」とは違う。(「業」自体も「技」とは区別されてるのかも。)
これくらいの年代になると、要するに僕ら現代の読者/作者同様、「心」を原因・決定因として描くのにはそれ相応の仕掛け・苦心が必要なのかなと。
試合では、「海面すれすれにかくれている岩」の上に突然あがって「姿の巨大さ」で小次郎を「威圧」した武蔵が、長剣「物干竿」より三十センチも長い木太刀で相手を倒す。要は業力の差に支えられた業の勝利である。
従ってこの描写も単なる「技」による「心」に対する勝利ではないのではないでしょうか。
それより一つ上の次元の話。
それが証拠に・・・・
その直後、武蔵は「唯一の弟子」養子の伊織と試合する。伊織の剣は「正しい剣」、沢庵や柳生の奉ずる剣である。それは、武蔵に言わすと、政治にかかずらわって「業が衰え」て剣を捨てざるをえなくなり、「無刀」などという「屁理屈」をこねるものだ。
(その伊織に半ば偶然敗れて)頭への打撃で「業念を喪失」して(中略)「尋常の人間」に堕した武蔵は以後大試合をせず「無為の生涯」で終わる。「五輪の書」以下武蔵の著はすべて伊織の作で、「道」の剣の立場からのものと柴田はする。
「業力」「業念」という形に昇華されない「心」「道」は、やはり剣術においては抽象的で非現実的なものである。
そういう意味で吉川武蔵に対して柴錬は批判的ではあるが、だからといって単なる技術主義ということではない。
・・・・最後はかなり読み替えてしまいましたね。(笑)
だってあんまりおじいちゃんなんだもの。(執筆当時既に京大名誉教授)
次はもう一度樋口氏の文脈に戻って、「総合」派の司馬遼太郎編。

前回。
本題、ですがさほど気乗りしない(笑)。「技」か「心」か。
通常戦闘について
前回述べたように時期によってニュアンスは違いますが、しょせんアラレちゃんの豪腕一振りとさして変わらない次元で展開される(笑)ドラゴンボールの「格闘」に、”技”というほどのものは本来存在しません。
要するに「速いか」「強いか」(「つおい」と表記した方が正確かも・笑)の見せっこであって、そしてそれを決定付けるのは問答無用のスペックの差。
そのスペックが際限もなく後出し的に拡張していって単調になったという話を前回したわけですが、おかげでなんかある時期からどんどんパンチやらキックやらの一発一発の意味が抽象化していって、何やら神話の神々の戦いの話のような、ゼウスのいかずちかトールのハンマーか、はたまた下野(しもつけ)二荒山神が上野(こうずけ)赤城山神に放った矢かてなもんで、通常の意味での”技”としての特性などはどっかに飛んで行ってしまいます。
見かけはえげつなくてある意味即物的な描写ではあるんですが、実質的には超常スペックを背景とした超常戦闘、通常戦闘に見せかけた”必殺技”合戦に近い、そういう性格のものだと思います。
”必殺技”について
一方でドラゴンボールにはカメハメ波を筆頭とする、そのものズバリの”必殺技”も多数登場しますが、実はさほど印象に残っていないというか、決定的な要因ではないというところがあります。技自体が本当に”必殺”なのは、それを出すか出さないかが展開を決定的に左右するのはかの「元気玉」くらいなもので、後は生命の危険と引き換えにともかく足止めは出来る天津飯「気功砲」や、実力差があってもとりあえず”斬る”ことは出来る(これについてはむしろ世界観が壊れて気持ちが悪いように僕は思うんですが)クリリン「気円斬」とかが目立ったところ。
「太陽拳」とか「魔封波」とか、特殊技はまあ別格で。
他にも色々ありますが、なんかどうでもいいというか扱いが雑というか、なんだよ魔閃光って突然とか、ビッグバンアタックって名前がダサいから使わない方がいいと思うよベジータとか、そんな感じ。
ただだから駄目とかそういう話ではなくて、むしろこれは『ドラゴンボール』の特徴、仕様と、そう言った方がいいんでしょうね。”ジャンプ系バトル漫画”の代名詞的存在ではありますが、ドラゴンボールそのものは必ずしも”必殺技”に全てを収斂させる単純な構造にはなっていない。『リングにかけろ』のようには、『キャプテン翼』(バトル漫画でしょ?これ)のようには。
・・・・ていうかむしろ後年になると”必殺技”使用時の方が運用や戦略の妙が際立つというか逆にリアリティがあるというか、そんな気もするんですが。最初から抽象的、一種の「記号」であるのがはっきりしているのがいいのかなと。
「気」とか、「心」とか
ここらでまとめに入ります。
「カメハメ波」「元気玉」以下、ほぼ全てのドラゴンボールの”必殺技”の元となっているお馴染み「気」については、類例に漏れず気は気だというだけで特段の説明はありません。
効果としても、元気玉やハマった時のカメハメ波のように相手を消滅させる(溶かす?)といういかにも”必殺技”然とした表現の時もあれば、一方で力関係によっては普通に跳ね返されたり効かなかったり、通常の物理攻撃と同様の描写をされる場合もあります。
はっきり言ってここらへんは特に整理も理論化もされてないと思うので、個別のシーンを下手に「研究」するとかえって分からなくなるだろうと思いますが(笑)、要するに「強いものは強い」「『気』合いで勝れば勝つ」というそういう大雑把な感覚(前段落の後者みたいなもの)で作られてるのだろうと思います。
評価としては難しいんですよね。
格闘描写の抽象性や強さの表現の運命論的とも言える問答無用性は、「精神論」や「根性論」のようなそういう土壌にあるものだと思います。
一方で「気」とそこから来る”必殺技”が必ずしもそれ自体としては決定的な要素ではなく、通常攻撃同様戦闘を構成するいち要素としてある意味平準的に使われるのは、むしろ「技」派よりの現実主義的性格だとも言えるかもしれない。
最終的には技術性や物質性をより厳密に、狭義にとって、”「気」の概念によりかかったスーパーマンと超能力のバトルストーリー”という、いささか今更な(笑)レッテルを『ドラゴンボール』に貼り直すことによって、かなり「心」派の極に振れた位置付けを与えてみたんですが。
でもそれ自体としては神秘主義的な馬鹿げたレベルのものだとしても、スペックの差こそが決定要因だという非情さはまったく「精神論」的ではないですしねえ。ううむ。
ま、あんまり気にしないで下さい。(ええー)
次は一転して趣を変えて・・・・にも程がある(笑)吉川英治『宮本武蔵』を。

格闘描写の「技」と「心」、その5。
そもそも「格闘漫画」なのかという疑問はともかくとして。(笑)
以下、限りなく単なるドラゴンボール語り。
初代ピッコロ戦・舞空術・スペック
個人的には、『ドラゴンボール』が格闘漫画として本当に面白かった、または実体があったのは、だいたい初代ピッコロ大魔王戦あたりまでかなあと思っています。
勿論その後も楽しく見てはいましたが(アニメメイン派)、それは主にキャラの魅力やお約束への愛着によるもので、戦闘そのものはどんどん抽象的&大味になっていって、一時の緊張感は失われて行ったように感じました。
・舞空術という”飛躍”
その原因またはきっかけとして、まず挙げたいのは「舞空術」の習得&汎用化です。
こちらで確認したところ、時期としては2代目ピッコロ(マジュニア)戦あたりということですが、ともかく初代ピッコロ戦は”舞空術以前”最大最後の戦いと位置付けられるわけですね。
舞空術以前においても、ジャンプ力の描写とかは既に人の域を越えていて、それこそ空でも飛びそうな勢いの大げささではあったけれど、実際には飛べなかったわけです。それを如意棒の伸縮やカメハメ波の発射反動などでいちいち補うその苦労、その中に創意工夫があり、機知があり戦略性があり、一見お気楽な法螺話の中にも「格闘漫画」としての一定のリアリティがキープされていた。
だからこそ初代ピッコロ戦のクライマックス、カメハメ波の発射反動を利用しての悟空の体当たりパンチによって腹に大穴を空けられ、ついに無敵を誇ったピッコロ大魔王が倒れる描写にも、実にリアルな衝撃力と凝縮された万感の想いが感じられたのだと、そのように思うのですが。
作者自身もそれ以前に随所で(舞空術以前のほぼ唯一の飛行ツールである)筋斗雲を使えなくする設定を登場させて、そうした”縛り”を意識していたフシはありますよね。
「舞空術」そのものは恐らく数あるニューアイデアの一つとして導入されたものに過ぎないんだろうと思いますが、結果的に”格闘家”の世界を”スーパーマン”の世界に変質させる、タガを外す一歩になっ(てしまっ)た面は大きいと思います。
『大げさ』が『荒唐無稽』に”飛躍”してしまった瞬間と言うか。筋斗雲の立場はどうなるという哀しみも含めて。(笑)
・スペックの限界性の問題 〜マジュニア、界王拳、そしてスーパーサイヤ人
初代ピッコロがあれほど恐ろしかった理由は、やはり「魔族」という異種性、それによるスペック/基本性能の違いというのが、当時まだリアルにショッキングであったからだと思います。そりゃ悟空には尻尾が生えてましたし、天津飯には目が3つありましたが(笑)、それでもそれまでは結局は「人類」の範疇の戦い、(通常の意味の)天分と修行の成果の比べ合いのレベルの話であったわけです。(そして勿論戦略と)
・・・・確かに悟空の「大猿」という特例はありましたが、あの制御不能性、別モノ性は、逆に通常モードでのスペックの限界を示す縛りであったとも言えるわけで。
それがピッコロ大魔王戦後からは徐々に崩れて行きます。(年表)
印象としてはまずは2代目ピッコロ”マジュニア”の扱い。確かに強いことは強いんですが、お行儀良くも天下一武闘会になんて出て来て悟空たちと”好勝負”を繰り広げて、「魔族」の威光はどこへやら、単なる”肌が緑色のちょっと変わった人”というそんな存在感。(笑)
後の”改心”なんかそれに比べたら大したことではないような気がします。
そして勿論、続くサイヤ人&フリーザとの戦いの中で登場した「界王拳」や「スーパーサイヤ人」というズバリ”スペック拡張技”。
地球を飛び越えて宇宙人たちとの新たな次元の戦いのムードを醸し出す上で抜群の効果をあげたとは思いますが、結果的にその後の次々現れる強敵たちとの戦いの実相を、要するに半ば機械的なスペック拡張競争(”スカウター”なんてのもありました)、後出し的強さの無限インフレに単純化するそうした禁断の一歩でもあったと、これはまあ多くの人が思うところでしょう。
「格闘漫画」としての『ドラゴンボール』の命脈は、事実上これによって尽きてしまった。
(補足)『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』
やはり書いておきましょうか”そもそも『ドラゴンボール』は「格闘漫画」なのか”問題。
つまりその前の出世作『Dr.スランプ』における主人公アラレちゃん、そのギャグ漫画らしい身も蓋もない、リアリティも脈絡もクソもない”最強”さ、その”力”が振るわれる瞬間の不条理な快感、あれを拡張したものが要するに『ドラゴンボール』なのではないかということ。
言い換えると鳥山明先生の本領は”戦い”を描くことではなくて”強さ”の表現なのではないか、そういう意味ではフリーザ、セル、ブウといった敵キャラの造形の恐ろしいまでのキャッチーさも含めて、「格闘」としての実体は失われても毎度馬鹿馬鹿しくもワクワクさせられるキャラたちの(スペック主義的な)”強さ”の表現は申し分なく成功していると、そういう風にも見ることが出来るわけで。
まあ要するに初代ピッコロ戦あたりまでの『ドラゴンボール』の「格闘漫画」としての例外的な充実を懐かしくも惜しむと、そういうことにしてもいいですが。
・・・・しまった、本題に入れなかった。(笑)
















