ヴェルディ、代表、グラドル、漫画、アニメ、等
最終予選アウェーバーレーン戦
2008年09月07日 (日) | 編集 |
”岡田ジャパン”としては、完璧に近いゲームでしたが。

南アW杯最終予選 日本代表 ○3−2● バーレーン代表(マナマ)

問題はむしろ、「完璧」でこの程度ということの方かと。


最後はまた無駄に盛り上げてくれちゃいましたが。(笑)
それはまあ、いいかなというか、こんなもんでしょというか。
交代選手の意識付けは、確かに見直さないといけないし、また見直せると当てに出来る部分だと思いますが。

結局初手のプレス&ポゼスを抜けられた後がだらしないという3次予選からの問題がそのままで、多分そこはずっとそのままなんだろうと思うんですけどね。
いわゆる岡田流「攻守の切り替え」、とられたボールへの反応の速さ、”リ・プレス”というかそのプレーは基本、絵に描いたようによく出来ていて、その集中力の高さが、逆にそれしかないんだろうなということを窺わせるんですけど。

その後のプレーについては、どちらかというとウルグアイ戦の方が安定感があった、”終盤の失点”以前から、妙に淡白なところは定期的に見えていましたが、多分それは・・・・ウルグアイ戦は高い位置でプレスがかからなかったから、逆にその後もいい意味で曖昧で、分断されずに守りの準備が出来ていたんじゃないかと、ひょっとして今すんごくレベルの低いこと言ってます?俺。(笑)

まあもういいんですよ。ほんとにそういう引き出しが無いんでしょうから。行くか引くかなんでしょう、その中間は無い。10年前、フランスの時との違いは、”行く”覚悟と自信が、選手/日本サッカーの成長と実績の分大きくて、それで最後までやり切ろうと考えている、そういう「第二次岡田」ジャパン。うーん、分かり易い。
むしろ「引く」方の形をまだ出していない、ひょっとして意固地に心理的タブーになってるんじゃないか、そっちの方が心配かなと。ぎりぎりまで行っていよいよとなったら引くという、この使い分けが、多分岡田監督下で出せる現実的な"柔軟性"なのではないかと。本大会までには例のバーレーン・ショックのほとぼりを冷まして、ちゃんとそういうオプションの準備をしといて欲しいなと。


という前提で今後の真の課題は、行く時に行き切れるかどうかの方かと。攻め切りの精度を上げる。
・・・・つまり守備の課題はかいくぐられた後の備えではなくて、かいくぐ”られない”、ボールを失わないことによって応えるという、そういうことでもあります。無茶なようだけど、本当はもうちょっと何とかしてもらいたいけど、日本の国際的地位の見方の下限に近い方としては、ぎりぎりありかなと。もっと器用に出来ると思うけど。本当に加茂ジャパンに戻るような気はするけど。(笑)

後はだから、かける価値の”ある”リスクにするという、なんか順番逆のような気もしますが、それが出来れば一応の辻褄は合うわけで。で、それは確かに、加茂シャパンの時代には望めなかったことのはずで。
ポゼスもそうですが、ショートカウンター自体を、もっとふてぶてしい安定感のあるものに出来るはず。当時と比べても。ボールが取れる自信そのものが、既に違いますしね。狙いすまして人数かけたプレスじゃなく、”リ・プレス”とそこからの臨機応変でも、十分に計算は立つという。(本当かどうかは知りませんが)

えっと、ちょっと分かり難い書き方になってしまいましたが、本題はあくまで、ボール運び&崩しのクオリティアップ、組織力(つうか計画性)アップということです。
・・・・それもね、ひょっとするともっと割り切ったものになるかも知れませんね。つまり、攻め切ることよりも、ファールをもらうことを真の狙いとするような。この日の2得点はなんか笑っちゃいましたね。「俊輔のFK」と「遠藤のPK」、あと無いのは「中澤のCK」だけだなという。(笑)

多分憲剛なんかが取っちゃったから、調子狂ったんですよ(笑)。あれ?今日お祭りの日だっけと勘違いしちゃったんですよ。通常業務のペースが崩れた。
真面目な話、これら黄金パターンで例えばコンスタントに2点ずつくらい取れたら、満更得点力の低いチームでもないわけで。狙って取れる”その1点”は常に大事だというのと、素晴らしかろうと素晴らしくなかろうと、どのみち総得点は大して変わらないスポーツだというのと。ちょっと虚しいですが。

どうせラグビーモデルだし、トライよりペナルティゴール狙いで勝つという、そんな感じ?(笑)
まあ真面目な話、何らか割り切って臨むというのは実戦・本番に向けて当然の、むしろ「誠意」だというのは、北京の反町ジャパンのぼんやりした戦いへの苛立ちを思い返せば、誰でも納得がいくことだと思いますが。勿論本番はまだかなり先ですから、もう少し志を高く持ちたいのも当然のこととして。


で、現状を前提として、漠然と連携アップとか言っても多分どうもならないだろうと思いますから、手始めには、海外組、特に俊輔・松井抜きのチームをきっちり作る機会が欲しいかなと。”欲しい”というのはつまり、ある程度強制力が働かないと、岡田監督は心中するだけのように見えるからですが。
とりあえず次は松井が出停ですから、そこをお茶濁しじゃなく埋める中で、前線の機能性をもっと煮詰めて欲しい。そうしたことを積み重ねて、その上で仮に結局固定メンバーになったとしても、違う視点でそれを動かすことが出来るようになってるだろうと。

後はやっぱりFWですね、交代要員(この試合なら佐藤寿人)が親善試合でもないのに、「お試し」モード満開で入って来るようでは。ちびっ子軍団で連動性命で行くのなら、類似性の中での了解と逆に細かいキャラだちを、ちゃんと確立して欲しいというか確立したメンバーの数をきっちり揃えたいというか。
達也は多分”合格点”扱いなんでしょうが、どうも結局達也の個人能力でやってるだけという感じがまだ強いですね。玉田・大久保のハマり具合からすると。要は2トップになってるし。”し”てしまうという手も無くは無いですけど、ぎりぎりまでチームのアイデンティティは追求したい。標的絞られると、ちびっ子の辛さが出るだろうし。

まあこれからの転がり次第という感はあります。なんか監督が結構マジで、いちいち過剰反応気味なので、ならば良いタイミングで良い試練があって、良い修正作業が蓄積すれば、あるいは。それなりのものに、という。
少なくとも選手のレベルにチームのレベルが、本番までに追い付けばなと。


ああ。なんか最近、スピーチライターやってるような気分になることがあります(笑)。政治家か何かの。
現政権のというか。
これこれという政策が間違ってないという、体(てい)で書けと命じられてしこしこ書いてるという。
ええ他に何かご注文は?何でも書きますよ?(笑)


今週のモーニング(’08.9.5)
2008年09月04日 (木) | 編集 |
mor080905

オフィシャル

ソウルイーターネタがうまくまとまらないのでこっちで。便利だなあ。
マカちゃんもうちょっと以下略


『社長島耕作』

何だこの購買意欲を殺ぐ表紙は。
細目の釣り目の女がそこまで好きなのはあなたぐらいだって。

「差別」の基本は価値(の差)判断そのものではなくて、「力を持つこと」(「人の優位に立つこと」)とその「力」をふるうことそのものにあるので、本当に区別すること判断することに興味が向けば、自然と消えるというか存在できなくなるというか。逆に言えば「差別」自体は力の表現の、口実でしかないというか。
またこの場合の「力」というのは「社会的順位」「記号」そのものなので、社会がそれを差別だいけないことだと認定すれば、マイナスの記号を恐れて抑制はされるし、認定しなければ続くし。ただし例え抑制されたとしても、その場合も関心の焦点は依然「力」に当たったままなので、差別の契機そのものは健在で、隙あらばor別の形で、日々差別・・・・を口実とする力の行使は行われ続ける。

結局「力」への恒久目的的な関心の存在自体が問題なのであるし、逆に「判断」、「真理」「知」に関心がある人は、「いい加減な/お仕着せの判断はしたくない」という理由で、差別に関わる可能性は低くなるわけで。
「力」に生きるか「知」「真理性」に生きるかというのは、根本的な問題であり、全く違うタイプの生き方であり、出発点で食い違ったこの二つが、その先で交わることは無い。ではしばしば救済として語られる「愛」はどうかというと、特に「知」に生きる道にはっきり踏み出した人間にとっては、どうしても「力」側の現象のようにしか見えない。・・・・ただし「知への愛」というものも実在するし、知への情熱がそこでの「順位」への関心や非知への憎悪という形で「力」と結びつくこともあるので、そこらへんはそう立派とも言い切れない場合もある。(ので注意)

・・・・ちなみに冒頭の『細目の釣り目の女』についてですが、これは『細目の釣り目の女』に対する攻撃ではなくて、『細目の釣り目の女』への嗜好の過度で無自覚な強調に対する、バランス感覚の発動でつまりは一つの「真理性」へ向かう動きなので、差別性は薄い、ということで一応了解しておいて下さい。(笑)
本当はもっと感情的反応で、十分に差別の芽を内包したタイプの記述。

そうですね、結局「力」に関心のある人というのは、自分の"持ち物"を自尊心のよりどころにしている。対して「知」に関心のある人は自分の判断力、つまりは自分自身/自分の中にあるものを、自尊心のよりどころとしているわけです。そこが根本的に違う。

『かぶく者』

女の裸の描き方は割りと気に入りました。少なくとも池上遼一よりは上手い。(笑)
 
基本的に昔の人は、「動き」と「肉体性」を描くのはあまり上手ではないですよね。認知的な死角になっているというか。直視が出来ない。もしくはぞんざい。それなりに上手くても、何か彫像的な裸なんですよね。

『GIANT KILLNG』

多分この試合は、ジャイキリ中の"傑作エピソード"として認定されるんだろうと思います。
僕もよく描いた、とは思うんですけど、なんかなあ、理屈だけという感じがするんだよなあ。漫画的興奮が足りない。

『神の雫』

マリアージュの本義とかは当面分かりませんが、こうやって"合う"ものを探して行く作業は、やっぱり楽しいだろうなあとは思います。

『きのう何食べた?』

生き残られたら厄介だと、思われないような人間でありたいというのが一応の一般解なんですが、実は厄介な人、世話になるのに慣れ切った人というのは、そのこと自体に生き甲斐や絆を見出したりしているので、結局改心したりはしないんですよね。(笑)
敬意より愛を求めるというか。「知」と「力」の関係に似ていますが。

『特上カバチ』

さあどうなる?!、としか、言いようがありません。(笑)

『キャンディ -糖-』

一番感想の述べ難いタイプ。"キャンディ"の中国語題が"糖"だというのは、ストレート過ぎて笑いますが。

『エンゼルバンク』

うーん、東大くんに問題があるのは確かですが、今のところの話だと、どうも一般的過ぎるような。
「正解(という概念に)固執し過ぎる」。「社会を動かすのは感情だ」。それはそうだろうけどさ。
この程度だったら、少なくともそんなことは分かってるという、反論の準備は東大くんにもさすがにあるんじゃないでしょうか。・・・・まあ本当の中心は、"鼻で笑う"と"ため息"なんでしょうけどね。

『ひまわりっ』

健一を宮崎に呼び戻して逃げた、という感じもしますが。
まあ蟹江先輩の新たな面が見れたので、良しとするか。(笑)

『シマシマ』

相変わらずヒゲダンナはうさんくさいですが、ガイくんが頑張ってるのでこちらも良しとします。

『チェーザレ』

まだ16歳なのか(笑)チェーザレ。
今回はなんか、チェーザレとアンジェロの間の、ミゲルの立ち位置が活写されていてそこが良かったです。
どちらの本心とも微妙に離れてる感じがするんですが、逆にそれが、ミゲルの価値なのかもしれない。
"他人"も必要です。

『誰も寝てはならぬ』

冷房を欲しがる猫はいなかったなあ。
基本南の動物だし、物陰で充分みたいでした。コタツはうるさかったですけどね。最低温度でもいずれ熱くなり過ぎるので、「つけろ」「消せ」「つけろ」「消せ」と、そのたんびにコタツから顔を出すのがおかしかった。(笑)


んーむ、今日始まった『マイアミ・バイス』の幻の第5シーズン、かっこいい。


見上げて見る世界 〜『ソウルイーター』
2008年09月03日 (水) | 編集 |
ソウルイーター SOUL.1ソウルイーター SOUL.1
(2008/08/22)
小見川千明内山昂輝

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ソウルイーター SOUL.2ソウルイーター SOUL.2
(2008/09/25)
小見川千明内山昂輝

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”ストリート”と、”キッズ”と、恋人たち。 (公式)(Wiki)


趣味で二つ行った一つ目の大学時代、僕はある学術系のサークルに常駐していて、そこは学術系であると同時に微妙にガテン系の要素も入ったサークルで、大学自体もさる有名なマンモス校で、学部や一部二部でかなりの文化風土の違いもあるせいか、つまりは結構色んなタイプの人がそこにいたわけですが。

で、その中でもひと際異彩を放つ、ひょっとして元ヤンですかみたいな後輩がいて、仮にYクンとします。(笑)
Yクンは見かけはえっ、なぜ君はここにいるのみたいなところはありますがとても素直ないいコで、でもやっぱり話の端々に異文化の臭いはあって。ある時など別の後輩こちらもYさんとお茶などしばきながら、「Yクンと話してるとあれだよね、尾崎豊やブルーハーツの世界を、本当に生きてる人がいるんだなと感動するよね」と、嫌みと言えば嫌みな会話で(笑)盛り上がっていたことをよく覚えています。どこのセレブだお前らは。

付言しておくと我々昭和40年代生まれ(笑)が大学生当時、後にカリスマに祭り上げられる尾崎豊も、後に大人の心にも響く本物のミュージシャンになるヒロトも、何と言うか微妙な存在で。言いたいことは分からんでもないけど、幼過ぎるよねえと、少なくとも知的な大学生(うわあ)が真面目に取り合うような対象ではなかったんですよね。
尾崎豊など限りなくギャグに近くて、実際盗んだバイクで走り出したデビュー当時は、別に知的な大学生(笑)なんかではなく普通の中学生にとっても、「昨日ラジオで変な曲やっていて、夜中に爆笑しちゃったよ。あれ何?コミックバンド?」と翌日の教室が変な感じに湧き立つような、そういう存在でした。ネタなのか、マジなのか。

ちなみに僕もYさんも、パンク系や日本のロックを主に聴くそういう仲間で、別にタクは音楽と言えばクラシックしか聴かないんでざますわよおほほほとか、やっぱりロックはクリムゾンでとどめだな、後のは要らない、最近は専らアンビエントかワールドミュージックだとか、特にハイソでもセレブでも(笑)、そういうタイプではありませんざます。
ただバイクは盗まないし、ドブネズミみたいに美しくなりたいとは思わないだけです。


さて『ソウルイーター』ですが。これがまた実に、盗んだバイクで走り出す、ドブネズミみたいに美しくなりたい人たちの話で。正確にはなりたい「コ」たちですが。
別にヤンキーの話ではないですよ?(笑)、直接的にはかつて存在した、人々のマイナスの念が凝集した、世界を滅ぼす怪物”鬼神”の再来を防ぐ為に、武器(化した人間)と職人、(基本)二人一組のペアで戦う少年少女たちの愛と勇気と冒険と青春のストーリー(笑)ですが。
ただその彼らが生きている精神世界が、何とも単車窃盗と美麗ドブネズミなんですね。それに加えて言うならば、基本舶来の概念である、”ストリート”や”キッズ”が、洋風かつ無国籍な世界観の中で、妙にリアルに響きそうなそういう世界。

それを非常に端的にヴィジュアルに表現している、特徴づけているのが、彼らの(&それに誘導される視聴者の)「視線」。その位置と角度。
一言で言えば、低いんですよね。地べたというか。ゼロレベルというか。プラスするところ近い
ある意味ではリアルなんでしょうけど。つまりフィクション化されることによる、世界を俯瞰的に透過的に、ある種特権的に単純化して、一括的に先回りして把握する、そういう感覚がほとんど与えられない。五体で感じて、自分の足で移動して自分の目で見た分しか、世界は見えて来ない。多分直接的には、「子供の目」という意味なんだろうと思いますが。

そしてその時世界がどう見えるかどう感じられるかというと・・・・。うーん、「不安」かな。または「未定」。「無限」と言ってもいい。
人も、街も、建物も、全てが個物としての存在感をダイナミックに主張して、容易に記号に還元されずに、ともすればのしかかってくるように押しつぶしに来るように感じる。それは近代特に実存系の哲学的に言えば「主体」の危機ではあるわけですが、一方で世界と融和した、世界に抱かれた安心でもある。受け入れれば。当面はやっぱり、なんか妙に「狭い」感じはしますね。目の前にあるものが世界で、それで一杯一杯というか。

そこらへんは、既にこのOP及び(第一期)EDアニメーションのヴィジュアルあたりにも、十分に表現されていると思いますが。



・・・・ああ、いいな。このED見てると泣きそうになるんですよね。なんてかわいらしい!いじらしい。とてもかつて、プルーハーツを鼻で笑っていた同じ人物とは思えません(笑)。まあブルーハーツ自体は今聴き返してもうーんという感じなので、こんなバンド特には知りませんが、こういう「世界」を日本のロックが、完全に”モノに”したと、そういうことかも知れませんが。ここには確かにストリートがあり、キッズがいる。

そしてそういうのしかかってくる、取り囲んで来る、自分の存在の特別性を無化しようとして来る世界の中で、『ソウルイーター』の登場人物たち、子供たち少年少女たちはどうするか、どう生きるかというと、世界と融和して地球に優しくロハスに生きるかというと、八百万(やおよろず)の神に感謝してつつましく生きるかというとそんなことはなくて(笑)、目一杯自己を主張します。「クール」「スター」「シンメトリー」「男の浮気に理由があんのか!?」(?)、それぞれにスローガンを掲げて。
勝算は無いんですよね、はっきり言って。理屈も無い、理由も、ほとんど。気合あるのみ。この世界では最初から自分は特別ではないわけですから。しかしだからこそ、一点突破、狂おしい情熱と真剣味で、そのへっぽこな”武器”で世界の戸を叩き、自分はここだよと声を上げ、居場所を切り開こうとするわけですね。

で、まあ詰まるところそこらへんのメンタリティやリアリティが、尾崎・ブルハ的な不条理な情熱と言葉足らずと、通じるものがあるというか、こういうことかと、にせセレブな僕にも感じさせるという、そういうことです。
・・・・実際には尾崎もヒロトもそのものというよりは、微妙に本人たちは頭でっかちなところもあって、一回転した憧れみたいな、そういうものを表現していたところがあると思いますけど。ブルハで言えば真島の方がリアルというかナチュラルというか。本物は語らずにただ生きる。ただまあ、あんまり細かいことを言っても仕方ないので、尾崎やブルハが”掬い上げた”ものという感じで、納得しといて下さい。


翻って僕はどうかと言うと。「俯瞰」の人ですね。または「透過」「達観」の人というか。
別な言い方をすると、「高さ」「距離」の人です。最初から自分を世界と対峙的に、言い換えれば「自分」を特権的な位置に置いている。置こうとするというか。これはもう、ほとんど生まれつきで、逆に他のあり方を僕は知らないわけですけど。
ただこれは言うほど特別なわけでもなくて、現代日本の一定以上の知的・教育的水準に生まれた人間なら、多かれ少なかれこういう傾向は持っているだろうと思います。そしてそういう人たちによって担われる、アニメ等表現メディアが基本的に持っている/伝える世界観、生活感も。

ちなみに上で言ったように、尾崎もヒロトも根本的にはそれほど大差は無くて、ただそういう遠さや他人事性客観性に嘘臭い・物足りないものを感じて、あえてああいう表現の世界に踏み込んだのだと、そういう風に僕は思ってますが。キャロル/永ちゃんとかはどうなんでしょうね(笑)。銀蠅なんかは相当にメタな臭いも、当時からありましたが、でもまあ、少なくとも半分程度は本物か。

ともかく、子供の世界や不良や馬鹿や、下層階級的世界を描いた作品自体は過去にも数々ありましたが、”描写”というレベルを越えてここまで妙な「体験」感「渦中」感を感じさせてくれるアニメは、個人的には初めてです。

多分これは単により「近い」より「本物」というような即物的なことではなくて、もう一つの別の要素、例えば太陽や月が顔を持っていて喋るというような表現に分かり易く出ている、この作者(大久保篤)独特の”アニミズム”的な感性が、大きく影響しているというか、ストリート/キッズ感覚とアニミズムの合作というか。
だから実際に作者がYクンのように、尾崎・ブルハの世界に生きているかどうかというのはさほど問題ではなくて、そのような生活感をも、あるいはあらゆる存在物の息遣いをそれぞれに、生き生きと表現する、等価に発揮させられる、そういう感受性・才能を、この作者は持っているんでしょう。正直見てる範囲で、作者の教育水準や生活背景を、僕は推測出来ません。

更に言うならば、そうした「低」くて「近」い目線を特徴とする本作ですが、かと言って単に泥臭いわけでも増してドキュメンタリータッチという意味でリアルなわけでもなくて、基本的にはバカ話ホラ話であり、見栄とハッタリの様式美の世界であり、そこらへん、第一期第二期通じて代名詞的にOPを飾るのがT.M.Revolutionであるというのが、何か非常に分かるバランスですが。
切なく暴力的に疾走しつつ、でも”美”至上主義的。原色中心の色彩感覚も、独特ですね。


・・・・んーーーと、”恋人たち”の話は別にした方がいいかな。マカちゃん、ちょっと待っててね。(笑)


’08.8月のブログ拍手
2008年09月02日 (火) | 編集 |
結果的に、そこそこバラエティに富んだ月に。


1位 『太王四神記』は面白いよね (8/16) 17

2位 東京V−浦和(’08) (8/25) 15

3位 FC東京−東京V(’08) (8/24) 10

4位 東京V−新潟(’08) (8/10) 
4位 鹿島−東京V(’08) (8/17) 
4位 フル代表ウルグアイ戦 (8/21) 

7位 北京五輪アメリカ戦 (8/8) 
7位 北京五輪反町ジャパンまとめ(編成編) (8/14) 
7位 北京・反町まとめ(テーマ編1) (8/20) 
7位 北京・反町まとめ(テーマ編2) (8/22) 

11位 FC東京−東京V(’08)[つづき] (8/25) 

12位 こういうこともあるんだ (8/6) 

13位 白鳥百合子さん(’08) (8/19) 
13位 真木よう子さん(’08) (8/26) 


何と1位は『太王四神記』。谷間にこそこそ書いたのに。(笑)
当初単に女子票が集中してるのかなと思いましたが、実際には検索でピンポイントに、大量に一見さんがいらっしゃった結果のようです。ミクシーかどっかにリンクでもされてたのかなと思いますが、具体的には分かりません。
しかしどうも聞く話によると実際にはこの傑作の日本での視聴率は伸び悩んでいるということで、色々と理由はあるようですが「日本人には難解だから」という意見もあって、それが無視する気になれないのが悲しいところ。
結局のところ漫画とアニメにしか、まともに知能の働く客が(層として)育ってないんだろうなということは常々感じるところで、オタとかアキバとか、馬鹿にしてる場合じゃないというか、目明きを笑うめ○らどもというか。

2,3位には最近のヴェルディの好調を反映する結果が。
レッズ戦とか、勝ってもいないのにそんなにはしゃいでいいのかい?というところもなくはないですが(笑)、まあ「ラモスが一緒にやりたい」あたりがウケたのかなと、自賛的に推測。
余計な御世話のFC東京評(11位)も、出足は鈍かったんですが最終的にそこそこの反応があって、それがFCサポによるものなのかは分かりませんが、何となくホッ。

反町ジャパン関係は・・・・つまり、反町ジャパン自体が「6点」だ(10点満点で)という天の声ということで、よろしいでしょうか。(笑)

『こういうこともあるんだ』というのは、タイトルだけじゃ思い出せないかもしれませんが、要するにロンハー格付けにおける、淳のmisonoへの優しい対応に駄目出しした例の記事です。
かなり感じ悪いこと書いてる自覚があったので、意外な支持に驚きました(笑)。皆さん、同感だったのね。or misonoが嫌いなのね。
昨日のヘイヘイヘイでは、ダウンタウンが盛大に、きっちり、misonoを虐待していて、さすが分かってるなという感じでしたね。

白鳥、真木さんエントリーは、対象への関心・好意の高さなりというか、画像貼る手間かけた甲斐分というか、そんな感じ。まあ「論」がどうというよりも、まとめて経歴知る機会もそんな無いでしょうから、そういう価値はあるのかも。これからも適宜頑張ります。(笑)


ではまた、来月。


井上和香さん(’08)
2008年09月01日 (月) | 編集 |
井上和香 和香白書井上和香 和香白書
(2006/09/22)
井上和香

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この"最新"のDVDにして2006年で、グラドルとしては半引退状態の井上さんですが。
でもカレンダー

井上和香 2008年カレンダー井上和香 2008年カレンダー
(2007/10/08)
不明

商品詳細を見る

だけは出すというのが、業界の慣習。
だからアマゾンの検索上位でカレンダーが来ると、ああ、活躍してないんだなと、逆にそういう感想を持ちます(笑)。さすがにもうちょっと頑張って(?)くれないと、(’09)はネタ(つうかタマ)が無いかも知れません。

1980年生まれのもう28歳だから仕方ないのかも知れませんが、元々そんなに若々しさの無い(笑)、でろっとした感じの体だから、少々緩んでもいけるんじゃないかと思うんですが、それとも油断していよいよ洒落にならない感じになってるのか。・・・・画像集めてる時に見かけた、最近逆に見直したというあるブログのブログ主さんが、それまで興味を持てなかった理由として「自分の生まれる前の人だから」と書いていて吹きましたが。

28歳だから当然年下のブロガーも少なからずいるわけですけど、何もそんな言い方せんでも。(笑)
世の年上女性の立場は?
まあ確かに、自分より年上で(グラビア)”アイドル”と言われてもねというのは、素直な感情としてあるかも知れません。僕はもう年取っちゃったから、まず大丈夫ですけど(笑)。・・・・でも本来は”偶像”、憧れる対象のはずなんだから、少々上でも問題無いはずなんですけど、まあ実際上はペットやおもちゃに近いということなんでしょうね。特に”グラ”が付くと。でも僕は、存在自体に、感謝と尊敬の念を、常に抱いていますよ。(笑)


そんな井上さんは、日々バラドルとしての活動にいそしんでいるわけですが、どうもパッとしません。
見かける頻度としてはそこそこなんですが、なんかどういうラインにも、特にハマっていないというか。
そもそもバラエティのスタジオ(トーク)に入った時点で、色/エロ気で売るのは難しくなるんですよね。単に衣装の露出度を上げても、浮くというか逆にうるさいというか。

だから少なくともグラドルとしての、肉体そのものの魅力に根差した色気では通用しないというかエロくすらもないというか。トークのテクとかいう以前にね。
必要となるのは一つは着衣用の(笑)、別の種類のエロ、見せ方。例としては、あんまり言いたくないけど分かり易いところで叶姉妹みたいな。ああ、それ以前に藤原紀香というのがいましたね。別に彼女らの水着が見たいとは思わないわけですけど、年齢別にしても。

で、それはそれとして、広く言えば人としての魅力ですが、狭く言えば(笑)いじられ方、新たな「ペット」「おもちゃ」のなり方みたいなのも必要で、そこが安定すると、バラエティでの立場も安定する。
更に言うと、経験的には”グラドル”として持っていた魅力は、そういう形で初めて、再び醸し出されるようになるように思うんですよね。違う次元での同一キャラの再現というか。

上で言った、”着衣用の”エロというのは、非常にプロデュース優位の言わば攻撃的威圧的なもので、基本おもちゃであるグラドルとは、根本的に合わないような。
まああんまりおもちゃと言うとナンですが、結局のところ、グラドルは非常に”素””裸”を、見て「もらっ」て認めて「もらっ」て、そうして愛されるという、そういう構造がメインなわけで。着けてる布が少ないからと、言ってしまえばそれまでですが。(笑)

過酷ではあるけれど優しい世界でもあるわけですよね。そこに聖性もある。
そういう勇気ある積極的受け身・捨て身みたいなもの、それをいかにバラエティという新たな場で発揮するか引き出してもらえるか。

ちなみに僕がほしのあきが駄目なのは、コントロールがうるさ過ぎるからだと思います。
サービス満点、あなたのあきよと頑張ってるようで、全然捨ててない。安全な所にいる。かわいくない。
インリンとかもそうかも。まあ彼女の場合は、仕様かも知れませんが。


さて具体的に井上さんの、これまでに見えるバラエティ的可能性としては・・・・マゾ性かな、ぐるナイごちのレギュラー時に、サド矢部によって引き出されていたような。あれは最高でしたね。
ただややこしいのは本人ほとんどそういう自覚は無いというか、そもそもバラエティへの登場の仕方(フジSDM発!のレギュラーMC)にしても、毒舌の女王様的な仕切り役としてでしたし。

おそらく人生の多くの部分を、そういう感じで過ごして来て、その更に奥にある”本性”としてマゾ性があるんでしょうけど、なかなかまだ思い知ってないというか(笑)追い込まれ切ってないというか。
その聞き分けの悪さが、ぐるナイでもダイナミックで面白かったんですけど。
グラビアもそうですよね。基本威圧的というか、うっふーんあっはーん、ワタシ色っぽいでしょとこれ見よがしなんですが、実際には行き切ってないというかむしろ汚されてるのは本人みたいな複雑な印象のものが多くて。

そこらへんが、番組によっては、ボケてしまうというか何にもなってない場合がしばしばある。うまくいじられずに所在無げで、とりあえず色気担当なんだけど上記のようにそれは簡単なことではない。
本人的にも、基本の部分で挫折感はあるんだと思うんですよね。つまり”モンローと同サイズ””フジイチ押し”(日テレジェニックですけど)みたいな感じで華々しくデビューして、かつその時は女王様キャラで。
それが今いちブレイクし切れないまま、それと共に"女王様"でいるのもかっこつかなくなって。

まあ、マゾ井上和香としては、そのうらぶれた感じも悪くはないんですけど、"味"というより単に寂しげに見えることも多くて、いじめる気にもならずにサドとしても困ります。(笑)
DREAM (格闘技ね)の仕事とかね、痛々しくて見てられませんが。まああれは、格闘技イベントに呼ばれたグラドル系全般に共通する悲哀ですけど。呼ぶのが悪い、もしくは使い方が悪い。みんなが紀香や小池栄子みたいに詳しくなれるわけはないわけで、どんなコだってデクの坊にならざるを得ない。
まあ紀香も本当のところ面白いこと言うわけじゃないし、小池は詳しいけどそもそも色気担当の役割の方がこなせてない(笑)しとそれはともかく。


かえすがえすもごちで負けた(レギュラーはく奪)のが残念だなあとか、そう言えばロンハー格付けには出ないのかなとか。盛大に泣かされてるところを見たいなあ。(笑)
いずれにしても、どこかで吹っ切って、ある程度自力でマゾ性を出せるようにしていかないと駄目だと思いますけど。マゾ女王。にしおかすみこみたいですけど(笑)そういうことじゃなく。

とりあえず、グラドル露出の方もよろしく。お決まりのところで。
元々古風というか保守的な体なだけに、結構オールタイムな良さはあると思うんですよね。上のブロガーとかもそうですが、割りと再発見的な取り上げ方をしている人はまま見かけますし。立て!世の厨房&工房。おねえさんを救うんだ。

グラドル数多いる中で、何かしら常に異彩を放っている人ではあると、画像めぐりをする度に、思います。


’08.7月期アニメ・スタッフノート
2008年08月31日 (日) | 編集 |
客のいぬ間にどんどん行くぞ、泡沫更新。


『鉄腕バーディ DECODE』 (Wiki)

テレビアニメらしいテレビアニメで、非常に楽しんでおります。癒されます。回り回ってとってもゆうきまさみらしい"軽み"が、よく表現されていると思いますし。
バーディ役の声優(千葉紗子)さんの演技も、とてもいいです。"リラックスした三石琴乃"という感じで、ほんとにただのねえちゃんで、でもそこそこ情があって。その何でもなさ加減に、ひどく「女」を感じます。「次回予告」での"有田しおん"の、「でもバーディーさんがぐわーっ」がやたら好きです。(笑)

・・・・と、ここまで書いてから初めてWikiを見たら、前回OVAでアニメ化された時は、正にその三石琴乃さんがやってた役なんですね、なるほど。さもあらん(笑)。では本題。

監督 赤根和樹
シリーズ構成 大野木寛
原作は言うまでもないので良しと。

監督は・・・・おお、エスカフローネの人じゃないか。微塵も似てないですけど(笑)。何事かというくらい、似てない。
それが逆に、力量を感じると、そういうことにしておきましょう。エスカフローネは好きでした、ちょいたるいけど。OPがスローチューンなのが意表をついて、てっきりそういう"耽美"の人かと思ったのに何だこの軽さは。(笑)
他に目ぼしい監督作品は無いですが、『アクエリオン』に参加していて(ていうかそれ以前にエスカの構成河森さんですが)、それが次の項に関係する模様。
シリーズ構成の大野木さんは、マクロスシリーズ&アクエリオンの、河森監督の盟友。
多くの作品の脚本を手掛けているようですが、「シリーズ構成」としてクレジットされているのは、アクエリオンとか『結界師』とか。結界師?またとりとめがない。

作品自体の印象もそうですが、総じて言うと"プロ"の仕事でしょうね、"職人"というか。作風とかエゴとかじゃなくて。ただ別に"渋い"わけでも殊更我を抑えてるわけでもなくて、普遍的な快感原則や様式に従って、素直に作っているという。
"ポップ"ですね、「歌謡曲」やTKハロプロまでは行かない。個人ではある。でも我ではない。

とにかく、リラックスした作品です。


『スケアクロウマン』 (Wiki)

キャラものの常で、既に少々飽きて来てますが(笑)。いいのは分かった、でもこれ以上見なくてもそれはそれで別にいいかなという。映画化されるらしいですが、むしろそっち向きかも。一発勝負。
思うんですが話にメリハリをつける為にいるはずの、「一人だけ俗物」"Mr.ベスト"が、逆にブレーキになってるかなと。いっそ子供といい人たちだけで、甘さを徹底追求した方が。

原作 中野シロウ、play set products (絵本)
監督 竹内啓雄
シリーズ構成 日吉恵

play set productsとは、「2002年より活動を開始した中野シロウ、西塚耕一、中原正博の3名によるデザインチーム。同年発表された、「モダンペット」が現在もヒットを続けている他、マリレオ、コケピ、カリーノ・コニなど、さまざまなブランドを発表。絵本や雑貨など多くの製品が発売され人気を博している」んだそうです。公式より。
番組開始時に耳に入って来たアメリカの3DCGアニメの本流"ピクサー"との関わりですが、ググった範囲では単にピクサー作品のグッズ製作の下請けに、デザイナーとして一枚噛んでいるとかその程度のことのようで、つまりあのピクサー風味・アメリカ風味は独力ということか。

監督の竹内啓雄さんは『ベルばら』『エース』『ジョー』の出崎統さんの弟子で、それなりに古い人のようですが、それ関係以外の単独で僕が馴染みのある仕事は無いですね。アニメだけどヲタとは無縁の世界の、古き正統派というか。
シリーズ構成の日吉恵さんは・・・・アンパンマンの人、かな。多分まだ若い人だと思うんですけど、データが見当たりませんね。

全体として、原作の世界観を壊さないことに集中してる感じで、映像を筆頭に時たま感じる鋭さも、そもそものデザイナーのセンスと、副監督兼CGディレクターの下山真吾という人の功績かなという感じですが、でもCGの"技術"が突出しているだけのものは、僕はすぐに違和感を感じるはずなので、やっぱり監督も偉いのかなと思いますが今んとこ不明です。

面白いのか面白くないのか、というか、この世界をメタな感じで作っているのかそれともそのまんまなのかも含めて、色々はっきりして欲しいです。(笑)
ああ、アリスちゃんは榎本温子なのか(カレカノの雪乃)。分かるような、分からないような。

『太王四神記』と『タワーリング・インフェルノ』
2008年08月30日 (土) | 編集 |
タワーリング・インフェルノタワーリング・インフェルノ
(2008/04/11)
スティーブ・マックィーンポール・ニューマン

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あらかじめ言っておきますと、『太王四神記』そのものとは直接関係の無い話です。どちらかというと、『タワーリング・インフェルノ』礼賛記事。
ただ前回、「テレビドラマ」(と”史劇”)という基準でアメリカ代表としてスタートレックDS9を(『太王四神記』の)比較対象として挙げながら、でも劇場映画ならもっとぴったりなのがあるんだよなと微妙に心残りだった作品なので、サッカーも無いことだし書いておこうかと。


まず『タワーリング・インフェルノ』という、かつての大ヒット作ではあるけれどA級の映画史には残っているかどうかは、微妙な知名度の(笑)作品について説明しますと。 (Wiki)
1974 年製作、新築の超高層ビルに発生したビル火災によって巻き起こされたパニックと、それをめぐって繰り広げられる、様々な人間ドラマを描いたパニック大作。 Wikiにあるように基本競合的な関係にあり、それぞれが芸能プロ的に"スター"を抱え込んで売り上げを競っていた当時のメジャー2社(ワーナーと20世紀フォックス)が諸般の事情で共同で制作した、それによってスティーブ・マックイーンとポール・ニューマンの"夢の"ダブル主演が実現した、それ以外にもウィリアム・ホールデン、フレッド・アステアなど現在にも名前の残るオールスターキャストが売りの、どメジャーエンターテイメント作品。

数多ある”ハリウッド娯楽大作”の中で、この作品の大きな特徴、特別性は、まずその製作年代そのものにあると思います。
具体的に1974年というのはどういう年代かというと、一言で言えばかの「アメリカン・ニューシネマ」(運動)が終息期に差し掛かったという、そういう時期なわけです。アメリカン・ニューシネマとは何ぞやという詳しい説明は(Wiki)の方を見てもらうとして、とりあえずそこに載っている代表的作品を、製作年代を気にしながら抜粋・羅列しますと。

 『俺たちに明日はない』('67)
 『卒業』('67)
 『イージー・ライダー』('69)
 『明日に向かって撃て!』('69)
 『いちご白書』('70)
 『フレンチ・コネクション』('71)
 『ダーティ・ハリー』('71)
 『スケアクロウ』('73)
 『カッコーの巣の上で』('75)
 『タクシー・ドライバー』('76)

だいたいどういう"運動"、どういうタイプの映画だったかは、一目瞭然ですね。青春と反体制と個人と実存。暴力とセックス。映画版パンク。(順番逆ですが)
『イージー・ライダー』以外は、個人的にも面白いと思います。ちなみに一番好きなのは、あえて抜粋してない『ワイルド・バンチ』('68)ですが、あれはむしろ普通に西部劇として見たいので。西部劇自体が、偉大なんです。個人と実存なんです(笑)。ペキンパーなら、『わらの犬』('71)の方が、ニューシネマっぽいと思います。

それはともかく、見ての通り、この年表(?)で言えばスケアクロウとカッコーの間、そろそろ終わりかというあたりに、『タワーリング・インフェルノ』は挟まります。そしてこの年代には意味があると思うんですね。

つまり、見方にもよると思いますが、「アメリカン・ニューシネマ」は確かに旋風を巻き起こし、"成功"し、いち時代を築いたわけです。芸術的にはもちろん、商業的にも。
それは例えば、類似の文化運動であろう、音楽におけるロンドン/ニューヨーク両”パンク”が、アメリカのメジャー音楽界に直接的にはほとんど足跡を残せなかったのと比べれば、歴然と。

だからいっとき確かにアメリカ人にとって「映画」の概念は変わって、主にセット撮影で、ちまちまと舞台劇の延長風の、あるいは"映画スター"たちが夢の世界を繰り広げる伝統的な「映画」は、"ダサ"いものとなって観客から見放されかけたわけですね。もっと荒々しい、リアルでドキュメンタリータッチの、そういう「映画」が、かなり一般にも求められるようになったというか、受け入れられたというか。
内容的にだけでなく、製作基盤的にも独立系の、従来のメジャーの束縛から逃れた形のものが多くなって、それまでのハリウッドを支えていた人たちには、大きな脅威だったようです。

そうした傾向が収まりかけた頃に、あるいはそうした"ニュータイプ"に対する"オールドタイプ"の返答、逆襲、あるいは一種の意地として、「超メジャー大作」『タワーリング・インフェルノ』は作られたと、そういう印象を僕は受けるんですね。どや、これがハリウッドの底力や。(なんで関西弁?)


実際これは面白いです。
売りの"オールスター"も単に並べただけでも個々の"スター"へのスポットでファンを引っ張ろうという短絡的なものでもなく、ついこの間までのど真ん中主役級スターのウィリアム・ホールデンを、マックイーン&ニューマンの若手二人の引き立て役/仇役的に、分からず屋のホテル・オーナーとして配するという渋くて贅沢な使い方をしているのを筆頭に、あくまで「俳優」として、きちんと"使って"あります。そのクールな遠近感がいい。
それでいて最終的には「スター映画」でもあって、それぞれのスターに必要十分なエピソードと見せ場が用意されていて、「スター」の華や、ヒーローたちの活躍を、ちゃんと楽しめるようになっている。

ここらへんはこの作品に限らず、多人数多エピソードストーリーを捌く基本となる、いわゆる”群像劇”手法についてのアメリカ人の圧倒的な技量とノウハウの蓄積を感じるところですが、この作品はある種究極のものを感じます。
本質的にリアリズム寄りの「群像劇」手法と、「スター映画」手法との、高い次元での融合というか。二つの拮抗関係が、最後まで崩れない。

ま、一言で言えば脚本と演出が優れているということで、そういう意味ではあくまで「単体」としてのこの作品の良さを語る方が正しいのかもしれませんが、それでも最終的にどうしても僕がこの作品の特徴として感じてしまうのは、その相対的位置から来る特異な緊張感なんですね。
メジャー2社合作となったこと自体は半ば偶然のようですけど、そこから生まれる、ハリウッドの"総力"を集めた勝負作という緊張感。同じくなわばりや社内文化の縛りを取り去って、一心に"娯楽"という目標に向かうダイナミズム。「ニューシネマ」の洗礼を受けた、あるいは一回否定されかかった後で、しょぼいのや「やっぱり古い」と言われてしまうようなのを出すわけにはいかないという、上記タイミング的な問題。

結論としてはこの作品は大成功を収めます。ヒットもしましたし、正に僕のようなタイプの後代の日本人視聴者がこのような文章を書いているように(笑)、内容的にも十分に"ニューシネマ後"の観客を満足させます。
生まれ変わった、というのと同時に、「やっぱり面白い」と伝統手法の良さを再確認させたというか。実際有力な先例として、以後の"ハリウッド大作"的な製作手法の、映画界での地位を確保したと、そういうところはあったようです。

まあ"スター"と言ってもマックイーンやニューマン、それに『俺たちに明日はない』のフェイ・ダナウェイといった、ニュー・シネマの「血」もしっかり入れて、また大がかりながら全体的にはクールでリアリスティックな演出で、それほど"オールドタイプ"でないと言えばそうなんですが、やはり基本構成として決して「ニューシネマ」の脈絡で出て来るような作品ではないのでね。